4月9日
風の強い日である。相変わらずの野辺山生活でもある。もはやここでの生活も完全に板についてきたようで、違和感のかけらも見出せなくなっているのである。コンビニまでの長い道のりを自転車で行くのも、1時間に一本あるかないかの電車に乗ることも、真っ暗闇の夜を一人で過ごすことも、これが日常なのだと思ってしまうくらいである。そして夜になってそろそろ眠たくなった時に、おもむろにパソコンを開いて、これを書くのもまた日常と化しているわけである。こういうものだと、自分の理想もあやふやなままに、今の自分はこういう環境だろうと不思議な納得に辿り着いてしまったのである。
しかし昨日書いた通り、仕事での負担はそこそこであるわけだけれども、完全に一人の辛さではないはずなのである。内向的な自分は、どうしても自分の感情とか感想が自分一人のものだと思いこみがちであるが、多少は同じ環境の人たちが同じような気持ちを抱いているものである。今の自分が大変だとするならば、周りの人たちもまあまあ大変であろうし、自分が楽しいものに触れられたら、他の人もそこそこには触れるものであろう。なので、あまり独り占めしないことだ。独り占めしたって、そうそう隠し通せるものではないのだから。恥ずかしがっても、結局はそんな大したことではないのだから。
大胆さを求めたいわけではない。外交的な、明るい自分があるとは思えない。ただ一人のものだと思い込んでいることが、全然一人のものではないことが往々にしてあるものではないかと、そう考えたりする。もちろん一人でしか抱えられないものもあるのだが。意外に人は共感したり、洞察しているものじゃないだろうか。
でなければ社会なんて成り立たないだろう。自分はまさしくその社会に生きているわけだから、その法則をうまく活用することこそが、自分の可能性として秘めていることでもある。社会の法則、人の法則を読み取るのだ。もしかしたら無意識にしている部分もあるだろうが、これに関してはもっと積極的に、意識的にやり進めてもいいとは思っている。人にわかってもらうこと、人からその能動的な力を見出すことの大切さ。そういうものがわかればいいのだけれども。難しいけれど、一つ考えてみたくある。