10月14日
気づけば10月も半分が過ぎようとしています。
その半分の間に、自分は与論島内で、あちこちに翻弄される精神を保ちながら、海水浴をし、短編小説を文学新人賞に応募し、酒を求めて異性を求めて、そしてやり場のないような気分を抱え込んだまま時を過ごしているのでした。与論島の生活も残り一ヶ月半となり、来た時と比べて何が変わった訳でもないのですが、相変わらず自分は自分の中にあるものと対峙することに時間を費やしているようです。
それは小説を書き上げたとて変わることのないもののようらしいです。文学に力を使えば、何か変わるような気がするのは、ただの気のせいだったようです。しかしだからといって、文学を止めることはできません。もしかしたら止めることはできるのかもしれないけれど、その先にある狂った部分をどうして慰めてあげられるのか。何か自分の内部の狂った部分を、うまく解きほぐして、介助してあげれば、まともな人間になるのでしょうか。
社会が、世界が、狂わずに日常を続けているのは、その大部分が狂うことなく時を刻み続けているからに他なりません。その社会の中の人間一人一人に焦点を当ててみると、その人たちは一見、さもまともそうに生きているように見えます。その裏で、どんなものを隠しているのかは、私たちが知るよしもありません。
しかし私たちは自分の裏側なら、見ることが許されます。自分からは、他人の誰一人として、その表面化された恥のかけらもない姿の、裏の部分を知ることはなくとも、自分だけは別です。常に自分とその裏側との兼ね合いを意識するしかないのです。そしてそれが社会の裏側の判断材料になるのです。むしろそれしかありません。
私は自分の裏側は狂っているのだと感じています。毎日鬱に悩まされて、いつもそれを忘れることなく内面と睨めっこしながら、社会を生きています。それ以外の人たちがどうなのかは全くもって知りません。
だから私は私の事情を世界に当てはめて生きていくことにしています。自分と同じく、周りの仲のよい友達や、気になる異性の人、家族、仕事関係の人など、皆全てが裏側に狂気を隠し持って、それがストレスで炙り出されそうになりながらも、娯楽で誤魔化したり、芸術で昇華したり、愚痴を吐いたり泣き寝入りしたりして、表世界での安寧を保っているのです。
そういうことにしています。世界はそうして回っているのだと。私は何度、裏の狂気に晒されながらも、なんとかして体裁を保ち続けたことでしょう。人間一人分でも相当な怨念の強大さですから、これが数多の人たちで形成されている街や社会は、いかにも狂っている裏側の土台でできているのかがわかります。
そんな場所に降り立つことになったのです。誰に望むでもなく、頼むでもなく、ここにいるのです。生まれてからの選択は常に自分次第、それでも自分は誰かに選ばされてきたこともある気がしているのですが、さあどうでしょうか。
でもそれは少しわがままかもしれませんね。