『相棒10-2』を見て思ったこと

2011-10-27 13:20:30 | インポート

※ 付け足しを少し

以前、巡礼について調べたとき、昔の日本の巡礼のことで、子供が誤って他の子を死なせてしまったとき、親がその子を連れて巡礼に出たことが出ていました。わが子の仕出かした不始末に苦しんだ親は昔から後を絶たないというわけです。長い旅から戻った親子もいれば、戻れなかった親子もいたことでしょう。今回の話を見ながら頭に浮かんできたのはそのことでした。そして、いきなりたまきさんが去ってしまった前回のはなしのことでした。

巡礼、お遍路は自分のためだけでなくほかの人のためにも、功徳を積むというか、償うというか、そんな意味もあるようです。

 

渡哲也さんの久しぶりの出演ということで楽しみにしていた第2話、こちらの受信状況の悪さで途中途切れ途切れではありましたが、何とか最後までストーリーを追うことが出来ました。今回も重い内容です。普通一般の家庭でも、自分の家族、親兄弟という存在はどうしようもなく深い絆で結ばれていて、日ごろ離れていても心のどこかで気にかかっていたりするわけで、この犯罪被害者の家族と、加害者の家族の思い、なんだかドラマの世界だけのことと思えない気分でした。

それにしても今回の右京さん、終わり近くで神戸君に「残酷では」と言われて、「しかし、僕は・・・」とあくまでも剛直に自分の信念に向かって歩んでいく。これは、うーむ、どう考えればよいか、と夕べからずっと気になっていたわけです。でも、今朝、はたと気がつきました。相棒ワールドでは何故たまきさんはお遍路に出るのか。勿論、ここで問題なのはたまきさんを演じている女優さんの話ではなくて、相棒ワールドに存在するたまきさんの話です。

たまきさんは優しいから、きっと右京さんを見ていられなくなってしまったのでしょう。それで、右京さんを遠くから支えるために、お遍路に出て神仏に右京さんを託して祈ることにしたのではないかしら。右京さんの剛直な信念だけではこのドラマのストーリーは厳格にすぎます。でも、たまきさんは登場しなくても背後でそんな右京さんのためにもお遍路に出たのだったら、全体をもっと広い視野から見ることが出来ると思うのです。

これはドラマの世界だけれど、現実の社会でも人間は一人だけで存在しているわけではなく、自分の周りの多くの人たちとの関わりの中での自分なのです。無縁社会といわれる時代であっても、目に見えないご縁の糸は無数に張り巡らされています。その糸を操っているのは人間を超えた大いなるお方でしょう。