10月11日(火)イザベル・ファウスト(Vn)/クリスティアン・ベザイデンホウト(Cem)
~バッハの夕べ 二夜~ <第一夜>
王子ホール
【曲目】
1.バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第4番 ハ短調 BWV1017
2.フローベルガー/パルティータ ハ長調 FbWV612a(チェンバロ独奏)

3.バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ短調 BWV1018
4.ビーバー/描写的なヴァイオリン・ソナタ イ長調

5.ビーバー/パッサカリア ト短調(ヴァイオリン独奏)

6. バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 BWV1015
【アンコール】
バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3楽章
幅広いレパートリーで活躍するヴァイオリニストのイザベラ・ファウストと、鍵盤奏者のベザイデンホウト。2人の演奏は、それぞれ過去に王子ホールで聴いたことがあり、いずれも好印象を受けた。近年、2人は度々デュオを組んでバッハのソナタを精力的に演奏していて、王子ホールで初めてのデュオが実現した。プログラムの中心はバッハで、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全曲演奏会の1日目のプログラムを聴いた。
注目のバッハ、チェンバロ伴奏によるソナタは、従来2つのソロ楽器と、通奏低音(通常は低音の弦楽器と鍵盤楽器)のための「トリオ・ソナタ」を、ヴァイオリンとチェンバロによるデュオで表現した作品と言われている。ヴァイオリンと、チェンバロの右手で奏される旋律は対等なデュオ、それに通奏低音役のチェンバロの左手がハーモニーを添えるわけだが、今夜の演奏は、まさにそれを具現したものだった。
2年前、ファウストの演奏するブラームスを王子ホールで聴いたときは、研ぎ澄まされ、明晰で自然なダイナミズムに溢れた演奏を聴かせてくれたが、今夜のファウストのヴァイオリンは、その時のように共演者と競い合って目立つことはなく、チェンバロのベザイデンホウトと実に親密に、いつでも手と手を取り合い、近い距離でお互いが奏でる音を聴きあい、楽しげにお遊戯をしているという印象を受けた。
ヴァイオリンは旋律楽器、歌う楽器というイメージを持っている僕は、いくら両者は音楽の上で対等と言われても、どうしてとヴァイオリンの方に耳が行ってしまう。そのヴァイオリンが、音量的にも抑揚をつけるにも何かと制約があるチェンバロの右手1本と同じ土壌で演奏するのは、やはり無理があるのではないかと感じた。ヴァイオリンが何か遠慮しているように聴こえ、もっとチェンバロから解き放たれて「私の歌を聴いて!」と朗々と歌う場面がないことが物足りないのだ。
ファウストは、そうした制約のなかで、速いテンポの楽章と緩やかな楽章で弓を使い分け(恐らく毛の張り具合が異なるのだろう)、響きやテンションに、より変化を持たせるなどして、細やかなニュアンスを付けて絶妙な歌い回しを聴かせていたことは確かで、これに心から共感を覚えた聴衆も少なくないだろう。 僕もここに魅力を見出すべきなのだろうが、心から共感できない演奏を「本当はこう聴くべき」なんて思うことはやめた。やっぱり今夜のバッハは性に合わない、と白状しよう。
それに比べて、ビーバーの2つの作品は良かった。一種の息抜きのためのピースとしてプログラムに入れたという「描写的なヴァイオリン・ソナタ」は、チェンバロを本来の「伴奏」として従え、音色や表現を自由自在に変化させ、鳥や蛙や猫などの声を、ウィットとインスピレーションに富んだ表情で聴かせ、聴衆を魅了した。ヴィヴァルディの「四季」を思わせるパッセージも登場したが、ヴィヴァルディより一世代前のビーバーがこんな多彩な表現を発揮する音楽を書いていたことも驚き。
転じて途端に厳粛な雰囲気に包まれたパッサカリアは、無伴奏で演奏されるロザリオ・ソナタの終曲。ここはまさにファウストの独壇場だった。単純な下降音階による定旋律の繰り返しの一音一音が胸に深く刻まれ、その上で繰り広げられる多声部の変奏は、変幻自在に踊り、おののき、祈りを捧げる。崇高ささえ感じさせる演奏。ファウストはここでは、たった独りでトリオ・ソナタを演じていた。
ベザイデンホウトがソロで演奏したフローベルガーもよかった。多用されるアルペッジョが雅やかでギャラントな光と風を運び、少々気取ったステップで舞曲を奏でる様子は、宮廷の華やかな舞踏会を思わせた。バッハがまだ生まれる前のドイツにもこんなに豊かな表情を湛えた音楽があることを改めて認識した。
肝心のバッハは心に響かなかったが、今夜はわき役の曲目で救われた。
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クリスティアン・ベザイデンホウトの世界 Vol.1(2012.5.29 王子ホール)
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1.バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第4番 ハ短調 BWV1017
2.フローベルガー/パルティータ ハ長調 FbWV612a(チェンバロ独奏)


3.バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第5番 ヘ短調 BWV1018
4.ビーバー/描写的なヴァイオリン・ソナタ イ長調


5.ビーバー/パッサカリア ト短調(ヴァイオリン独奏)


6. バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第2番 イ長調 BWV1015
【アンコール】
バッハ/ヴァイオリン・ソナタ第1番~第3楽章
幅広いレパートリーで活躍するヴァイオリニストのイザベラ・ファウストと、鍵盤奏者のベザイデンホウト。2人の演奏は、それぞれ過去に王子ホールで聴いたことがあり、いずれも好印象を受けた。近年、2人は度々デュオを組んでバッハのソナタを精力的に演奏していて、王子ホールで初めてのデュオが実現した。プログラムの中心はバッハで、ヴァイオリンとチェンバロのためのソナタ全曲演奏会の1日目のプログラムを聴いた。
注目のバッハ、チェンバロ伴奏によるソナタは、従来2つのソロ楽器と、通奏低音(通常は低音の弦楽器と鍵盤楽器)のための「トリオ・ソナタ」を、ヴァイオリンとチェンバロによるデュオで表現した作品と言われている。ヴァイオリンと、チェンバロの右手で奏される旋律は対等なデュオ、それに通奏低音役のチェンバロの左手がハーモニーを添えるわけだが、今夜の演奏は、まさにそれを具現したものだった。
2年前、ファウストの演奏するブラームスを王子ホールで聴いたときは、研ぎ澄まされ、明晰で自然なダイナミズムに溢れた演奏を聴かせてくれたが、今夜のファウストのヴァイオリンは、その時のように共演者と競い合って目立つことはなく、チェンバロのベザイデンホウトと実に親密に、いつでも手と手を取り合い、近い距離でお互いが奏でる音を聴きあい、楽しげにお遊戯をしているという印象を受けた。
ヴァイオリンは旋律楽器、歌う楽器というイメージを持っている僕は、いくら両者は音楽の上で対等と言われても、どうしてとヴァイオリンの方に耳が行ってしまう。そのヴァイオリンが、音量的にも抑揚をつけるにも何かと制約があるチェンバロの右手1本と同じ土壌で演奏するのは、やはり無理があるのではないかと感じた。ヴァイオリンが何か遠慮しているように聴こえ、もっとチェンバロから解き放たれて「私の歌を聴いて!」と朗々と歌う場面がないことが物足りないのだ。
ファウストは、そうした制約のなかで、速いテンポの楽章と緩やかな楽章で弓を使い分け(恐らく毛の張り具合が異なるのだろう)、響きやテンションに、より変化を持たせるなどして、細やかなニュアンスを付けて絶妙な歌い回しを聴かせていたことは確かで、これに心から共感を覚えた聴衆も少なくないだろう。 僕もここに魅力を見出すべきなのだろうが、心から共感できない演奏を「本当はこう聴くべき」なんて思うことはやめた。やっぱり今夜のバッハは性に合わない、と白状しよう。
それに比べて、ビーバーの2つの作品は良かった。一種の息抜きのためのピースとしてプログラムに入れたという「描写的なヴァイオリン・ソナタ」は、チェンバロを本来の「伴奏」として従え、音色や表現を自由自在に変化させ、鳥や蛙や猫などの声を、ウィットとインスピレーションに富んだ表情で聴かせ、聴衆を魅了した。ヴィヴァルディの「四季」を思わせるパッセージも登場したが、ヴィヴァルディより一世代前のビーバーがこんな多彩な表現を発揮する音楽を書いていたことも驚き。
転じて途端に厳粛な雰囲気に包まれたパッサカリアは、無伴奏で演奏されるロザリオ・ソナタの終曲。ここはまさにファウストの独壇場だった。単純な下降音階による定旋律の繰り返しの一音一音が胸に深く刻まれ、その上で繰り広げられる多声部の変奏は、変幻自在に踊り、おののき、祈りを捧げる。崇高ささえ感じさせる演奏。ファウストはここでは、たった独りでトリオ・ソナタを演じていた。
ベザイデンホウトがソロで演奏したフローベルガーもよかった。多用されるアルペッジョが雅やかでギャラントな光と風を運び、少々気取ったステップで舞曲を奏でる様子は、宮廷の華やかな舞踏会を思わせた。バッハがまだ生まれる前のドイツにもこんなに豊かな表情を湛えた音楽があることを改めて認識した。
肝心のバッハは心に響かなかったが、今夜はわき役の曲目で救われた。
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