星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

不安を隣においておく。

2023-04-05 22:09:09 | 日記

4月5日

 

不安。そのようなものが漠然としてある気がする。それはあまりにも漠然としすぎていて、どうしたらいいのかもよくわかっていなくて、とりあえずそのままにしている。現代ではそういったことも少なくないと思う。常に抱え込んでいる、意味のわからなくて説明もつかないものがある。それらの核心には触れられない。だからなんとなくスマホを触ってごまかしたりする。酒を呑んでごまかしたりもする。人と会って話していくうちに消えていったりもする。一人でいるとき、どこか遠い空に向かうような意識が芽生えたりして、それが着地点のない不安であることに気づく。今、自分の隣にはそれがいる。

 

大概、不安はただの思い過ごしでしかなく、未来は勝手な方向に進んでいくしかないので、不安に満ちていても仕方がない。しかし安心に満ちてもまた同じことで、これまた仕方がない。だから考えても、考えてしまっても、まあまあな未来があるものでしかない。それを自分なりにわかった気持ちでいて、不安を隣に置いておくしかない。しかし、不安なんて大したものでないと知っていても、不安はやってくるものである。自分は今初めてのものとして、それを経験した。不安は諦めてもやってくること。どのみち気持ちの高低さは自然現象としてあるものだと悟っていても、それはそれとしてやってくるものなのだ。ますます抵抗する気も失せてくる。

 

しかし、何事をもこなしていくにあたって、気持ちの沈んでいる状態は、少々邪魔くさい。やることは決まっていて、やりたいことはそれに向けているだけの話なのに、気持ちが下がっていては物事の進行具合も遅い気がする。そしてインプットされていくべきものも、脳内にかかっている靄がガードして、入り込んでくれない。じゃあ結局、不安とか心配とかというものは隣に置いておく時点で癌なのだ。これは由々しき事態である。そう考えると今度は焦りが到来する。苛立ちが顔を見せに来る。さらには自己嫌悪もついてくる。そうやってさまざまなものがこぞって押し寄せる。最終的には混ざり合って、何と呼べばいいのかわからないものに仕上がっている。

 

そこまで行けば、もうどうでもよくなってくる。むしろそんなジャンクなものたちをうまく活用できないかという意識の転換も考えていく。それこそが今の原動力だと思う。大人になればそれが一つの行動力になるものだと思っている。子どもの頃のような、好きな気持ち一つで動けるものではない、大人の生き物。いろんなものを混ぜこぜにしてしまって、結局それでしか生きていけないから、それでやる。ある種の諦めみたいなものだ。結局、自分はまた不安を隣に置いておく。


リゾバによるセルフカット。

2023-04-04 22:23:45 | 日記

4月4日

 

休日。朝のルーティンが終わった後、昼前まで眠っていた。その長い眠りの中でようやく、上田で過ごした2泊3日間の疲労を拭い去ることができたような気がする。起きた時は睡眠の摂りすぎでもはや気だるく、モチベーションも下がり気味なものであった。そして丸一日の休日を、どうやって過ごすかも考えておらず、計画性のかけらもないままに自由な時間を前にして、うまく頭も働かないありさまであった。

 

とりあえずは髪を切った。美容院に行くことなく、自分の手でハサミを使ってカットしていく。与論島で住み込みをしていた時から、美容院に行く習慣は自然と消え失せていた。南にあるあの小さな離島では、ホットペッパーに記載されているような美容院はひとつもなかった。地域に根付いているような美容院はあったのだが、そこに行く勇気はなかった。リゾートバイトをしていく上での一つの悩み、それは美容院探しである。城崎にいた時も米子にいた時も、箱根でも与論でもどこで髪を切ってもらえばいいか迷ったものだ。そして辿り着いた結論が、自分で髪を切ることであった。昨今ではyoutubeで調べるといくらでもセルフカットのやりかたの動画などが紹介されている。便利な時代になったものだと思う。それを参考にしてハサミを入れていく。やり方こそ動画ではたくさん出ているのだが、問題は自分の技術力がそこに追いついていないこと。まあこれは練習を重ねて慣れていくしかないのだが。そしてそれの練習台となるのはまさしく自分自身の髪である。今回は前髪に失敗してしまったから、また生えてくるのを待つしかない。

 

部屋の中で散々に切ったので、至る所に髪の毛を撒き散らした状態を掃除しなければならない。床中に掃除機を容赦なくかけていく。自分が住んでいる寮の床はカーペット状になっているので妙に埃っぽい。掃除機をかければかけるほどに埃っぽさは無くなっていくと思う。そんなこんなで今日のやったことはそれくらいである。時間が余ったので小説を書こうとしたのだが、原稿用紙に向かっても全くもって書ける気がしない。こんな普通の日記は書けるのに、だ。それだけが今日の不満であった。でもしかたないから、明日の自分に頑張ってもらうことにして、今日は寝る。


まだ本調子ではなさそう。

2023-04-03 19:58:27 | 日記

4月3日

 

とりあえずは7時間ほどの睡眠を摂って、そしてまともなような、でも相変わらず本調子ではないような自分である。昨日と同様、ちゃんと文章を書ける自信がない。しかしそれでも朝のモーニングルーティンはいつものようにこなし、昼の仕事もちゃんと終わらせられて、今に至るのだ。それならばそれでいいはずなのに、相変わらず自分は自分を許せないでいる。求めるものが肥大化して、普通に一日を終えることに対して、もう一声、もうふた声と、どんどん自分を加速させてやりたくなるわけだ。完璧主義の自分が未だに拭えない。早く行動したい、何か形に残したい、そんな前のめりな部分が強調されている。

 

しかし実際は、まだライブ終わりのふわふわしたものがまだ染み付いているようにも感じる。そして心の中に妙なささくれだったものも感じている。このささくれはいかなるものであろうか。なんだか久しぶりのもののような、不安が見出されそな感情である。せつないものに近いだろうか。おそらくは人を想っての感情でもある。人に対してそれなりに距離をおいて、ただひたすらに自分の道を進みたい自分にあてがわれているようだ。これは警告なのかもしれない。ちゃんと人たる生き方をしなければいけないという、孤独を好き好んで人間を失ってはいけないという、そんなサイレンが遠くの方で聞こえてきたのかもしれない。

 

そうだ。最近は以前よりも人間関係を深めることも減ってきて、同じ仕事先の人たちとも、それなりの距離を保とうとしてしまっている。別にわざとではない。つい無意識のような形で遠ざかってしまうのだ。それでも業務をこなしていくのは相変わらずで、なんなら以前よりも丁寧で早く動くことができている。それもまた怖いような気がする。自分は目的のためにしか動けない生き物なのだろうか。幸せよりも、楽しさよりも、自分の求めるものを第一に考えて、あとは全部後ろにしてしまう奴になってしまったのだろうか。自分のことをよく思ってくれている人にも、まともに信用をおいていない。そして自分は自分しか信用していなくて、そしてその自分すらも許しをおくことがない。それでも自分が潰れないのは、その先を見るためだからかもしれない。

 

これは正しいのだろうか。正しくないとしたら、自分は何をすべきで、どうやっていらないものを拾えばいいのか。蛇足めいた自分を呪う自分は、きっと誰かと談笑することだってできやしない。今の自分で行けば、文章だってたくさん書くことだってできるし、ブレる自分にはなりにくい。でもそれでいいのか。わからない。わからないから、とりあえず今日はぐだぐだして寝てやろうと思う。きっと疲れている。


ライブに行って、まともな言葉も出なさそうで。

2023-04-02 23:03:33 | 日記

4月2日

 

4月になって、それなりに新しいことが始まってもよさそうなのだが、そういうものは何もない。ただ昨日はバンプのライブに行き、それによって日記を書くこともできずに、今は満たされたような疲労感がある。2泊の遠征の旅は無事に終了した。いや無事に、なのかどうかわからない。ただ強烈な眠気が今になって襲ってきている。今日の始発電車で上田から2時間半かけて野辺山に戻り、寝不足のまま出勤。ライブ終わりの夜なんてまともに眠れるわけもなく、睡眠時間は4時間ほど。目がシャバシャバする。ライブに行った感想はいまだにまともに言えないと思う。ライブが始まり、バンプのメンバーが出てきて、1曲目の「アカシア」が流れてから、しばらくずっと泣いていた。理由はわからない。なぜかずっと目から涙が溢れかえってわけわかんなくなっていた。10曲くらい演奏し終わって、メンバー紹介的なMCが始まり、和やかな雰囲気になってようやく涙は収まった。そこからは普通に音楽を楽しめていた。未だにふわふわした感覚が抜けきらない。もうすでに疲れは限界に来ているのかもしれない。とりあえず眠るとする。日常生活の軌道を戻さないといけない。


狭き門、こじ開けたい。

2023-03-31 20:38:25 | 日記

3月31日

 

野辺山から電車で2時間半の旅を続け、長野県上田市に到着した。朝からの旅路で疲労は溜まっている。上田は城下町ということで、風情ある街並みが特徴的である。商店街も活気があり、そこそこに発展している。甲府とか、佐久平とかよりも居心地が良いような気がする。昼間は買い物とかもしながら、上田城の桜を見に行った。は散々歩き回ったので、今晩は上田市のゲストハウスでゆっくり一泊することにする。

 

正直、ゲストハウスは落ち着きがなくてすこし苦手だったりする。いろんな人が行き交う中で文章を書くことは、少しやりづらく、普通にビジネスホテルとかに泊まればよかったと感じている。人見知りで、あまり人の雰囲気に飲まれたくないからというのもあるけれど。なんというか、初めてシェアハウスに住み始めたときのそわそわした感じを思い出す。大阪に住んでいた時、常に廊下やリビングで人が行き交い、すれ違えば挨拶をして、同じ空気感を当たり前のように共有し合う、あの空間。ああいう賑やかさがとても恋しい時もあった。あの時の自分は、やっぱりあの時の空気感が必要だったのだ。あの生活こそにやりがいを感じていたし、自分の場所だと堂々と胸を張って思えるものだった。

 

今の自分は、とにかく一人で文章を書き続けていく時間が欲しいのだ。だから、寂しさを解消したり、誰かと賑やかに暮らしていくことを求めるわけにはいかない。実際、こうやって自分のやるべきことを求めていけば、自然と自分の身を置いておくべき空間というものが、おのずと見えてくるような気がする。自分の今住んでいる野辺山は、不便さこそは目立つけれど、自分の作業を邪魔されることはない。孤独感や寂寥感、静けさに襲われて飲み込まれてしまいになるけれど、それは問題ではない。そもそも安心を求めて生きているのではないのだからと、そういった気持ちで絶望と隣り合わせにならなければいけないのだ。

 

それはとてもスリルのある生活ではある。捨て身のものでもある。そんなものが必要かと疑問にも思う。でも安寧の暮らしでは、賑やかな暮らしでは、きっと無意識の領域には達することができないであろう。自分はそれが欲しいのだと、最近気づいた。無意識の領域、その狭き門をこじ開けなければ、自分は所詮その程度止まりだろう。その程度で終わるのが嫌だったので、家を飛び出して、シェアハウスを飛び出して、関西を飛び出した。馴れ合いがあれば、きっと手を緩めてしまう。幸福があれば、そんなもの忘れてしまうだろう。忘れてしまった方が楽だったかもしれない。でも忘れられないから、今の自分がある。多分死ぬまで忘れないと思う。