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万華鏡 レイ・ぶらっどべり

2023-01-06 17:49:00 | 書評 読書忘備録
【心に残る短編小説】
1  レイ-ブラッドベリ
2  万華鏡
3  万華鏡 レイブラッドベリ自選傑作短編集
4  サンリオSF文庫
訳  川本三郎

まずこの短編を紹介するには別の傑作マンガから話を始めねばならない  大いにネタバレ、引用するので書評とは異なるファンによるネタバレ大会になるのでご注意ください。
そのマンガとはサイボーグ009、地下帝国ヨミ編である。

ラストで地下帝国のラスボスを宇宙船となった神像の中で倒して宇宙空間に投げ出された009。
一人取り残された009を002が助けに行くが、ジェットの燃料が尽きてしまい二人は地球の成層圏に突入。
最後は、燃え尽きてしまう
この時002ジェット・リンクが最後に言ったセリフが
「ジョー、きみはどこにおちたい?」である。
これを俗に「ドコ落ち」と呼ぶ。

この時、地上で流れ星と間違えた
姉妹が願いをかける
「世界中の人が平和で仲良く暮らせますように」と…
この、あまりに切ないラストに多くの009ファンが涙した。石森正太郎の神がかったコマ構成とカット割の絶頂期の名シーンであった。

後に、この名シーンについてSFの平井和正先生がアトガキでブラッドベリの「万華鏡」のラストシーンの再現だった事を書くのである。その中で、平井先生は言った
「これを表現できるマンガ家は石森章太郎以外にいない」と

その原本、万華鏡の内容は、というより本歌取り、リスペクト作品であり、ネタのパクリとは全く別の石森先生の創作だと確信しているのだが、こんな内容です。モロ、ネタバレです。

航行中のロケットが爆発し、乗組員たちは
真っ暗な宇宙空間に投げ出される。
密閉された宇宙服に守られ、通信機で交信をしながら
別々の星に向かって漂流していくホリスと仲間たち。

万華鏡のかけらのように、

一人は月へ、
一人は流星群の中へ、
一人は母なる地球へ。

みんな孤独だった。
彼らの声は、星の深淵にひびいていく神の言葉のこだまのように消えていった。

隊長は月に落ちていく。ストーンは流星群と一緒だ。
あそこをいくスティムソンとアプルゲイトは冥王星の方向だ。
あそこのスミスとターナーとアンダーウッドの三人は、子どものころ、これはなんの形だろうと長いこと考えて遊んだ、
あの万華鏡のかけらのように遠くに散らばっていく。

そして俺は? とホリスは思った。俺には何ができる? ぱっとしない、むなしい人生をつぐなうためにいま何ができるというのか?
俺が長年かかって集めてきて、それでいて自分のなかにそんなものがあるとは気がつきもしなかった、あのいやしい心。

それを償うために、
なにかひとつでもひとによいことをすることができたなら!
だがここには自分しかいない。
ひとりきりで、どうしてひとによいことができる!
だめだ。明日の夜、俺は地球の大気圏にぶつかるだろう。

おれは燃えるだろう、と彼は思った。
燃えつきて灰になり大陸にばらまかれるのだ。
その時、おれは役に立つだろう。
小さな灰でも灰には変わりない。
大地の一部になるのだ。

彼は、弾丸のように、小石のように、鉄のおもりのように、
勢いよく落ちていった。もはや彼は一個のものだった。
悲しいとも嬉しいともなんとも思わない。
ただ、すべてが終わったいま彼はひとつでもいいことをしたかった、自分ひとりにしかわからないいいことを。
それだけが願いだった。

大気圏にぶつかったら、俺は流星のように燃えるだろう。
「ああ」と彼はいった。「だれか俺を見てくれるだろうか」

田舎道を歩いていた小さな少年が空を見あげて叫んだ。
「お母さん、見て! 流れ星だ!」
輝く白い星がイリノイ州のたそがれの空を落ちていった。
「願いごとをするのよ」と母親がいった。

「願いごとを」 

#心に残る短編小説






パシフィックリム アップライジング

2023-01-06 14:53:00 | 映画レビュー
#パシフィック・リム:アップライジング
#Pacific Rim: Uprising

決して駄作ではない、手抜き作品でもない。むしろ真面目に造られている。
だが、まるで店頭に「一生懸命作ってます」と貼紙のあるラーメン屋のようにお行儀がよく、大脳辺緑系にグサッとくるような暴力的な1作目の暴走力が消えている。

一つにはあのオタク大兄貴ギレルモが現場の前線から退いてしまっている要因が大きいだろう。
更には途中で製作に資本を肩代わりした中国グループへの忖度とわずかな商業的なおもねりが、本来純粋であるべきスープを濁らせているような気がするのだ。

前半はトランスフォーマーのようでもあり、エヴァンゲリオンの実写版のようでもある。
トレルモがあんなに執着した”怪獣”の面影は後半までオアヅケ。これは我慢できる。
だが前作で僕たちを身震いさせた夜の暴風雨の中の怪獣とイエーガーの対峙、にらみ合い、ド突き合いッ!! 
これが如何に秀逸で的を得たコンテンツであったかは、今回の見事に滑らかな昼間のCGバトルの完成品を見たときのナンカ違ウ感で実感できてしまうのだ。

いろいろとキャッチーでおいしい要素を盛り込みつつ、そつのない優等生は、結局オレらオタクとは違うんだなァ。
とシニカルに一人ごちながらあのエンドロールを聴いた。




撮影データ

2012年、ギレルモ・デル・トロは『パシフィック・リム』公開前の時点で続編の構想を抱いていることを述べており、2014年後半にザック・ペンと共に数か月間構想を練っていたことが報じられた。
2015年7月、同年11月から撮影が開始されることが報じられたが、レジェンダリー・ピクチャーズとユニバーサルの意見対立が起き、撮影が中止された.
しかし、デル・トロは続編の製作を諦めておらず、同年10月には脚本と予算をスタジオに提示したことを公表した。

2016年1月、中国の大連万達グループが35億ドルでレジェンダリーを買収した。前作が中国でもヒットしていたため、続編の製作が大連万達グループ資本の下で再始動する。しかし、買収の影響で製作時期に遅れが生じたため、デル・トロは『シェイプ・オブ・ウォーター』の製作を優先して監督を降板し、同年2月にスティーヴン・S・デナイトが続編の監督を担当すること、自身はプロデューサーとして製作に参加することを公表した。

11月9日からオーストラリアで主要撮影が開始され、
2017年2月3月8日からは中国の青島東方影都での撮影が開始され、3月30日に撮影が終了した。
日本公開は2018年4月13日。

鎌倉殿の13人 とわたし

2022-12-23 17:42:00 | テレビ 
「鎌倉殿の13人」とわたし
先の日曜日に第61作目のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が終了してしまった。
直後は、放心、感動、考察、などの多種の感情が入り乱れうまく整理できなかったがようやく総括できそうになってきた。

当初は、特に入れ上げることもなく、今までの習慣のようになんとなく初回から数回を観ていた。
役者も源頼朝に大泉洋、政子に小池栄子という画面から、コミカルなシーンを交えたアットホームな時代劇なのだな・・・・とある意味、安心・油断して観ていたのだと思う。

これが、後々は、放送前に前回の放送を復習し、各種SNSや解説動画をチェックし、日曜日は早めの5時台には風呂にお湯を張り入浴したのち、まずBSで1回目を拝聴し、その後夕食採り乍らツイッターで同輩の反応を確認し、その後8時の地上波デジで2回目を確認するという、世に言うカマクラ組というものに自分もなるとは思いもよらなかった。

きっかけはやはり、あのアサシン善児である。
怖くない風貌のターミネーター。
無表情でしかも最小の動作で殺気も見せずに、躊躇せず子どもでも主要キャラでも殺してのける人物造形。明らかに、あの初期鎌倉、の中で異質な磁場を生み出していた。

そして徐々に教科書や史実で知った部分が出てくる源平合戦のパート、
菅田将暉義経、中村獅子堂梶原景時、山本耕司三浦、西田敏行後白河法皇、・・・と実際に本人たちが
このように行動し、喋っていたのだろうな、と確信させる脚本の妙。
逆に、史実でつじつまが合わずモヤモヤといままでしていたものが、「おお やっぱり本当は、こうだったんだよな----」と(ある意味、ミスリードさせる)
毎回、霧が晴れるような快感を味わった。

ドラマ中盤26話で大泉頼朝が死に、27話でようやく大河タイトル「鎌倉殿と十三人」(微妙に同一ワードじゃない処が憎い)が示され、ここから一気にドラマは、シリアスで緊張感あふれる身内仲間間のサバイバルデスゲームに様相を変える。
もうこうなってくるとドラマから一時も目が離せない、セリフ一つ聞き逃せない・・・・
気をそらした瞬間のあれ、が命取りや、重大な伏線になったりしていて、トラップが三重四重に張られている敵地行軍のようだった。

終盤からラストはその緊張感がMaxに達し、生き残りレースは御家人間から一族間に絞られてくる。
もはや初回のコメディな北条家ホームドラマの雰囲気は見る影もなく、スターウオーズ父子の闇落ちの葛藤やシェークスピアの孤独な王の悲劇に変貌していった。

賛否、(当然、賛が多いが・・)溢れるラストシーンも、これぞ三谷脚本の真骨頂!とでも言うべきもので、安易なハッピーエンドでも、後味悪いバッドエンドでもなく、
悲しみと後悔、希望と救済といった数多の感情を、ある男の人生の最期の時に暗転させるという、今までの大河のラストが、なんて・お気楽だったんだ、と嘆息した。数日間は放心である。
改めて凄いエンデイングであったと思う。
ここまでハードルが上がると、次に作る側は、さぞキツかろうな、と同情しつつ、「どうした家康」に期待したい。

逆に傑作⁉︎ 線は僕を描く の長文レビュー

2022-12-13 14:11:00 | 書評 読書忘備録
#線は、僕を描く #砥上裕将 322頁






奇妙なタイトルではないか。「線は、僕を描く」・? 主語と目的語が倒立している。。。
覚えにくいか、忘れがたいか、どちらかの印象を刻むタイトルだ。 
つまりこれは「このスープが私です(ラーメン屋亭主)」とか「このピアノの音こそが私です(栄伝亜矢)」とかいう表現者、創作者が主張するニュアンスのことなのだな、と本読みは推測する。
水墨画の線の一本一本がその絵師の技量はおろか絵に対する志、いや自分の人生そのものへ相対する心根を筆の生む墨の線があからさまに現わすのだ。

この本は2019年の中旬からFaceBookの本好きメンバーの、特に名うての本読みたちの目にとまり瞬く間に投稿レビューが、コメントが、数多く上げられてきている。そしてそのレビュー、感想文もアツい賛辞に溢れている。この熱は現在も継続しており、しばらくは冷めることはないだろう。

本の装丁やカバーイラスト、そして帯やポップから受けるイメージもタイトル同様に自分には微妙な感じであった。なんとなく本の顔つきはライトノベルっぽいのに、扱う世界が水墨画??
「なんだこれは?」「これが、あの○○さんや、●●さんが激賞する物語なのか?本当に?」・・・・と。しかも、作者はまだ若い水墨画家であり、この作品がデビュー投稿作であり、メフィスト賞受賞!とな?
だが、危ぶむなかれ、これからこの本を手に取ろうとする諸氏は安心して本好きの先達たちの目利きの力量を信じればよい。

文章から絵が見える。文章から墨の香りが沸き立ち、和紙の手触りと、その奥に湛えられる主人公たちの水墨画に対するこころの貯水量の巨きささえ感じられる。とても正しく、的確で、達者で、美しい文章だ。
デビュー作で、しかも本業は水墨画家ということがにわかには信じがたかった、堪能しつつ驚愕した。
自分はこの作者の本業(シゴトではなく字のとおり本人の本当の業:カルマ)が絵師なのか、物書きなのか、正直にいうと判明できず、戸惑い、うらやみさえしてしまったことを白状する。

当初は困惑と驚きを持ってこの本の世界に入り込んだ自分は、物語が流れを生み、流れに乗るようになってこの豊かな文章の才能が、物書きと本読み、という僕らの世界にやってきたことを素直に喜び、歓迎した。
水墨画という全くなじみも既得の知識もない自分たち読者が、一ページ一ページ、嬉々として作者の
思惑通りこの世界を愉しみ、文章に酔うのだ。
春蘭に始まる水墨画の画題、そして主人公たちが描く作品もまた登場人物として僕達の心をつかむ。
この体験は本当に楽しい。恩田陸さんが音を文章にして、近藤史恵が美味しさを文章にしたように、
その時の読書と同様の快感と別ジャンルの素材を文章で読むというフレッシュ感を堪能できる。

そして、更に読み進めると砥上がこのように素晴らしい文章が書けることは、ほかならぬ水墨画に彼が
人並み外れた愛情を持っているが故の発露であると思うようになった。
「彼はこんなにも水墨画が好きなんだ。この世界を皆に知ってもらい、楽しんでもらいたいと思ってるんだ」と。
なるほど、そういうことだったのか・・・水墨画家であることとこの物語を書くことは彼の中では異業のものでもチャレンジでもない至極自然な表現であったのだと。
この物語のラストは希望にあふれ清々しい喜びとともに終わる。きちんと完結して円相の禅画が輪を閉じているようだ。
だから僕たちは、この次に発表される砥上の作品は小説の続編を望んではいけない。離れがたく別れがたい主人公たちであるが、ここは我慢すべきだ。
我々が賞賛すべきは砥上が今から描くであろう渾身の水墨画の力作なのだ。大いに期待しようではないか。

火の鳥乱世編 手塚作品だが駄作 文句あるなら反論してみろ

2022-12-13 13:48:00 | 書評 読書忘備録
♯火の鳥乱世編 ♯手塚治虫
駄作である。
あの手塚治虫であろうが、あの火の鳥であろうが、ダメな作品はダメだ。
せっかくの乱世編、平家物語を題材に清盛と義経、そして弁慶のモデルの木こりの弁太、弁太のいいなずけでありながら清盛の寵妾となるおぶう。

意義深いキャラクターをを造形しながらなんの必然性もなく、ことごとく斬られ、殺される。
いや、乱世編だから意味もなく死ぬことが必然だ、だから納得しろ、そんなメッセージはわからないわけではない。だがね、それだけでは読者は、ファンは納得なんかできるわけなかろうが!
うまく言えないが、物語には虚しい死でも、あっけない死でも、きちんと死は死であり、きちんと重いものではなかったのか!?と強く思うのだ。

ヒロインおぶうが義経に斬られ、どろろみたいなひょうたんかぶりが義経に斬られる。
どちらも大事で今まで丁寧に作り込まれていた人物たちが、たった一コマで、邪魔だから、みたいなどうしょうもない理由でゴミをよけるように殺される。イケメンのはずの義経がエゴに歪んだ醜悪な顔で、ああ殺した、仕方ないから殺した、と糞みたいな言い訳をするのだ。阿呆か??








手塚治虫先生、先生にとってキャラクターとは?作品とは?そんな軽いものだったのですか?あなたは本当にあのブラックジャックで死の重さを僕に教えてくださった手塚治虫ですか?
悲しいのはこの作品が僕のような悪口と先生自身の完璧性によって描きなおされることが今後、決してないことだ。ああ、哀しい。