チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「占領軍による戦後日本のフォークダンス教育/舟木一夫『高校三年生』発売から50年」

2013年06月05日 23時26分11秒 | toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ
昨日20時ごろに車で六本木のグランドハイアットあたりを通りかかったら、
道を歩いてる人の数が普段に比して異様に少なかった。WCアジア最終予選で
勝つか引き分けで本戦出場が決まる試合があったからだった。
"銭湯の女湯をカラにした菊田一夫のラジオ・ドラマ「君の名は」のお噺"以来の
"都市伝説"となった(※)。
一夜明けた今日、2013年6月5日は、一夫は一夫でも
舟木一夫が歌ってヒットした歌謡曲
「高校三年生」(作詞=丘灯至夫、作曲=遠藤実)のいわゆる
シングルレコードが発売されて50年にあたる日である。
♪ミーーー・<ラーー<シ・・<ドーーー・ーーーー│
>シー>♯ソー・ーー<シー・・>ラーーー・ーーーー│
ラー<シー・<ドー<レー・・>ドー>シーー・ーー>ラー│
<シーーー・ーーーー・・ーーーー・ーーーー♪

作詞者の丘灯至夫(おか・としお、1917-2009)は、
この詞の成立に関して後年、以下のように語ってる。
<東京五輪の前年、「毎日グラフ」の記者だった私は、
世田谷区北沢にある松陰学園の文化祭を取材した。
校庭では男女がフォークダンスをしてたのだが、それを見て
大正生まれの私は驚いた。その光景が私にインスピレーションを与え、
「フォークダンスの手をとれば、甘く匂うよ黒髪が」
という一節が閃いた>
がしかし、少子化のために経営が苦しい現在は
男女共学となってるものの、当時、
松陰学園は女子校だった。だから、
それは丘の記憶違いで、実際は
世田谷区桜上水にある都立松原高校だったのだろう、
というのが一般的な説になってるらしい。
私の世代では世田谷の松陰学園といえば、
八王子実践、中村高校と並んで
いわゆるバレーボールが強かった「松蔭女子」である。実際、
ロズ輪の銅メダリスト江上由美女史が卒業生である。
女優の故太地喜和子女史も通ってた。いっぽう、
都立松原高校なら、
平松愛理女史の元亭主だった清水信之とか、
松たか子女史の亭主の佐橋佳幸とか、
「う、ふ、ふ、ふ、」のEPO女史とか、
「My Revolution」の渡辺美里女史といった、
国内流行歌謡界関係者が多く出てる。

ともあれ、
敗戦後13年が経って生まれた私の世代はすでに
高校でフォークダンスなど行われない時代だった。
フォークダンスはせいぜい小学校中学年までである。
私が高3だったのは、舟木一夫の歌からさらに13年後である。
春一番が吹いたと思ったら
ロッキード事件が騒がれだしてペッパー警部が捜査に乗りだし、
桜田淳子嬢が「夏にご用心」と予言したとおり
三木内閣政権下で田中前首相が逮捕され、おくらほま・
ミキさーは流れなかったかもしれないが
三木聖子嬢の「まちぶせ」が流れて、
ナディア・コマネチ嬢がモントリオールで
♪ドッドッミッドレッファレッドシ、ドッドッミッドレッシラッラソ♪
と10点満点を連発し、
アメリカ合衆国が建国200年に沸き、
ジョニー・ベンチ捕手の2本のソウロウ・ホウマーでシンシナティ・レッズが
NY・ヤンキーズを4タコで下した年だった。

[……。六年教之数与方名。七年男女不同席不共食。
八年出入門戸及即席飲食必後長者。……]
という「礼記」の中の一節である
[男女7歳にして席を同じうせず食をともにせず]
大人の男女、つまり夫婦は古来中国では
膳のようなものを挟んでメシを食った
(そしてそのあと夫婦の営みとなる)。だから、
子供でも7歳になったらケジメをつけさせてしかるべき、
ということである。そうした教えを
戦前の日本では大切にしてた。それを
戦勝国である米国は否定し、
7歳から入学する日本の小学校で
手と手を取り合って踊るフォークダンスを
体育の授業に採り入れさせたのである。実際、
私もエスツェットの細くて可憐な指に触れて
ドキドキしたものだった。私の時代のフォークダンスはおもに
「オクラホマ・ミキサー」だった。これは、ダンスと音楽ともに
日本向けに"改良"されたものらしい。
19世紀前半にできたミンストレルがもとになってて、
"Turkey in the Straw(藁の中の七面鳥)"
という呼称(歌詞)が一般的である。が、これは、
"Natchez Under the Hill(ナチェス・アンダー・ザ・ヒル=墓の下のナチェス族)"
といった具合に、南部ミシシッピあたりの先住民
ナチェズ族がフランス人入植者に滅ぼされ、
その生き残りがオクラホマの居留区に抑留された噺がもとになってる。
それを黒人奴隷に置き換えたのが、
"Zip Coon(ズィップ・クーン=すばしっこい黒人)"
である。

♪ミ>レ│
>ド>シ<ド<レ・>ド>ソ>ミ<ファ│
<ソ<ラ>ソ>ミ・<ソー●<ド<レ│
<ミーミー・ミ>レ>ド<レ│
<ミー>レー・レー♪
(フィドル(ヴァイオリン)とバンジョーという、"本場もの"もどきに
再構成してアレンジしてみました。
https://soundcloud.com/kamomenoiwao-1/turkeyinthestraw )

日本人の子供たちに、
お前らは有色人種にしては優秀で使い道があるから、
原爆は落としたけれど、
やつらみたいに根絶やしにしたり、足枷をつけて
労働奴隷としてこきつかったりはしない。その代わり、
米国の経済を支える民としてよく働けよ。
という"教育"の一環だったと思われる。実際、
対ソ・対共産圏、という事情はあったにせよ、それまでに
米国が戦争をしたり侵略したりした相手に対するのとは
違ってた。ご意向に違わないかぎり、
日本にはかなりの厚遇だったと思われる。
バブルがやってくるのは、
昭和の時代が終わる頃だった。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「距離適正なんて関係ねぇ式... | トップ | 「『モンマルトルの誓い』と... »

コメントを投稿

toneナリノ曲ハヨク歌曲ウ歌謡曲ダ」カテゴリの最新記事