チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「先手2二角成」

2009年10月18日 00時22分50秒 | 慣性の改革(ウケのひとこと一発ギャク店
先日、将棋の第20期女流王位戦で、
師匠にあたる清水市代女流名人との
5番勝負第2局をしてた石橋幸緒女流王位は、
129手を指した。
「6六からの2二角成」。が、その角の
「進路」の4四には、わずか3手前に打った
自分の歩があったのである。
フに落ちない負けかたではあるが、
恥を角成、反則負け。
プロの中のプロでも、
勝ちたい気が逸って、
ショウギの沙汰とも思えない
こんな凡ミスを犯すものである。が、
これはとても重要なことである。
ヒトは平時どんなに沈着冷静、品行方正でも、
本能がむき出し丸だしになってしまう、
というような状況下では、
稚拙な行動をとってしまうものである。
性犯罪者や窃盗犯罪者の中には、
こうした中で罪を犯す者も少なくない。

私の若い頃の遊び仲間に、
私が連れてってやった店を、
その半年後に「今日はいい店を教えるよ」
といって我々仲間に紹介してくれた奴がいた。
そいつ以外はみんな顔を見合わせた。
私は下っ端だったが、
仲間の中のリーダー格の奴が言った。
「いい店だね。すごいじゃん。こんないい店、
誰に教えてもらったんだ?」
そいつは答えた。
「ちょっと、知り合いにね」
次回からの集いにそいつの顔はなかった。

「創作」とは、技術的な面だけでいえば、
特許出願者と弁理士と特許庁の審査職員を
すべて兼ねたようなものである。
同じような、似たようなものが
すでに先にないかどうか、
「捜索」もしないといけない。だから、
先人の作が頭の記憶野に保管されて、
それがいつのまにか
自作として出てきてしまうような
ゆるい頭脳レヴェルでは、到底創作者にはなれない、
はずである……が、そうでもないようである。
鮨と同じで、本当の寿司屋もあれば、
種の質と板前の腕が落ち
喫煙まで可などという寿司屋もあるし、
代用魚だけの一皿100円の寿司という名の
寿司もどきの店もある。それはどうでも、
創作とは限られた条件の中で、
たとえば音楽なら、
動機・律動・和声などの素材を
「独自に組む」ことである。だからこそ、
「似たものを組み立て」るのは恥であり、
道義にも反するから、なにがあっても
避けなければならないのである。が、
低い頭脳レヴェルの者がこれに関わり、
同様な客がつくと、ことは面倒になる。
才も能もない分際をわきまえず、
ひたすらプライドだけは高く、
自己主張は旺盛だが自分に不都合なことは
黙ってしまうか隠してしまうというのがまた、
創作に携わってることが多い。
大衆は「ホンモノ」など求めない。もとより、
ホンモノの価値など解るはずもなく、
ホンモノに惹かれる本能も持ち合わせてないから、
こうしたエセを崇めるようになるのである。
高価な酒の、不出来な年の廉価なものを飲んで
その価値を知ったかぶるという、
じつにセコい恥知らずなむきもある。

ブラームスはその「ベートーヴェンの第10交響曲」の
ホンモノとの類似性を指摘されてその質問者を
蔑んだという。中田喜直も同様らしい。つまり、
この者らはオマージュ性も否定したのである。ちなみに、
前例・先例を検知する能があるかないかではなく、
意図的に先人の作を引用し、または
オマージュもしくはパロディとすることは、
剽窃とはまったく異なる
「創作行為」である。いっぽうで、
「似たようなもの」を作り出すのは、
同じような精神状態下にある場合が多い。だから、
同様な動機を有する作品同士には、
何かしらの共通した感情が隠されてる、
と心して作品を味わうこともまた
一興である。

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