昨日はなんだかずいぶんと"くさくさする"日だった。
なにかイヤなものがひとつ舞い戻ってきたとか、
遠ざかっってたものがまた現れたとか、そんな
うっとうしい気分の日だった。
「知床旅情」を自宅カラオケで唸ってしまった。本日5月4日は、
故森繁久弥(1913-2009)の生誕100年となる日である。
同人が47歳のときに作詞"作曲"した歌謡曲
「知床旅情」は、日本に悪意を持つ加藤登紀子によってカヴァーされ、
一般に知れわたった。左翼でも商業主義には乗るのである。
♪ソー│<ドーーー<ミー│<ソーーー<ドー│
ドー>ラー<ドー│>ソーーーーー│
>ミー<ファー>ミー│>レーーー<ソー│
>ミー>レー<ミー│>ドーーー♪
(短調化してフォーレの「シシリエンヌ」ふうにアレンジしたものを
http://twitsound.jp/musics/tsHaHAapx
にアップしておきました)
今日、安倍首相がロシア・中東訪問から帰国した。
訪問途中の会見では北方領土問題にも言及した。ともあれ、
今から200年前の江戸時代に松前蝦夷地御用取扱として
千島列島や択捉・国後などを調査した
近藤重蔵(西暦およそ1771-同1829)は、御目見得以下幕臣だった。
松平定信が人材登用のために制定した
「学問吟味」の合格者である。「学問吟味」は
寛政4年の初回は無効となったので、実質第1回の
寛政6年(西暦およそ1794年)の試験は、
237人の幕臣が受験して、47名が及第となった。
甲種合格5名、乙種合格14名、丙種合格28名、
という内訳である。当然に甲種が最高ランクである。
御目見得以上(おおむね旗本)の首席は
遠山の金さんの父親遠山景晋(小姓組、43歳)、
御目見得以下(おおむね御家人)の首席は
狂歌で知られる大田南畝(御徒組、46歳)、
というともにオッサンだった。興味深い結果である。
下位ランクの丙種及第者の中に、近藤重蔵(御先手組、24歳)がいた。
いずれにしても、いわゆる「秀才」たちである。
近藤重蔵は当時のロシアによる北方領土への進出に
釘を刺したという功績を残した。ちなみに、
遠山景晋も蝦夷地御用として現在の北海道に赴いたことがある。
ところが、
近藤重蔵は自信過剰で社会適合性に乏しい人格だったらしい。
50歳で実質的な蟄居処分となった。自分の能力に見合うだけの
評価を得てないという不満も手伝って、私生活は
放蕩三昧だったという。その長男である
近藤富蔵(西暦およそ1805-1887)は、
女関係が多い父が母を離縁したために、
現代ふうにいえば"グレ"た。親子関係は険悪だった。さて、
重蔵は蝦夷から帰ると本宅とは別に、
三田槍ケ崎別所坂上に別邸を設けた。そして、そこに
冨士塚を建てた。現在の住居表示では
目黒区中目黒2-1-23であり、「テラス恵比寿の丘」という
低階層高級マンションになってる。幕末にはこのあたりから
現在の共済病院一帯に砲薬製造所が幕府によって設立され、
明治には旧海軍技術研究所(現、防衛省防衛研究所)となった。
ともあれ、
重蔵は大阪赴任の間にこの別邸の管理を
隣の塚越半之助に託した。半之助は博徒あがりのチンピラである。
幕府からの扱いが軽くなった重蔵を甘く見て、
自宅を蕎麦屋にして隣の富士塚へ客が登れるように
土地の境界敷地を中共の近隣諸国への手口のごとく
改竄してしまったのである。江戸に戻った重蔵は怒り、
訴訟となった。重蔵が勝訴した。が、半之助は
チンピラを雇っていやがらせを執拗に繰り返したのである。
こうした中で、父との関係を改善すべく、文政9年(西暦およそ1826年)、
倅の富蔵は半之助以下その妻や母、子など7人を
家来とともに斬りまくり、結果、5人を殺した。あっぱれである。が、
罪のない妻子などにも及んだことで、
富蔵は八丈島への遠島、家来は江戸10里四方追放となり、
重蔵も連座で近江大溝藩お預けとされ、近藤家は改易された。
とはいえ、その因は半之助にあるため、
切腹や斬首とはならなかったのである。
これは「槍ケ崎事件」として知られてる。
八丈島で富蔵は50数年を過ごし、明治23年にやっと
御赦免となって江戸に戻るのである。が、また
八丈島に戻ってその波乱に富んだ87年の生涯を終えた。
八丈島での富蔵の生活もまた面白いのであるが、それはまた
別の機会に触れるとする。
先月の大江戸探検隊では、この富士塚跡や
滝野川の重蔵宅跡などを巡ってきた。が、
八丈島まで行く暇はなかった。
なにかイヤなものがひとつ舞い戻ってきたとか、
遠ざかっってたものがまた現れたとか、そんな
うっとうしい気分の日だった。
「知床旅情」を自宅カラオケで唸ってしまった。本日5月4日は、
故森繁久弥(1913-2009)の生誕100年となる日である。
同人が47歳のときに作詞"作曲"した歌謡曲
「知床旅情」は、日本に悪意を持つ加藤登紀子によってカヴァーされ、
一般に知れわたった。左翼でも商業主義には乗るのである。
♪ソー│<ドーーー<ミー│<ソーーー<ドー│
ドー>ラー<ドー│>ソーーーーー│
>ミー<ファー>ミー│>レーーー<ソー│
>ミー>レー<ミー│>ドーーー♪
(短調化してフォーレの「シシリエンヌ」ふうにアレンジしたものを
http://twitsound.jp/musics/tsHaHAapx
にアップしておきました)
今日、安倍首相がロシア・中東訪問から帰国した。
訪問途中の会見では北方領土問題にも言及した。ともあれ、
今から200年前の江戸時代に松前蝦夷地御用取扱として
千島列島や択捉・国後などを調査した
近藤重蔵(西暦およそ1771-同1829)は、御目見得以下幕臣だった。
松平定信が人材登用のために制定した
「学問吟味」の合格者である。「学問吟味」は
寛政4年の初回は無効となったので、実質第1回の
寛政6年(西暦およそ1794年)の試験は、
237人の幕臣が受験して、47名が及第となった。
甲種合格5名、乙種合格14名、丙種合格28名、
という内訳である。当然に甲種が最高ランクである。
御目見得以上(おおむね旗本)の首席は
遠山の金さんの父親遠山景晋(小姓組、43歳)、
御目見得以下(おおむね御家人)の首席は
狂歌で知られる大田南畝(御徒組、46歳)、
というともにオッサンだった。興味深い結果である。
下位ランクの丙種及第者の中に、近藤重蔵(御先手組、24歳)がいた。
いずれにしても、いわゆる「秀才」たちである。
近藤重蔵は当時のロシアによる北方領土への進出に
釘を刺したという功績を残した。ちなみに、
遠山景晋も蝦夷地御用として現在の北海道に赴いたことがある。
ところが、
近藤重蔵は自信過剰で社会適合性に乏しい人格だったらしい。
50歳で実質的な蟄居処分となった。自分の能力に見合うだけの
評価を得てないという不満も手伝って、私生活は
放蕩三昧だったという。その長男である
近藤富蔵(西暦およそ1805-1887)は、
女関係が多い父が母を離縁したために、
現代ふうにいえば"グレ"た。親子関係は険悪だった。さて、
重蔵は蝦夷から帰ると本宅とは別に、
三田槍ケ崎別所坂上に別邸を設けた。そして、そこに
冨士塚を建てた。現在の住居表示では
目黒区中目黒2-1-23であり、「テラス恵比寿の丘」という
低階層高級マンションになってる。幕末にはこのあたりから
現在の共済病院一帯に砲薬製造所が幕府によって設立され、
明治には旧海軍技術研究所(現、防衛省防衛研究所)となった。
ともあれ、
重蔵は大阪赴任の間にこの別邸の管理を
隣の塚越半之助に託した。半之助は博徒あがりのチンピラである。
幕府からの扱いが軽くなった重蔵を甘く見て、
自宅を蕎麦屋にして隣の富士塚へ客が登れるように
土地の境界敷地を中共の近隣諸国への手口のごとく
改竄してしまったのである。江戸に戻った重蔵は怒り、
訴訟となった。重蔵が勝訴した。が、半之助は
チンピラを雇っていやがらせを執拗に繰り返したのである。
こうした中で、父との関係を改善すべく、文政9年(西暦およそ1826年)、
倅の富蔵は半之助以下その妻や母、子など7人を
家来とともに斬りまくり、結果、5人を殺した。あっぱれである。が、
罪のない妻子などにも及んだことで、
富蔵は八丈島への遠島、家来は江戸10里四方追放となり、
重蔵も連座で近江大溝藩お預けとされ、近藤家は改易された。
とはいえ、その因は半之助にあるため、
切腹や斬首とはならなかったのである。
これは「槍ケ崎事件」として知られてる。
八丈島で富蔵は50数年を過ごし、明治23年にやっと
御赦免となって江戸に戻るのである。が、また
八丈島に戻ってその波乱に富んだ87年の生涯を終えた。
八丈島での富蔵の生活もまた面白いのであるが、それはまた
別の機会に触れるとする。
先月の大江戸探検隊では、この富士塚跡や
滝野川の重蔵宅跡などを巡ってきた。が、
八丈島まで行く暇はなかった。
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