#線は、僕を描く #砥上裕将 322頁
奇妙なタイトルではないか。「線は、僕を描く」・? 主語と目的語が倒立している。。。
覚えにくいか、忘れがたいか、どちらかの印象を刻むタイトルだ。
つまりこれは「このスープが私です(ラーメン屋亭主)」とか「このピアノの音こそが私です(栄伝亜矢)」とかいう表現者、創作者が主張するニュアンスのことなのだな、と本読みは推測する。
水墨画の線の一本一本がその絵師の技量はおろか絵に対する志、いや自分の人生そのものへ相対する心根を筆の生む墨の線があからさまに現わすのだ。
この本は2019年の中旬からFaceBookの本好きメンバーの、特に名うての本読みたちの目にとまり瞬く間に投稿レビューが、コメントが、数多く上げられてきている。そしてそのレビュー、感想文もアツい賛辞に溢れている。この熱は現在も継続しており、しばらくは冷めることはないだろう。
本の装丁やカバーイラスト、そして帯やポップから受けるイメージもタイトル同様に自分には微妙な感じであった。なんとなく本の顔つきはライトノベルっぽいのに、扱う世界が水墨画??
「なんだこれは?」「これが、あの○○さんや、●●さんが激賞する物語なのか?本当に?」・・・・と。しかも、作者はまだ若い水墨画家であり、この作品がデビュー投稿作であり、メフィスト賞受賞!とな?
だが、危ぶむなかれ、これからこの本を手に取ろうとする諸氏は安心して本好きの先達たちの目利きの力量を信じればよい。
文章から絵が見える。文章から墨の香りが沸き立ち、和紙の手触りと、その奥に湛えられる主人公たちの水墨画に対するこころの貯水量の巨きささえ感じられる。とても正しく、的確で、達者で、美しい文章だ。
デビュー作で、しかも本業は水墨画家ということがにわかには信じがたかった、堪能しつつ驚愕した。
自分はこの作者の本業(シゴトではなく字のとおり本人の本当の業:カルマ)が絵師なのか、物書きなのか、正直にいうと判明できず、戸惑い、うらやみさえしてしまったことを白状する。
当初は困惑と驚きを持ってこの本の世界に入り込んだ自分は、物語が流れを生み、流れに乗るようになってこの豊かな文章の才能が、物書きと本読み、という僕らの世界にやってきたことを素直に喜び、歓迎した。
水墨画という全くなじみも既得の知識もない自分たち読者が、一ページ一ページ、嬉々として作者の
思惑通りこの世界を愉しみ、文章に酔うのだ。
春蘭に始まる水墨画の画題、そして主人公たちが描く作品もまた登場人物として僕達の心をつかむ。
この体験は本当に楽しい。恩田陸さんが音を文章にして、近藤史恵が美味しさを文章にしたように、
その時の読書と同様の快感と別ジャンルの素材を文章で読むというフレッシュ感を堪能できる。
そして、更に読み進めると砥上がこのように素晴らしい文章が書けることは、ほかならぬ水墨画に彼が
人並み外れた愛情を持っているが故の発露であると思うようになった。
「彼はこんなにも水墨画が好きなんだ。この世界を皆に知ってもらい、楽しんでもらいたいと思ってるんだ」と。
なるほど、そういうことだったのか・・・水墨画家であることとこの物語を書くことは彼の中では異業のものでもチャレンジでもない至極自然な表現であったのだと。
この物語のラストは希望にあふれ清々しい喜びとともに終わる。きちんと完結して円相の禅画が輪を閉じているようだ。
だから僕たちは、この次に発表される砥上の作品は小説の続編を望んではいけない。離れがたく別れがたい主人公たちであるが、ここは我慢すべきだ。
我々が賞賛すべきは砥上が今から描くであろう渾身の水墨画の力作なのだ。大いに期待しようではないか。