久しぶりにアメリカにいる知人に連絡を取り、またSNSの日記を読んだ。プロテスタントの信者の方で、非常にまじめな反面、お酒を飲むと大変な酔っ払いさんに大変身してとんだ失敗もしている方なのだが、今回の地震や津波。原発事故以来、自分は祈っているのだと書いていた。
被害を受けた地域に住んでいる友人にいくら電話をしてもケータイは呼び出し音が鳴るだけ。据え置き電話は音もしないのだそうだ。まったく連絡がとれないらしい。なんという切ないはなし。
普通に生活していた人たちの人生がある日、いきなりそこで切れてしまう。離れている人たちは何もわからない。知り合いがどこでどうなったのか、生きているのか、死んでしまったのかも何もわからない。町が、村がある日、いきなり巨大津波にのみこまれて2万数千人の人が亡くなったり、行方知れずになる。科学の粋を集めて造られたはずの原子力発電所が、地震と巨大津波で壊れて大事故をおこし、この国の広い範囲に不安感が充満している。
これは何だろう。いったい何なのだろう。いったい、神様は何を考えておいでなのだ。どうしてこんなことをなさるのだ。いったい今回の大災害のどこに聖霊の働きがあるというのか、どうしてなんだ、なぜなんだ。この先もこの国の立地条件からいって、まだ別の自然災害が幾たびも起こってもおかしくはないのだが、なぜ、この国なのだ。われわれはなぜこの国に生まれ、大災害に出くわして悲しみをあじわうのか。なぜ、どうして、なんのためだ?
しかし、アメリカにいる知人ではないけれど、これは祈るしかないのだろう。それもただやたら静かに受け入れる姿勢でではなく、本気で神様になぜですかと問いを突きつけての祈りでなければ心は癒されぬ。本気で神様とこの問題を話し合い、論じ合う祈り、本気で答えを求める祈りでなければならぬ。わかったつもりになっていては悲しみは癒されぬ。解決の糸口もみつからないだろう。
ヨブのように。