「週刊新潮」(新潮社刊)のカラント・イシューである
「2014年2月20日梅見月増大号(2014/02/13発売)特別価格390円(税込)」
には、
「ゴーストは芸術の影法師! 袋叩きの『佐村河内守』はそんなに悪いか!」
という記事が載っかってる。
新潮社は創価学会と敵対関係であったはずなのに、
擁護するかのようなタイトルに怪訝な感じがした。
佐村河内守のマネジメントをしてる
「サモンプロモーション」は創価学会系だということである。なるほど、
創価学会大本山の一角である新宿区左門町の「サモン」という名を冠してる。
スミ・ジョー女史、フジ子ヘミング女史、金聖響、西本智実女史、岡本知高らの
プロデュースを手がけてきたのだそうである。
なるほど、というメンツである。
それはともかくも、この記事は、
<"誰が書いたのかは重要ではない"というマーラーの言葉については
先に触れたが、確かに、自分がその曲を良いと思えば、
作者が誰であろうと関係ないのだ。>
と結ばれてる。この醜聞にふれて、ツイッターなどでも
やはりそのような意見が多くみられる。以前、
日本で仏伊のブランドものが人気だったとき、
模造品も横行した。知らずにニセモノをつかまされた女性らは、
自分がいいと思ってるのだから本物でなくても気にしない、
と返答することが多かった。本音では
恥ずかしいと思ったものの虚勢でそう言ったむきも
少なからずだったのかもしれないが。
私の見解は違う。
誰が作ったか、ということは重要である。なぜなら、
芸術の中の史上である音楽だけでなく、
絵も文章も多かれ少なかれ
作者の個性が反映されてしまうものだからである。
その反映度が低いときに、真贋が判らない場合もある、
というだけのことである。その中で、
その真贋が重要なケイスもあればそうでないときもある、
というだけのことである。今回は
"全聾となってしまった不幸な人物が「作曲した」"
ということに、浅いクラ音ファンから音楽のオの字もわからない
一般大衆のみならず、セミクラ音を生業としてる
いわゆるクラ音の作曲家などまでもが"感動し""推奨し"て
大金が動いたわけである。そして、
その「作曲」が虚偽だったことと、さらに、
"全聾者"という看板も詐称だったのである。これは、
刑法犯の詐欺罪にも問われる
(現状に即しては因果関係の証明は難しいが)所業である。
道義的にはまったくもってけしからんことである。
ともあれ、
正規のシャネルと中国で生産された模造品では
"誰が作ったかは重要ではない"ということにはならない。
佐村河内と新垣の件は、
ブランドのほうがニセモノであるという点で、それとは
正反対の性質のものではあるが。
なにしろ、
クラ音界の現状など、プロの"評論家"といったって、
ベルリン・フィルとウィーン・フィルの音の違いを聞き分けることもできない。
フルートが現在のベーム式以前のクラシカル・フルートやトラヴェルソ時代には
D管が主流だったことすら知らないフルート吹きなどざらにいる。
その程度のレヴェルである。まして、
ただただこうした"不幸""不具"ものに食いつきやすいドシロウトなど、
クラ音楽(モドキ)の良し悪しなど判ろうはずもない。佐村河内は
そうした人たちを騙して大金を得てきたのである。
が、
私がここでいいたいのはそうしたことではない。
別の人物についてである。
上記「週刊新潮」の記事が、
"指示書"によって新垣氏に曲想を伝えてたので、
丸投げではなく少なくとも共同制作の姿勢は示していた、
という方向性が展開され、
<過去には、「指示書」すら書いていないのに、
別人が作曲したものを自分の曲として発表するケースが
数多くあったという。>
とする記事に続げられる形で、
……本人のウェブサイトの自己紹介によれば……
<東京藝術大学および大学院修士課程を首席で修了。
東京藝術大学、都留文科大学講師。
日本現代音楽協会、作曲家協議会、東京室内歌劇場会員。>
というご立派な大先生が、
こういうコメントをしてたのである。
<例えば、ドイツの作曲家・メンデルスゾーンの曲の一部は、
ファニーという名の彼の姉が書いたものだと言われています。
マーラーという有名な作曲家も、
奥さんのアルマに多くの曲を書かせていたと言われている。
で、奥さんが自分の名も楽譜に載せて欲しいとお願いしたら、
"誰が代表するかが重要なのであって、
誰が書いたのかは重要ではない"と言ったという逸話も残っています>
<佐村河内さんと新垣さんの関係は、昔で言うパトロンと作曲家の
関係に近かったのでしょう。
このような関係は晩年のモーツァルトにもありました。
彼の最後の作品『レクイエム』は、
1人の灰色ずくめの格好をした召使いの男が
彼のもとを訪れたことがきっかけで作られた、と言われています。
この召使いはモーツァルトに対して高額の報酬を約束し、
『レクイエム』の作曲を依頼するのです>
<この召使いの主人の思惑は、
それを自分が作曲したとして売り出したいというもので、
今回の佐村河内さんに似ていなくもない。
結局、モーツァルトは『レクイエム』を完成させることなく
35歳の若さで死んでしまったので、
その主人の作品にはなりませんでしたが>
この御仁はかねてから、
テレ朝の「題名のない音楽会」や自主公演などで、あるいは、
本の著者としてこれと同様のデタラメ放題を垂れ流し、
故意にか無知からかは知らないが、
事実誤認・虚偽な内容を執筆してる常習犯である。
このコメントの間違いを瑣末なことまですべて挙げると
きりがないほどである。ので、
少しだけかいつまんでみる。
まず、最初の<>内のコメントだが、
挙げられてる作曲家2人はともに「ユダヤ人」である。
この2人は反ユダヤ・憎ユダヤの差別層によってさまざまに歪められてきた。
そのかっこうの材料となった事案である。
メンデルスゾーンの時代には女性が"作曲"などすると非難囂々だった。
そのため、才能ある姉がバッシングされて傷つくことを案じた弟メンデルスゾーンが、
「気遣い」でそうした「方便」を取ってあげただけのことで、
自分でない人の作品を自分のものと偽ることで
自分の名声を得ようとしたわけではない。そもそも、
ファニーには弟ほどどころか、凡百の作曲家ほどの作曲の天分もない。また、
マーラーの咄、というのは、
芸術の才に恵まれた男に靡く多淫な性分の、
自分に芸術の才能があると思いこみたい症候群の、
妻アルマの「嘘咄」がほとんどである。
ふたつめの<>内のコメントは、
瑣末には"召使い"ではない。依頼主の伯爵はたしかに
れっきとした作曲家に曲を依嘱してそれを自分で写譜して自作として演奏する
というさもしい癖があったらしい。が、
この伯爵は"パトロン"ではない。だから、
モーツァルトはそうしたことは知らなかった。つまり、
その伯爵からモーツァルト自身の作としてのレクィエムを依頼されたと思ってたのである。
みっつめの<>内のコメントでは、
完成させることができなかったので
その伯爵の作品にはならなかった旨のことを言ってる。が、
モーツァルトの弟子のジュスマイアーによって補筆されて、結局、
伯爵の手に楽譜は渡り、モーツァルトの遺族である妻コンスタンツェは
残りの報酬を得てる。そして、伯爵は自作として当該
「レクィエム」を"初演"してもいる。
佐村河内は音楽的にはシロウトである。しかも、楽理も知らないレヴェルである。が、
この嘘出放題のコメントをした輩は、国立の音大・院を国民の税金助成で出て、
さらにそこで講師までしてる専門家である。
ただのちんけな詐欺師よりも、学問的・教養的には
非難されるべきはたしかに別のところにあるともいえる。
そもそも「調性音楽」を作るのが「作曲家」なのである。が、
その調性音楽は"出尽くして"しまってからすでに一世紀も経ってる。だから、
真の「作曲家」といえるのは「コンテンポレリ・ミューズィック(現代音楽)」の作曲家しか
現在ではありえない。もっとも[現代音楽」には感動はないので
クラ音以上に相手にされないが。したがって、
歌謡曲とか○○ポップとかロックとかいう「音楽モドキ」を"作曲"してるのは
調性音楽で出尽くした二番煎じや出がらしを自作と称してるにすぎない。
♪作曲家モドキとは気楽な稼業ときたもんだ♪
「2014年2月20日梅見月増大号(2014/02/13発売)特別価格390円(税込)」
には、
「ゴーストは芸術の影法師! 袋叩きの『佐村河内守』はそんなに悪いか!」
という記事が載っかってる。
新潮社は創価学会と敵対関係であったはずなのに、
擁護するかのようなタイトルに怪訝な感じがした。
佐村河内守のマネジメントをしてる
「サモンプロモーション」は創価学会系だということである。なるほど、
創価学会大本山の一角である新宿区左門町の「サモン」という名を冠してる。
スミ・ジョー女史、フジ子ヘミング女史、金聖響、西本智実女史、岡本知高らの
プロデュースを手がけてきたのだそうである。
なるほど、というメンツである。
それはともかくも、この記事は、
<"誰が書いたのかは重要ではない"というマーラーの言葉については
先に触れたが、確かに、自分がその曲を良いと思えば、
作者が誰であろうと関係ないのだ。>
と結ばれてる。この醜聞にふれて、ツイッターなどでも
やはりそのような意見が多くみられる。以前、
日本で仏伊のブランドものが人気だったとき、
模造品も横行した。知らずにニセモノをつかまされた女性らは、
自分がいいと思ってるのだから本物でなくても気にしない、
と返答することが多かった。本音では
恥ずかしいと思ったものの虚勢でそう言ったむきも
少なからずだったのかもしれないが。
私の見解は違う。
誰が作ったか、ということは重要である。なぜなら、
芸術の中の史上である音楽だけでなく、
絵も文章も多かれ少なかれ
作者の個性が反映されてしまうものだからである。
その反映度が低いときに、真贋が判らない場合もある、
というだけのことである。その中で、
その真贋が重要なケイスもあればそうでないときもある、
というだけのことである。今回は
"全聾となってしまった不幸な人物が「作曲した」"
ということに、浅いクラ音ファンから音楽のオの字もわからない
一般大衆のみならず、セミクラ音を生業としてる
いわゆるクラ音の作曲家などまでもが"感動し""推奨し"て
大金が動いたわけである。そして、
その「作曲」が虚偽だったことと、さらに、
"全聾者"という看板も詐称だったのである。これは、
刑法犯の詐欺罪にも問われる
(現状に即しては因果関係の証明は難しいが)所業である。
道義的にはまったくもってけしからんことである。
ともあれ、
正規のシャネルと中国で生産された模造品では
"誰が作ったかは重要ではない"ということにはならない。
佐村河内と新垣の件は、
ブランドのほうがニセモノであるという点で、それとは
正反対の性質のものではあるが。
なにしろ、
クラ音界の現状など、プロの"評論家"といったって、
ベルリン・フィルとウィーン・フィルの音の違いを聞き分けることもできない。
フルートが現在のベーム式以前のクラシカル・フルートやトラヴェルソ時代には
D管が主流だったことすら知らないフルート吹きなどざらにいる。
その程度のレヴェルである。まして、
ただただこうした"不幸""不具"ものに食いつきやすいドシロウトなど、
クラ音楽(モドキ)の良し悪しなど判ろうはずもない。佐村河内は
そうした人たちを騙して大金を得てきたのである。
が、
私がここでいいたいのはそうしたことではない。
別の人物についてである。
上記「週刊新潮」の記事が、
"指示書"によって新垣氏に曲想を伝えてたので、
丸投げではなく少なくとも共同制作の姿勢は示していた、
という方向性が展開され、
<過去には、「指示書」すら書いていないのに、
別人が作曲したものを自分の曲として発表するケースが
数多くあったという。>
とする記事に続げられる形で、
……本人のウェブサイトの自己紹介によれば……
<東京藝術大学および大学院修士課程を首席で修了。
東京藝術大学、都留文科大学講師。
日本現代音楽協会、作曲家協議会、東京室内歌劇場会員。>
というご立派な大先生が、
こういうコメントをしてたのである。
<例えば、ドイツの作曲家・メンデルスゾーンの曲の一部は、
ファニーという名の彼の姉が書いたものだと言われています。
マーラーという有名な作曲家も、
奥さんのアルマに多くの曲を書かせていたと言われている。
で、奥さんが自分の名も楽譜に載せて欲しいとお願いしたら、
"誰が代表するかが重要なのであって、
誰が書いたのかは重要ではない"と言ったという逸話も残っています>
<佐村河内さんと新垣さんの関係は、昔で言うパトロンと作曲家の
関係に近かったのでしょう。
このような関係は晩年のモーツァルトにもありました。
彼の最後の作品『レクイエム』は、
1人の灰色ずくめの格好をした召使いの男が
彼のもとを訪れたことがきっかけで作られた、と言われています。
この召使いはモーツァルトに対して高額の報酬を約束し、
『レクイエム』の作曲を依頼するのです>
<この召使いの主人の思惑は、
それを自分が作曲したとして売り出したいというもので、
今回の佐村河内さんに似ていなくもない。
結局、モーツァルトは『レクイエム』を完成させることなく
35歳の若さで死んでしまったので、
その主人の作品にはなりませんでしたが>
この御仁はかねてから、
テレ朝の「題名のない音楽会」や自主公演などで、あるいは、
本の著者としてこれと同様のデタラメ放題を垂れ流し、
故意にか無知からかは知らないが、
事実誤認・虚偽な内容を執筆してる常習犯である。
このコメントの間違いを瑣末なことまですべて挙げると
きりがないほどである。ので、
少しだけかいつまんでみる。
まず、最初の<>内のコメントだが、
挙げられてる作曲家2人はともに「ユダヤ人」である。
この2人は反ユダヤ・憎ユダヤの差別層によってさまざまに歪められてきた。
そのかっこうの材料となった事案である。
メンデルスゾーンの時代には女性が"作曲"などすると非難囂々だった。
そのため、才能ある姉がバッシングされて傷つくことを案じた弟メンデルスゾーンが、
「気遣い」でそうした「方便」を取ってあげただけのことで、
自分でない人の作品を自分のものと偽ることで
自分の名声を得ようとしたわけではない。そもそも、
ファニーには弟ほどどころか、凡百の作曲家ほどの作曲の天分もない。また、
マーラーの咄、というのは、
芸術の才に恵まれた男に靡く多淫な性分の、
自分に芸術の才能があると思いこみたい症候群の、
妻アルマの「嘘咄」がほとんどである。
ふたつめの<>内のコメントは、
瑣末には"召使い"ではない。依頼主の伯爵はたしかに
れっきとした作曲家に曲を依嘱してそれを自分で写譜して自作として演奏する
というさもしい癖があったらしい。が、
この伯爵は"パトロン"ではない。だから、
モーツァルトはそうしたことは知らなかった。つまり、
その伯爵からモーツァルト自身の作としてのレクィエムを依頼されたと思ってたのである。
みっつめの<>内のコメントでは、
完成させることができなかったので
その伯爵の作品にはならなかった旨のことを言ってる。が、
モーツァルトの弟子のジュスマイアーによって補筆されて、結局、
伯爵の手に楽譜は渡り、モーツァルトの遺族である妻コンスタンツェは
残りの報酬を得てる。そして、伯爵は自作として当該
「レクィエム」を"初演"してもいる。
佐村河内は音楽的にはシロウトである。しかも、楽理も知らないレヴェルである。が、
この嘘出放題のコメントをした輩は、国立の音大・院を国民の税金助成で出て、
さらにそこで講師までしてる専門家である。
ただのちんけな詐欺師よりも、学問的・教養的には
非難されるべきはたしかに別のところにあるともいえる。
そもそも「調性音楽」を作るのが「作曲家」なのである。が、
その調性音楽は"出尽くして"しまってからすでに一世紀も経ってる。だから、
真の「作曲家」といえるのは「コンテンポレリ・ミューズィック(現代音楽)」の作曲家しか
現在ではありえない。もっとも[現代音楽」には感動はないので
クラ音以上に相手にされないが。したがって、
歌謡曲とか○○ポップとかロックとかいう「音楽モドキ」を"作曲"してるのは
調性音楽で出尽くした二番煎じや出がらしを自作と称してるにすぎない。
♪作曲家モドキとは気楽な稼業ときたもんだ♪
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