地下鉄サリン・無差別テロ事件から17年。先日、
松本智津夫を讃えてオウム真理教を擁護してた輩どもの一人
吉本隆明が死んだ。まだ健在ぶりを発揮してるのもあるが、
こんな輩どもはいつの時代もどこでも湧いてくる。それより、
こんな輩どもに感化されるほどメンタリティの弱いやつらが絶えない、
ということが問題なのである。
富士山の神々しさからその周辺には
新興宗教がいつきやすい。ところで、
富士山がいまのところ最後に噴火したのは、
宝永4年(現行暦換算おおよそ1707年)であるが、
ヴェズーヴィオは1944年の噴火がもっとも新しい。
"Vedi Napoli e poi Muori"
(ヴェーディ・ナーポリ・エ・ポーイ・ムオーリ)
これはいわゆる「ナポリを見て(から)死ね」という、
ここを見ないで死んでしまうなんてもったいないほど
風光明媚なところだ、という意味の諺である。日本なら、
"Vedi Fuji e poi Muori"
といったとこだろう。
"Mangia Spaghetti Napoletani e poi Morimori-Murimuri"
(マンジャ・スパゲッティ・ナポレターニ・エ・ポーイ・モリモーリ・ムリムーリ)
「(拙大意※)スパゲッティ・ナポリタンを食ってさらにモリモリなんてムリムリ」
冗談はともあれ、
私がガキだった頃には日本には「イタめし」なんてものはなかった。
「ピッツァ」もごく一部で「ピザ」として作られてた程度である。
イタリアもの、としては、わずかに
「スパゲティ」である。それも、
「百貨店の大食堂」とか「学食」あたりに限られてたと思う。もっとも、
ガキの頃には喫茶店には入ったことがなかったので、すでに
喫茶店で出してるとこもあったかもしれない。それから、
簡易調理食品として、
「マ・マー」と「オーマイ」という商品が発売されて、
家庭でも食されるようになった。
さて、
昭和の時代の我が国の「スパゲティ」といえば、
「ミートソース」と「ナポリタン」という二種だった。で、
特にいまでも「ナポリタン」という名のいわれについては、
いくつかの"説"が提示されてて、
横浜「ホテル・ニューグランド」の入江総料理長がおおもとを築いた、
というのが"有力"らしいが、特定はされてない。が、
私が思うに話は単純である。
米国には多くの移民が流れ込んだ。が、欧州に限っていえば、
英国・北部アイルランド(プロテスタント)・オランダが第1波、
ドイツ・北欧諸国・南部アイルランド(カトリック)が第2波、であり、
イタリアはユダヤ人やスラヴ系と並んでそのあとだった。そして、
イタリア人の中でも南部イタリア人はあとのほうだったのである。だから、
「おいしい職業」はすでに"先住白人"に占められてた。
貧しい南部イタリアからやってきた移民は、
靴屋、洗濯屋、そして、飲食業しか選択の余地がなかった。
同じ白人でも主流のプロテスタントの英国やオランダからは、
貧しくて新参者のドイツやカトリック系のアイルランドは差別された。まして、
そのまたあとからやってきたさらに貧しくてカトリックのイタリア人は、
最下層となったのである。そして、その中でも
南部イタリア人はおなじイタリア人にさえ軽蔑されてた。
食文化までが違うのである。
「ボローニャふう」とされてるイタリア北部の
挽肉入りの「ミート・ソース」に対して、
「おもにトマトを煮込んだ肉なしのソース」が
貧しい南部の中心都市である「ナポリ」の名を冠して
「ナポリタン・ソース」と呼ばれてたのである。そして、
この二種類のソースを使ったスパゲッティがそれぞれ、
「スパゲッティ・ミートソース」「スパゲッティ・ナポリタン」と名づけられた、
だけのことである。後者にはせいぜい
安物の加工肉であるソーセージをつけた。だから、
現在の"地元"であるイタリアに「スパゲッティ・ナポリタン」はない、
などと鬼の首をとったかのように言うむきもあるが、
それこそが当然なのである。ナーポリ人が自分を差別する呼称を
自分らの食い物に附けるわけがないし、
そんな「安っぽい」食い物などは
移民しなくて済んだ人々が作って食らうわけがない。
"ミートソース"には曲がりなりにも「挽肉」という肉が入ってるので、
「ボローニャふうソース」と、"自慢げ"にその名を冠してるのである。
時代時代には常識だったことでも
思いのほか文献に残りにくいことは多い。そして、
由来というのはオツムの弱い"研究者"の"推論"によって誤られ、
真実にたどれなくなってしまうのである。
しかしながら、
そのトマトケチャップを使うような"安っぽい"
「スパゲッティ・ナポリタン」が私は大好きである。
若かった時分に競馬場まで出かけない土日には、私は
地元の渋谷ではなく規模が大きい水道橋のウィンズに
馬券を買いに行ってた。そして、
野球を観にいったときに後楽園周辺が混んでたので
少し歩いて探して見つけた外濠の反対側の
三崎町にあった喫茶店で、
昼飯を食いながらTVの競馬中継を観てた。
江戸時代は水戸徳川家の連枝である
高松松平家の中屋敷だったあたりである。
その喫茶店はイケメンオヤジの主人と美人の奥さんが夫婦でやってて、
親に似てイケメンの男の子と美人の女の子が手伝ってた。
店名の由来を訊いたことはなかったが、
後楽園の近くなのでおそらく王貞治選手のファンだったのだろう。
そこの「スパゲッティ・ナポリタン」の大盛りを私はよく食った。
トマトケチャップがたっぷりまぶしてあった。21世紀になって
JRAの馬券がネットで購入できるようになって
Winsに行くこともなくなった。そして、
喫茶店「フラミンゴ」に行くこともなくなった。その「フラミンゴ」は、
三崎町でももっと東側の別の場所に移転して営業してたらしい。
それが先月に閉店したということを数日前に知った。
同店が開店した昭和54年から約100年前の1878年に、チャイコフスキーは
当時7歳の甥ヴラヂーミルに捧げるピアノのための
「子供のアルバム」(全24曲)を作曲した。
2年前に完成させたバレエ「白鳥の湖」で使った「ナーポリの踊り」……
当ブログの「白鳥湖#22ナーポリの踊り」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/f1519b3ea382ae56bac70584bda4201b
を参照されたい……を、
その第18曲「ナーポリの歌」として再使用した。
前者ではニ長調・4/4拍子だったが、後者では変ホ長調・2/4拍子とした。
その他、イントロや終いなどに当然ながら差異がある。もっとも、
フラミンゴと白鳥の外観、それから、ピンクレディとジ・オックスの髪型の
見分けもつかない拙脳なる私には、楽譜を見ないでは
詳らかにはその違いを言い分けれないが……。ともあれ、
「ナーポリの歌」の主要主題、
♪【ソ<ラ・<ド>シ>ラ>ソ】│<シー●●・シーーー│
ーー、>ラ<シ・<ド>シ>ラ<シ│>ラー●●・>ソーーー│ーー♪
は、米映画"The Way We Were"の中で、
バーブラ・ストライサンド女史によって歌われる
映画のタイトルと同名の"The Way We Were"で、
♪ラー・ー>ソ・・ソー・ーー│●●・【ソ<ラ・・<ド>シ・>ラ>ソ】│
>ミー・ーー・・ーー・ーー│●●・>レ<ミ・・<ソ>ミ・♯ソ>ミ│
<シー・ー<ド・・>ラー・ーー♪
と"追憶"されるのである。
松本智津夫を讃えてオウム真理教を擁護してた輩どもの一人
吉本隆明が死んだ。まだ健在ぶりを発揮してるのもあるが、
こんな輩どもはいつの時代もどこでも湧いてくる。それより、
こんな輩どもに感化されるほどメンタリティの弱いやつらが絶えない、
ということが問題なのである。
富士山の神々しさからその周辺には
新興宗教がいつきやすい。ところで、
富士山がいまのところ最後に噴火したのは、
宝永4年(現行暦換算おおよそ1707年)であるが、
ヴェズーヴィオは1944年の噴火がもっとも新しい。
"Vedi Napoli e poi Muori"
(ヴェーディ・ナーポリ・エ・ポーイ・ムオーリ)
これはいわゆる「ナポリを見て(から)死ね」という、
ここを見ないで死んでしまうなんてもったいないほど
風光明媚なところだ、という意味の諺である。日本なら、
"Vedi Fuji e poi Muori"
といったとこだろう。
"Mangia Spaghetti Napoletani e poi Morimori-Murimuri"
(マンジャ・スパゲッティ・ナポレターニ・エ・ポーイ・モリモーリ・ムリムーリ)
「(拙大意※)スパゲッティ・ナポリタンを食ってさらにモリモリなんてムリムリ」
冗談はともあれ、
私がガキだった頃には日本には「イタめし」なんてものはなかった。
「ピッツァ」もごく一部で「ピザ」として作られてた程度である。
イタリアもの、としては、わずかに
「スパゲティ」である。それも、
「百貨店の大食堂」とか「学食」あたりに限られてたと思う。もっとも、
ガキの頃には喫茶店には入ったことがなかったので、すでに
喫茶店で出してるとこもあったかもしれない。それから、
簡易調理食品として、
「マ・マー」と「オーマイ」という商品が発売されて、
家庭でも食されるようになった。
さて、
昭和の時代の我が国の「スパゲティ」といえば、
「ミートソース」と「ナポリタン」という二種だった。で、
特にいまでも「ナポリタン」という名のいわれについては、
いくつかの"説"が提示されてて、
横浜「ホテル・ニューグランド」の入江総料理長がおおもとを築いた、
というのが"有力"らしいが、特定はされてない。が、
私が思うに話は単純である。
米国には多くの移民が流れ込んだ。が、欧州に限っていえば、
英国・北部アイルランド(プロテスタント)・オランダが第1波、
ドイツ・北欧諸国・南部アイルランド(カトリック)が第2波、であり、
イタリアはユダヤ人やスラヴ系と並んでそのあとだった。そして、
イタリア人の中でも南部イタリア人はあとのほうだったのである。だから、
「おいしい職業」はすでに"先住白人"に占められてた。
貧しい南部イタリアからやってきた移民は、
靴屋、洗濯屋、そして、飲食業しか選択の余地がなかった。
同じ白人でも主流のプロテスタントの英国やオランダからは、
貧しくて新参者のドイツやカトリック系のアイルランドは差別された。まして、
そのまたあとからやってきたさらに貧しくてカトリックのイタリア人は、
最下層となったのである。そして、その中でも
南部イタリア人はおなじイタリア人にさえ軽蔑されてた。
食文化までが違うのである。
「ボローニャふう」とされてるイタリア北部の
挽肉入りの「ミート・ソース」に対して、
「おもにトマトを煮込んだ肉なしのソース」が
貧しい南部の中心都市である「ナポリ」の名を冠して
「ナポリタン・ソース」と呼ばれてたのである。そして、
この二種類のソースを使ったスパゲッティがそれぞれ、
「スパゲッティ・ミートソース」「スパゲッティ・ナポリタン」と名づけられた、
だけのことである。後者にはせいぜい
安物の加工肉であるソーセージをつけた。だから、
現在の"地元"であるイタリアに「スパゲッティ・ナポリタン」はない、
などと鬼の首をとったかのように言うむきもあるが、
それこそが当然なのである。ナーポリ人が自分を差別する呼称を
自分らの食い物に附けるわけがないし、
そんな「安っぽい」食い物などは
移民しなくて済んだ人々が作って食らうわけがない。
"ミートソース"には曲がりなりにも「挽肉」という肉が入ってるので、
「ボローニャふうソース」と、"自慢げ"にその名を冠してるのである。
時代時代には常識だったことでも
思いのほか文献に残りにくいことは多い。そして、
由来というのはオツムの弱い"研究者"の"推論"によって誤られ、
真実にたどれなくなってしまうのである。
しかしながら、
そのトマトケチャップを使うような"安っぽい"
「スパゲッティ・ナポリタン」が私は大好きである。
若かった時分に競馬場まで出かけない土日には、私は
地元の渋谷ではなく規模が大きい水道橋のウィンズに
馬券を買いに行ってた。そして、
野球を観にいったときに後楽園周辺が混んでたので
少し歩いて探して見つけた外濠の反対側の
三崎町にあった喫茶店で、
昼飯を食いながらTVの競馬中継を観てた。
江戸時代は水戸徳川家の連枝である
高松松平家の中屋敷だったあたりである。
その喫茶店はイケメンオヤジの主人と美人の奥さんが夫婦でやってて、
親に似てイケメンの男の子と美人の女の子が手伝ってた。
店名の由来を訊いたことはなかったが、
後楽園の近くなのでおそらく王貞治選手のファンだったのだろう。
そこの「スパゲッティ・ナポリタン」の大盛りを私はよく食った。
トマトケチャップがたっぷりまぶしてあった。21世紀になって
JRAの馬券がネットで購入できるようになって
Winsに行くこともなくなった。そして、
喫茶店「フラミンゴ」に行くこともなくなった。その「フラミンゴ」は、
三崎町でももっと東側の別の場所に移転して営業してたらしい。
それが先月に閉店したということを数日前に知った。
同店が開店した昭和54年から約100年前の1878年に、チャイコフスキーは
当時7歳の甥ヴラヂーミルに捧げるピアノのための
「子供のアルバム」(全24曲)を作曲した。
2年前に完成させたバレエ「白鳥の湖」で使った「ナーポリの踊り」……
当ブログの「白鳥湖#22ナーポリの踊り」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/f1519b3ea382ae56bac70584bda4201b
を参照されたい……を、
その第18曲「ナーポリの歌」として再使用した。
前者ではニ長調・4/4拍子だったが、後者では変ホ長調・2/4拍子とした。
その他、イントロや終いなどに当然ながら差異がある。もっとも、
フラミンゴと白鳥の外観、それから、ピンクレディとジ・オックスの髪型の
見分けもつかない拙脳なる私には、楽譜を見ないでは
詳らかにはその違いを言い分けれないが……。ともあれ、
「ナーポリの歌」の主要主題、
♪【ソ<ラ・<ド>シ>ラ>ソ】│<シー●●・シーーー│
ーー、>ラ<シ・<ド>シ>ラ<シ│>ラー●●・>ソーーー│ーー♪
は、米映画"The Way We Were"の中で、
バーブラ・ストライサンド女史によって歌われる
映画のタイトルと同名の"The Way We Were"で、
♪ラー・ー>ソ・・ソー・ーー│●●・【ソ<ラ・・<ド>シ・>ラ>ソ】│
>ミー・ーー・・ーー・ーー│●●・>レ<ミ・・<ソ>ミ・♯ソ>ミ│
<シー・ー<ド・・>ラー・ーー♪
と"追憶"されるのである。
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