9月になってしまった。
さて、今日は特に目的や表題もなく、本能のままに文章を打ってみようと思う。
この前、この宇宙はプールの中に時計をバラバラにして放り込み、それが偶然に組上がるぐらいの確率でできているという話を聞いた。
僕らはそれだけの偶然で生きてる。
しかし、よく考えたら、その偶然が起きないと僕らは生を認知できないということだ。
ここでは死後の世界や魂は無いと考えた前提でしゃべるが、認知するための肉体を持たない場合、この偶然に起こる生きるという状態は体感することができない。
つまり奇跡が起きないと、生きるということが認知できないということになる。
今、こうして生きて、存在しているということは、その奇跡が起きたということだ。
この奇跡が起きたから自分を認知できる。
では、この奇跡が僕らが生まれる前に起きない状態が永遠に続いたら、それは無である。
では、どうやって無だと認知できるのだろう?
その無を感じるべき主体が無いのに。
有があるから無を意識できる。
ある学者が死後の世界を「夢を見ずに眠る状態」と表現したが、それは後から振り返らないとわからないものであり、無であると理解できる主体が無いとわかり得ないものなのではないか?
そして生まれる前には僕らは無であったはずなのだ。
わかんないや。
とりあえず、今存在していることに感謝しなきゃと思いつつ、文句ばかりいいながら生きてる自分。
このように目的やテーマを考えずに文章を垂れ流すと、わけわかんなくなるなあ。ぽこぺん。
さて、今日は特に目的や表題もなく、本能のままに文章を打ってみようと思う。
この前、この宇宙はプールの中に時計をバラバラにして放り込み、それが偶然に組上がるぐらいの確率でできているという話を聞いた。
僕らはそれだけの偶然で生きてる。
しかし、よく考えたら、その偶然が起きないと僕らは生を認知できないということだ。
ここでは死後の世界や魂は無いと考えた前提でしゃべるが、認知するための肉体を持たない場合、この偶然に起こる生きるという状態は体感することができない。
つまり奇跡が起きないと、生きるということが認知できないということになる。
今、こうして生きて、存在しているということは、その奇跡が起きたということだ。
この奇跡が起きたから自分を認知できる。
では、この奇跡が僕らが生まれる前に起きない状態が永遠に続いたら、それは無である。
では、どうやって無だと認知できるのだろう?
その無を感じるべき主体が無いのに。
有があるから無を意識できる。
ある学者が死後の世界を「夢を見ずに眠る状態」と表現したが、それは後から振り返らないとわからないものであり、無であると理解できる主体が無いとわかり得ないものなのではないか?
そして生まれる前には僕らは無であったはずなのだ。
わかんないや。
とりあえず、今存在していることに感謝しなきゃと思いつつ、文句ばかりいいながら生きてる自分。
このように目的やテーマを考えずに文章を垂れ流すと、わけわかんなくなるなあ。ぽこぺん。