悪って何だろう?と思う。
特定少年の裁判を見ていてそう思った。
私は、今まで、本当の悪人はいない、
それは道に外れた人が自暴自棄になって行うものだ、
と思っていた。
だから、死刑制度にも反対だし、
「許す」ということも人間には大事な事だと考えていた。
否、むしろ、許せない人を許すことこそ、
人間の一番崇高な愛だと思っていたのだ。
一番レベルの高い、ゴールに近いくらいの事だと思っていた。
けれど、たまたまテレビでやっていた、
報道番組で、事件の事を見て、
そうして、加害者家族、被害者の事を知り、
その考えが揺らいでしまった。
けれど、「少年の更生の余地はある」と
弁護士さんが言っていて、
そこでもまた、気持ちが揺さぶられた。
どっちが正しいのだろう。
このことをどう捉えたらいいのだろうと。
悪人正機の事を少し調べたら、
自分が正しくて、相手が間違っている、という考え自体が
「悪」なので、それを失くすこと、自分を内省することが、
その意味だということが多かった。
本当の犯罪に手を染める人のことではないと。
しかし、おそらく、そうではないだろう。
その意味もあるけれど、やはりここで言うのは、
本当に犯罪を犯した人たちをどう救うかということを
言っているのだと思う。
その罪を背負うのは当然だけれど、
そこに救いの手を差し伸べるのも私達人間なのだろう。
本当の「悪人」にこそ、愛は必要なんだと思う。
「神との対話」で、ヒットラーは人類に、
悪というものが、どういうものかを知らしめるために、
生まれてきたと書いてあった。
こういう事はしてはいけない、と私達が知るために、
そうして、そんな人達を生まないために、
私達が彼らに出来る事をするために、生まれてくるのだと。
逆説的だけれど、この人たちもそうなんだろうな。
私も弟夫婦の事を考えると、胸が苦しくなるし、
許さないとも思っている。
でも、それはそれでいいのだと、自分自身では納得している。
それもまたいいのだ。
全てを許す事、不問にすることだけが愛ではないし、
彼らが困っていたら助けてあげようとも思っている。
その時には、全面的に助けるのではなく、
彼らが更生できるように、手助けしようと、
そう考えている。
「愛」の捉え方は難しいよね。
私は、愛は、優しくもあれば、厳しくもあると思う。
その人にとって、一番いいのは何なのかと厳罰を与えるのも、
また愛なのだろうと。
「悪」を考えると、必然的に「愛」へ行きつくね。
愛って、なんだろう。
本当の愛は?と。
悪と善は表裏一体。
どちらへ転ぶかはその人次第。
いつも、私たちは、そういう事をつきつけられているのかもしれませんね。
そう思いました。
☆それでは今日もよい一日を。
感謝します。
すべては上手くいっている。
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