こんばんは~、マリーで~す。
うちのおばはんときたら、なんかやる気が出ないみたいなのよね。あの人。ほんとだったらお金がないくらいじゃ凹まないのにさ、このところやたら後ろ向きよ。やっぱりねえ、現実に今や実の家族が弟ひとりと義理のお母さんだけとなるとがっかりしちゃってるんだわさ。
なんせ、あの人も今年は65歳になっちゃうし、確かに後がないんだけど、今までだったらそれでも強気だったのよねえ。自分は長女で一番上なんだから、しっかりしなくちゃって思ってるから、敵に背は見せないってのが内心の柱だったのに、去年の暮れに、妹が電話で、お母さんもお姉さんも前向きだよね、なんて言っていたのが、妹の死で自分が何のためにしっかりしていかなくちゃならないのか意味がなくなっちゃった気分みたいなの。
妹や弟があってのお姉ちゃんでしょう。下に示しがつかないからしっかりしなくちゃって思うのに、下がさっさと居なくなっちゃったら、がっかりして、なんかやる気がわかなくなってるところってわけ。弟は弟でごたごたしてるしね。
だけどそれでも、あんまりお外に出かけなくなってる分、あれこれ考え事はしてるみたいよ。今までよりきちんとしたことを考えてるんじゃないかな。ふわふわした思いつきじゃなくて、しっかりした考えっていったら変かしら。
このあいだもさ、聖歌隊に久しぶりに出かけて、みんなの様子を見て、あたしにこんなこと言ってたの。信仰とか宗教というのはなかなか難しいものなのだと思う。人間は一人一人、個性もあるし、センスも違うし、求めているものも違うから、同じキリスト教を信じているといっても、その内容はその人、その人で違ってくるのだと思う。ただ大体のところは指導してくれた司祭とか、影響を受けた方々から学んだものプラスその人の個性だろう。
ってわけで、誰がどう見て、どう考えたって、それは向こうの問題でそんなことで自分の気持ちまで落ち込んだりしていては何も始まらないって言うの。妹のことでがっかりしながら、ネは強気なんと違うかしらあの人。前はこんなことまで言語化してみたりしないで突っ走っていたのが、ほんのちょっぴり変わってきたんじゃないの?
今度の水曜日は灰の水曜日だけど、天気がよくないみたいだから夜のミサはあきらめて昼間いくつもりらしいわよ。せっかくの今年の四旬節すこしはちゃんと祈りのときにしたらいいんだわ。十字架の道行きだって、近くの吉祥寺なら昼間だから行きやすいんじゃないかしら。
そんなことで今日の話もおしまいよ。ほんじゃまたね。