いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

鳥居~セーラー服の歌人~自死と虐待を超えて

2019-08-01 17:29:46 | 短歌


鳥居。
セーラー服の歌人。
はるか昔に中学を中退した。
そののち、中学に復学することを志願。
ところが、学校は、すでに中学を卒業しているから、
と受け入れなかった。
そこで、鳥居は、抗議の印として、
公式の場にでるときは、必ずセーラー服を着用することにした。
これを機に、文科省が動き、2015年、中学の形式卒業者を夜間中学校に受け入れるよう、全国に通達を出した。
鳥居は、凄まじい過去を持つ。
2歳のとき、両親が離婚する。
小学校5年のとき、精神を病んでいた母が、自死した。
のちに、そのときのことを繰り返し繰り返し作品にした。
それ以来、学校にはいけず、
小学校、中学校は不登校であったが、
国は、「形式卒業者」として、
中卒扱いとした。
既述のように、それに抗議して中学に通いたい、という彼女の願いが、
文科省を動かしたのである。
母が自死したあとは、叔父に虐待され、
養護施設に入っても凄まじいいじめを受けた。
成り行き上、あるときから、ホームレスとなった。
当然、漢字は書けない、読めない。
落ちている新聞を読んで、漢字を学んだ。
そして、あるとき、穂村弘の短歌に感動し、
作歌をはじめる。
歌人吉川宏志に手紙を出し、生い立ちを明かした。
彼から、歌を作ることを勧められ、
短歌の創作を始める。
2016年、最初の歌集「キリンの子」を出版。
歌集としては異例の2万部が売れた。
2017年、第61回現代歌人協会賞を受賞。
それ以来、作歌、小説創作を続けている。
現在でも、公式の場に出るときはセーラー服を着る、
と言われる。
作品は、少しずつ紹介するつもりであるが、
2つだけ例を挙げる。

①母が自死したときの歌

灰色の死体の母の枕にはまだ鮮やかな血の跡がある

②中学生の時、友人が飛び込み自殺をしたときの歌

しゃがみこみ耳をふさいだ友だったあんなに大きな電車の前で
警報の音が鳴り止み遮断器が気づいたように首をもたげる
君が轢かれた線路に積もる牡丹雪「今夜は積もる」と誰かが話す

彼女は健在であり、
限られた範囲ではあるが、情報を得ることもできる。
















と受け入れなかった。





母性の歌人五島美代子~美智子上皇后の師~

2019-07-31 20:47:19 | 短歌


美智子上皇后の歌の師であった五島美代子。
母性の歌人と言われる。
子を大事にした。
次の歌は、すでに紹介した。

……

亡き子来て袖ひるがへしこぐとおもふ月白き夜の庭のブランコ

大切に育て、東大が初めて女子を受け入れたとき、
本人の意志にしたがって、入学させた。
それだけでは足りず、自分も東大に聴講にいった。
ところが、娘は、母の期待を負いきれず、自死してしまった。
その娘を幻の中で見たのが、この歌をつくった動機となった。

それだけでなく、
ことごとく母性に殉じたことが特筆される。
次のような歌も詠った。

……

身を分けていのちも魂もしかも身にまかせぬものを母といふなり

娘を失って、呆然とする姿を彷彿させる。
自分を賭けて育てていた娘を失った悲しみが、身を貫いたのである。
そして、ついには、次のような歌を詠んだ。

……

吾死なば亡き子をふたたび死なしめむわれのみが知る子よ永遠に生きよ

母性に満ち、子を大切に思っても、
次の世も、子を死なせるまでに歌を詠むであろう、と
鬼のような自分の作歌意欲に向かい合わねばならなかったのである。

そのような激しい意志が、
美智子上皇后に歌の心を伝えるよすがとなったのであろう。










きょうの短歌①~死なれざりけり~

2019-07-23 20:10:25 | 短歌


落合直文は、明治を代表する歌人である。
次の歌が代表作である。

……

父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり

明治の親子である。
長い病床にある父に、子が挨拶に行く。
いつもの習慣かもしれない。
あるいは、母に命じられたのかもしれない。
いずれにせよ、父は、ほっと一息をつく。
あるいは、重病のため、夜中「死にたい」と思い続けていたのかもしれない。
また、子に挨拶されたとき、まさに「死のう」と思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、
子の、愛情に満ちた、
礼儀正しい仕草と態度に、
胸を突かれたのである。
この子達を残しては逝けない。がんばらなくては。
病床の父は、改めて、生への意欲を蘇せられたのであった。

子は、宝。
















連作「生存について」~アウシュビッツの男~小池光

2019-07-05 18:35:56 | 短歌


小池光の連作に「生存について」がある。

……

①草叢に吐きつつなみだあふれたりなんといふこの生のやさしさ
②ナチズムの生理のごとくほたほたとざくろの花は石の上に落つ
③かの年のアウシュビッツにも春くれば明朗にのぼる雲雀もあるけむ
④夜の淵のわが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる
⑤ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せにいったであらう
⑥隣室にガス充満のときの間を爪しゃぶりつつ越えたであらう
⑦充満を待つたゆたひにインフルエンザの我が子をすこし思ったであらう
⑧クレゾールで洗ひたる手に誕生日の花束を抱へ帰ったであらう
⑨棒切れにすぎないものを処理しつつ妻の不機嫌を怖れたであらう
⑩夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして
⑪現世のわれら食ふための灯の下に栄螺のからだ引き出してゆく
⑫沢蟹のたまごにまじり沢がにの足落ちてゐたり朝のひかりに

これは、現代日本の中年男性が、アウシュビッツ収容所のナチ党員のことを思う、という状況を設定して、この両者の共通性に思い至るようにしむけている。
①で、情けなくも酔っぱらって草叢に吐く、情けない中年日本男性の姿を描く。
②では、一転して、「ナチズムの生理」という言葉を出して、読者をびっくりさせる。どういう脈絡なのか?
③では、アウシュビッツでも日本でも春、雲雀が鳴くであろうことを詠う。隣り合わせなのである。
④は、この連作の意味的要約である。ナチ党員であることと、善き父親であることは、容易に共存する。
⑤~⑨は、すべて「あらう」で終わる。④で述べたことの具体的姿である。
⑩~⑫の終結部では、日本の中年男である主人公の生活が、丁寧に描写される。

このように、いかに異常な事態も、日常の何気ない出来事と併行して起こることを詠っている。
短歌集を読んでいると、突然人間に共通する理不尽な状況を目撃させられる。
そうして、自らの立つ地盤の脆さに、思い至るのである。

そう、魚やカニを食べ、子どもを公園に連れていくことと、ユダヤ人をガス室で殺すことは、なにげなく両立するのである。

……

この連作によって、小池光の才能が、弾けるように展開されている。

















「老い」の歌三題~窪田空穂・斎藤茂吉・宮柊二~

2019-07-02 19:29:16 | 短歌


歌人にとって、「老い」と「死」は、人生の最期に残された課題である。
わたしたちは、すぐ前のことを忘れるのに、ずっと以前のことを覚えている、
という不思議な性向をもつものだが、老境に至ると、
その傾向は、さらに顕著となる。
10代のことを直前のように思い出す老人は、多い。

さて、ここでは、窪田空穂・斎藤茂吉・宮柊二の対照的な老いの歌を、
摘記しておきたい。
……

窪田空穂は、長命で、亡くなる寸前まで明瞭な意識をもっていた。

ありうべき最悪の態つと浮かび見つめんとするに消え去りにけり
若き日は病の器とあきらめぬ老ゆればさみし脆き器か
世の常の老ひの疲れかもの憂さの襲ひ来たりて果てしなげなる
いかなる心をもちて死ぬべきとあまた度おもひぬまたも思ふかな
四月七日午後の日広くまぶしかりけりゆれゆく如くゆれ来る如し

斎藤茂吉は、晩年は認知症ぎみではあったが、すぐれた歌を残している。

この体古くなりしばかりに靴穿きゆけばつまづくものを
肉体がやうやくたゆくなりきたり春の逝くらむあわただしさよ
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
あはれなるこの茂吉かなや人知れず臥所に居りと沈黙をする
朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥す
……

このように、2人には老いによる人生の静かなる終末意識がある。
これに対し、宮柊二の歌は、老いと病の混交した姿を思い浮かべさせる。

すたれたる体横たへ枇杷の木の古き落ち葉のごときかなしみ
台風の夜を戻り来て人生を長く生きこし思ひこそ沁め
寝付かれず夜のベッドに口きけぬたった一人のわが黙しゐる
脱ぎし服ぞろりと垂るる衣文掛けわが現状はかくの如きか
腕と足目と歯と咽喉すべてかく不自由に堕つ老人われは
幻覚にしばしば遊ぶ体調に意識乱るるこの二三日
……

宮柊二の場合、病に衰える身体へ客観的な視線が感じられるだろう。

三人の歌を並べてみると、老年をいかに迎えたか、による違いが、はっきりと見て取れるように思われる。



























老いる前に病んでしまった宮柊二の悲劇~ミヤリイノ・シュージノヴィッチ~

2019-07-02 17:35:29 | 短歌


斎藤茂吉や窪田空穂の老境を詠った名歌は多い。
「老い」の文学を形成することができたのだ。
ところが、宮柊二の場合、こうした静謐な老境を詠う、
ことは不可能であった。
あまりにも早く病に見舞われ、訪れた「老い」とともに
歩むことを強いられてしまったのだ。
具体的には糖尿病で、50代にして業病と戦わなければならなかった。
入院中に歌った次のような歌がある。

……

しづかなる生命来にけり夜を起きてしびんに己が音をし聞けば

しびんに当る尿の音。それが夜の病室に響く。わびしい孤独感。しかし晩年はここにしかない。疑えない事実としてのおのれの衰え。自分の発した尿の音。「しづかなる生命来にけり」というなんでもないフレーズが効いてくる。
……

一方、「宮柊二」というブランドはもう出来上がっていて、そのブランドを自嘲するような、また、ユーモアで紛らわすような歌もつくっている。
「コスモス」選者として、著名になってしまったこと、
「朝日新聞歌壇」選者として、風貌と名が知れ渡ったこと。
彼は、病のゆえもあり、鬚をのばしっぱなしにしていた。
次のような歌を残している。

……

採血の済みたる耳を抑へ戻る二十年近く切られの柊二
頭を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄は宮柊二なり
ひげそらぬ我の陰口ミヤリイノ・シュージノヴィッチと呼ぶ友のあり










歌人の体験と歌創り~「山西省」など~

2019-07-02 17:08:13 | 短歌


河原より夜をまぎれ来し敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

……

宮柊二の、戦中体験をもとにした歌集「山西省」からとったものである。
これが、事実をいったものであるかどうかは、いまだに議論が分かれる。
しかし、このような過酷な戦争の中で、
宮柊二の体験が蓄積されたことは疑いがない。
それが、後年の宮柊二の運命と歌に深い影響を与えたことは、
すでに確固たる事実である。
このような体験から、宮柊二は、自らの体験のほか何物をも介在させない作品を生み出した。
戦後、華々しく変わる時代の中で、左にぶれるでもなく、右にかたむくでもなく、「庶民」の感覚を固持して、独自の世界を構築した。
1939年までは北原白秋に師事したが、
日中戦争に出征することで、その軛から離れた。
さらに、戦後は富士製鉄の社員として勤めるかたわら、
歌を詠み続ける、という道を選んだ。

……

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く座れり夜の雛の前

サラリーマン時代に残したこの歌の延長線上で生きた。
にもかかわらず、「コスモス」という結社の主宰となり、
朝日新聞歌壇の選者となって、
「庶民の短歌」を先導することになってしまう。
しかし、50代にして糖尿病に侵され、老いを迎える前に病者となり、
自らの思いを実現することができなくなった。
具体的には、再度山西省を訪問してゆっくり往時を顧みながら歌を作る、
という願いはとん挫した。

そして、病者としての自分をときに深刻に、ときにユーモラスに詠ってみせた。

このような自分史のなかで、人生の終焉へと向かったが、山西省での体験の深みを消し去ることはできなかった。

























歌人の体験と歌創り~「山西省」など~

2019-07-02 17:08:13 | 短歌


河原より夜をまぎれ来し敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

……

宮柊二の、戦中体験をもとにした歌集「山西省」からとったものである。
これが、事実をいったものであるかどうかは、いまだに議論が分かれる。
しかし、このような過酷な戦争の中で、
宮柊二の体験が蓄積されたことは疑いがない。
それが、後年の宮柊二の運命と歌に深い影響を与えたことは、
すでに確固たる事実である。
このような体験から、宮柊二は、自らの体験のほか何物をも介在させない作品を生み出した。
戦後、華々しく変わる時代の中で、左にぶれるでもなく、右にかたむくでもなく、「庶民」の感覚を固持して、独自の世界を構築した。
1939年までは北原白秋に師事したが、
日中戦争に出征することで、その軛から離れた。
さらに、戦後は富士製鉄の社員として勤めるかたわら、
歌を詠み続ける、という道を選んだ。

……

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く座れり夜の雛の前

サラリーマン時代に残したこの歌の延長線上で生きた。
にもかかわらず、「コスモス」という結社の主宰となり、
朝日新聞歌壇の選者となって、
「庶民の短歌」を先導することになってしまう。
しかし、50代にして糖尿病に侵され、老いを迎える前に病者となり、
自らの思いを実現することができなくなった。
具体的には、再度山西省を訪問してゆっくり往時を顧みながら歌を作る、
という願いはとん挫した。

そして、病者としての自分をときに深刻に、ときにユーモラスに詠ってみせた。

このような自分史のなかで、人生の終焉へと向かったが、山西省での体験の深みを消し去ることはできなかった。

























宮柊二退職の日~家庭にて~

2019-06-30 22:20:59 | 短歌


専門歌人となるべく、会社を去った日、妻との時間、ひとりの時間を、
彼はどう過ごしたのだろうか。

……

数珠球に雨しぶき葉よりしたたり職退きてわが帰りくる道
 同僚から、餞別をもらう。ああ、芸術と金。

雨負ひて暗道帰る宮肇君絵を提げ退職の金を握りて
青春を晩年にわが生きゆかん離々たる中年の泪を蔵す
 平和なる生きの途を、自分から遮断したことになるのか。

生き生きてわが選びたる道なれど或ひはひとりの放恣にあらぬか

……

     
こうして、妻と向かい合って酒を飲み、
ひとりで酒を酌む、という情景で、
この連作は終わっている。

……

妻注げる酒のおもてに映りたる吾自らをしばし守りつつ
逝く際の師を知らざりき指を折りかつ伸べ盃を独り置く
(師とは、北原白秋のこと)

















宮柊二の決断~会社を去るその日~

2019-06-30 21:56:02 | 短歌


宮柊二が、勤め人と歌人の兼任から、専門の歌人になる日がやってくる。
彼は48歳で富士製鉄を退職し、専門歌人の道に入る。
その契機として、勤め人たる最後の日の感慨が、「私記録詠」第1部に語られる。
第1部は、会社におけるものである。

……

七階の下なる都心たまたまを往来絶えし車道歩道見ゆ
よろこびの炎のごとくは生き得ざりき個人の狭き範囲につきて

 大戦時の留守家族は会社の恩恵を受けた。戦後、反省の折々に湧く哀しさをう     づめるやうに、それへの感謝が私の胸中に住んでいるのであった。

生きえたる兵の奉仕の悔しさとよろこびと二つ吾を支へし

 習慣とは詠ったが、告白すれば、勤め人の生の心意気とでもいふべきか。

扉の把手をにぎりたるとき習慣の切実さにて喜び湧きき
階段を踏みくだりつつ中間の踊り場暗し勤めを今日去る

 日常の己を告白したのでない。心理の奥に隠れて住むものを、自分からひきずりだしてみただけだ。わたしのみの心理でない気もする。

行為なく逡巡につき逃走をつねに構えき有体に言はば
屋上にきたりて雨にたたずめり頭上左右にて雨空揺るる

……

こうした行為と思いのうちに、会社を去る、そうして、専門家人になる、という自覚を確かにする。

つづいて、家に帰ってからの感慨が詠われる。これは、第2部に譲る。














勤め人と歌人の間で~宮柊二~

2019-06-30 21:38:43 | 短歌


宮柊二が、今後も大切な歌人として語られるであろうことは確実である。
戦後短歌の旗手として、近藤芳美と並び称されたことは間違いのない事実だと言える。
北原白秋のもとを去ってから、芸術家と俸給取りという2面を持たざるをえなくなり、
そのことが、彼を煩悶させた。
現代の芸術家にも通ずるこの通底音を、しっかりと把握しておくことは大切である。
このような視点から、3首をとりあげ、
鑑賞しておく。

悲しみを耐へたへてきて某夜せしわが号泣は妻が見しのみ
わが一世喘ぐに似つつすぎむかと雨の夜明けの蛙ききをり
十年を苦しみ共に生きてきてまだ苦しまねばならぬこともある

これらの歌に見られるように、個人として、勤め人として、夫として、
各々の立ち場の相克の中で、中間者としての存在という位置を選び、
芸術性を高めていった、というのが、宮柊二の世界の総合的な歴史だと思う。











自らの心を記録として詠む~勤め人と歌人~宮柊二

2019-06-29 21:07:01 | 短歌


宮柊二は、兵隊として中国に派遣される前、
北原白秋を師とあおいで、作品をつくっていた。
白秋は、勤めることを嫌い、文学者プロパーとして生きることを選んだ。
宮柊二が戦争に参加することは、師白秋の期待を裏切ることでもあった。
終戦から時を経て、宮柊二は、サラリーマンとして製鉄会社に勤めつつ、
歌人として、歌を詠む道を選ぶ。
そこから生まれる悩みを、さまざまな歌にして詠み、自分の人生を見つめた。

……

はうらつにたのしく酔へば帰り来て長く座れり夜の雛の前

ほのかな雛の灯のもとに座り続ける壮年の男。何か悲しい。自分はいったいなんだったのか。戦争に行き、辛くも生きて帰ってきた。大家族を抱え、しかも歌人と言う一面を出なかった。しかも、結社と言う組織にかかわってきてしまった。
師白秋との決別以来、さまざまな人生の局面で、決定的な決断をしないまま、
出来事たちと関わってきた。
その孤独感を、しんみり詠うのである。

……

あきらめてみずからなせど下心ふかく俸給取りを蔑まむとす
ある刹那こころたかぶる先生はみづからの家持ち給はざりけり

宮柊二は、白秋との確執以来、サラリーマンとして生きることの意味を問い続けたのであった。それでも生活はあり、仕事はあり、家族があった。また、結社のメンバーを率いなければならない立場にもあった。心の葛藤を持ち続けながら、現実に対応していったのであった。

……

貧しかる俸給取り兼詩人にて年始の道の霜にあそびつ
黙々たる一勤め人秋風の吹きのすさびに胸打たせ行く
沈黙を人に見せざる生活のこのあかつきのひとりの時間
自分のみ愛して遂に譲らずと妻言ひしこと胸に上り来
爪切れば棘のごとくに散らばれり汝が内を見るといふこと

……

歌人であり、サラリーマンであり、家を統べる大黒柱でもあった宮柊二には、別の道を選べない、という苦しみが常に伴うのである。




















父への挽歌~介護の末に~宮柊二の連作に見る

2019-06-29 20:41:01 | 短歌

宮柊二の連作に、父のことを含む家族詠があり、
父への挽歌「父最期」という連作に連なる。
子、妻、母とともに父の晩期を「介護」という形で看取った後、
集大成のように詠った。
切々と胸に迫るものがある。

……

「7日前に別離の言葉をしたためてゐた。乱れ乱れた字を辿れば、『長々御厄介になりまして、今日でお別れいたします』とあった。」

いざさらば別離と父が綴りたるいやはての字を辿りつつ読む
わが膝の上に抱かれ息をひく父を見守る家族十一人
苦しみが消えたる顔のま静かに整はりくるさまを見守る
花をもて埋めし父のなきがらを一夜守りつつ蛙ききけり
笹原の笹につばらに朝日来てこの静けさの悲しき朝かも
春の夜も雨とどろけり部屋にゐぬ父は何処に行きしかと思ふ

……

深い感動を味わいつつ、自らの人生で、父と別れた日のことを、しきりに思い出した。








介護時代以前の介護~宮柊二の歌にみる~

2019-06-27 21:20:56 | 短歌


約20年前に出版された本に、
宮柊二の家族詠の評論がある。
まだ、介護が今ほどの重要性を持たなかった時代、
宮柊二は、両親、妻、子どもという3世代家族を統べていた。
育児、仕事、介護という三重苦は、かれが長男である故、
より大変な生活を強いられた。

……

この生活を続けるうち、本人は身体を壊して入院し、
常に床に臥す父を介護していた母が、吐血して倒れる。
こどもも、病が絶えない。
忙しさに耐えられなかった妻が、自殺未遂をおこす。
それでも、一家の大黒柱としての宮柊二と妻とは、
生活の折り合いをつけねばならなかった。
病気の両親と夫婦、子供3人の生活。

今の時代を先取りする父の介護の歌を、宮柊二は詠む。
そこに、現在の時代への取り組みのヒントはないだろうか。
いずれにせよ、現代、痛々しいとばかりはいっておれない歌たちである。

……

老父を抱きかかえつつ巷かへる生の敗残に入りしかも父
人の生さまざまにして泪持つたとへば病み臥すわが父も一人
昂りて夜に喚く父の晩年をわが守るべし吾は子なるゆえ
妻と子と老父母をかいいだきわが往かんとすす病みてはならず
病み床に日中ねむれば尖りたる父喉仏冬の日を浴ぶ
玄関に父の笑ふが聞こえ来る笑わせいるは末の夏実か(夏実は宮の娘)
枇杷むけば汁したたるを床の上ゆ眼放たず父が待つなり
下痢後を処理してくれて嬉など感謝記せし父の日記はや

……

3世代住宅に住みながら、涙ぐましい努力が続く。
父の逝去前後のことは、改めてまとめたい。
























宮柊二「多く夜の歌」に見る視野のひろがり

2019-06-27 19:54:03 | 短歌

宮柊二の歌は、民衆の、庶民の歌であった。
彼が、朝日新聞歌壇の選者になったこともあり、
短歌界に、新風がおこる。
民衆の、民衆による歌が、受け入れられれるようになったのである。

……

あはあはと陽当る午後の灰皿にただ一つ煙をあぐる吸殻

吸殻からさそわれる人の姿はやはりちらつく。そこでこの歌には些細な素材を扱ったのだけれども、それは媒材で、間接的な表現のしくみを試みたものだが、言い換えれば、人事を直写することには窮屈さが避けられないで、些事を素材とし対象として、人事の広がりをさそい出そうと試みたのだった。私はこの歌で、一種の落ち着いた気分と、在来の歌には見られなかった、虚実の関係といった世界が、開けるいとぐちをとらえたような気がした、と思い出すことができる。(宮柊二)

……

同時期に、次のような歌もつくっている。

……

腕相撲われに勝ちたる子の言ひて聞けば鳴きをり藪の梟
イオシフ・ヴィッサリオのヴィチ・スターリン死す英雄の齢かたむきて逝くぞ悲しき
桔梗のかがやくばかり艶もちて萌え出でし芽を惜しみ厭かなく
才無きを恥ぢつつ生きてもの言ふにこころかなしき批評にも会ふ
竹群の空青々と音なくて寂しき春の時間ぞ長き

……