11月4日(金)内田光子(Pf)
~サントリーホールスペシャルステージ~
サントリーホール
【曲目】
1.モーツァルト/幻想曲ニ短調 K.397
2.シューマン/ダヴィッド同盟舞曲集 Op.6
3.シューベルト/ピアノ・ソナタ イ長調Op.959
【アンコール】
モーツァルト/ピアノ・ソナタ ハ長調 K.300h(330)~第2楽章
チケット発売当日、1時間以上かかってやっとつながった電話で取った7日のリサイタルの日は、他に行きたいコンサート(MAROワールド)と重なっていたことを後から知って、チケットを泣く泣く手放した。でもやっぱり内田光子は聴きたい!発売から1ヶ月以上経ってから、ダメもとで4日のリサイタルのチケットを訊いたら、なんと苦労して取った7日とほぼ同じ辺りの席が空いていた。内田光子と言えどもS席13000円となると、なかなか売れないということらしい。結局は完売となったようだが。
満員のサントリーホールのステージに登場した内田が最初に弾いたモーツァルト。冒頭のアルペジォの線が、薄明るい仄かな光の軌跡を残しながらさ迷う様子に、息を潜めて耳を傾けていた矢先に事件発生。客席から、ケータイだか何だか知らないが、ピアノの曲が流れ出した。こんなことに字数を費やしたくないので手短かに書くが、音を出した奴は即刻退場すべきだ!おれが近くにいたら、「出てけ!」の一言ぐらい飛ばすところ。これが尾を引いてしまい、自分の中でのモーツァルトは台無しになった。
次のシューマンでは何とか気持ちを立て直し、心を演奏に向けた。このダヴィッド同盟舞曲は、シューマンの他のピアノの大作と比べると馴染みが薄いが、シューマンの多様性をみんな持ち合わせ、とても魅力的で充実した音楽。内田のアプローチは、全身を清め、精神統一をはかり、無我の境地になって作品の内面の声に耳を澄まし、それをピアノを介して音像に結ぶ行為。シューマン的なネトネトしたものも浄化され、透明で孤高の美しさを放っていた。それぞれの楽曲が結晶のように輝き、訴えかけてきた。
後半のシューベルトでは、内田の求道者的な演奏がますますそのストイックさを増した。その象徴的な姿が第2楽章。光も音もない世界を、トボトボとどこまでもさ迷い歩いているような様子は、「冬の旅」の終曲「辻音楽師」の寒々とした世界に通じ、息が詰まる。終楽章のノスタルジックな旋律にも、二度と戻ることのない遠い光を見つめる孤独感が迫る。
内田光子の演奏は、身動き一つせず、衣擦れの音一つ立てず、息を潜めて耳と心を研ぎ澄ませて聴き入ることを求めてくる。シューベルトの晩年のソナタには、確かにこうしたシビアでストイックな面は多いが、もっとホッとできるところもあったはずでは。
アンコールで弾いたモーツァルトは、青年モーツァルトの若さ溢れる珠玉の名品だが、内田光子の手にかかると最晩年の音楽の響きがする。こうまで限りなく透明で、美しいけれど悲しく響かなければならないのだろうか。この曲は、青年モーツァルトが、就活に失敗したうえに、最愛の母親まで亡くした失意の旅先で書いたものと言われているが、プライベートな心情を直接作曲という行為で表現することをしなかったモーツァルト(或いはこの時代の作曲家)の、心の奥底の悲しみを、内田は汲み取ったのかも知れない。
~サントリーホールスペシャルステージ~
サントリーホール
【曲目】
1.モーツァルト/幻想曲ニ短調 K.397
2.シューマン/ダヴィッド同盟舞曲集 Op.6
3.シューベルト/ピアノ・ソナタ イ長調Op.959
【アンコール】
モーツァルト/ピアノ・ソナタ ハ長調 K.300h(330)~第2楽章
チケット発売当日、1時間以上かかってやっとつながった電話で取った7日のリサイタルの日は、他に行きたいコンサート(MAROワールド)と重なっていたことを後から知って、チケットを泣く泣く手放した。でもやっぱり内田光子は聴きたい!発売から1ヶ月以上経ってから、ダメもとで4日のリサイタルのチケットを訊いたら、なんと苦労して取った7日とほぼ同じ辺りの席が空いていた。内田光子と言えどもS席13000円となると、なかなか売れないということらしい。結局は完売となったようだが。
満員のサントリーホールのステージに登場した内田が最初に弾いたモーツァルト。冒頭のアルペジォの線が、薄明るい仄かな光の軌跡を残しながらさ迷う様子に、息を潜めて耳を傾けていた矢先に事件発生。客席から、ケータイだか何だか知らないが、ピアノの曲が流れ出した。こんなことに字数を費やしたくないので手短かに書くが、音を出した奴は即刻退場すべきだ!おれが近くにいたら、「出てけ!」の一言ぐらい飛ばすところ。これが尾を引いてしまい、自分の中でのモーツァルトは台無しになった。
次のシューマンでは何とか気持ちを立て直し、心を演奏に向けた。このダヴィッド同盟舞曲は、シューマンの他のピアノの大作と比べると馴染みが薄いが、シューマンの多様性をみんな持ち合わせ、とても魅力的で充実した音楽。内田のアプローチは、全身を清め、精神統一をはかり、無我の境地になって作品の内面の声に耳を澄まし、それをピアノを介して音像に結ぶ行為。シューマン的なネトネトしたものも浄化され、透明で孤高の美しさを放っていた。それぞれの楽曲が結晶のように輝き、訴えかけてきた。
後半のシューベルトでは、内田の求道者的な演奏がますますそのストイックさを増した。その象徴的な姿が第2楽章。光も音もない世界を、トボトボとどこまでもさ迷い歩いているような様子は、「冬の旅」の終曲「辻音楽師」の寒々とした世界に通じ、息が詰まる。終楽章のノスタルジックな旋律にも、二度と戻ることのない遠い光を見つめる孤独感が迫る。
内田光子の演奏は、身動き一つせず、衣擦れの音一つ立てず、息を潜めて耳と心を研ぎ澄ませて聴き入ることを求めてくる。シューベルトの晩年のソナタには、確かにこうしたシビアでストイックな面は多いが、もっとホッとできるところもあったはずでは。
アンコールで弾いたモーツァルトは、青年モーツァルトの若さ溢れる珠玉の名品だが、内田光子の手にかかると最晩年の音楽の響きがする。こうまで限りなく透明で、美しいけれど悲しく響かなければならないのだろうか。この曲は、青年モーツァルトが、就活に失敗したうえに、最愛の母親まで亡くした失意の旅先で書いたものと言われているが、プライベートな心情を直接作曲という行為で表現することをしなかったモーツァルト(或いはこの時代の作曲家)の、心の奥底の悲しみを、内田は汲み取ったのかも知れない。
そのリサイタルの翌日、上京してペライアのリサイタルを聴きました。
素晴らしかったです。特にフランス組曲第5番と「子供の情景」。
しかし、東京は贅沢すぎますよ、内田とペライアが2日続けてあるなんて。
確かに東京は演奏会には不自由しませんね。7日は、内田光子のリサイタルのチケットを買っていたのですが、MAROワールドと重なってしまったので、手放しました。こんなこともよくあります…