星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

うつらうつらと日記を書く

2022-01-29 20:10:27 | 日記

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金曜日までの5連勤に疲れ果てた私は、土曜日である今日丸一日を何もせずに眠り通すという、怠惰のようにも思える行動で締めくくりそうです。

現在夕方も終わりかけ、むしろ夜の始まりである18時半。今日一日何をしたっけなと考えると、昼まで寝て、空腹に我慢ができずにミネストローネを大量に作って食べ、個室の床を掃除機できれいにした、その程度です。

およそゆったりとした、時間の流れをただ眺めるだけの作業は、単調なようでして、最も価値のあるものなのではないかと、ふと考えたりもしました。の心は、忙しなく生きていることそのものに価値を見出すこと、それが社会的によきとされていること、そのもの自体に疑問が湧いたからです。

読書をしていると、さまざまな価値観に出逢います。それがたとえフィクションであろうとも、考えは考えです。本当にあった事実だろうと、嘘ともいえる想像の世界のお話であろうと、人の生み出したものであることは確かです。それに携わることで、既存に浮き彫りとなった私の価値観に、改めて見極めを施す猶予を与え、無自覚だった当たり前に疑問符を付け加えるのです。

そこからまた新しい自分が産まれて出てきます。

そんな自分が、今のただダラダラしている生活もいいものだと納得しているわけです。我ながら、ものや人に感化されやすい性格をしているなと、改めて思います。感受性の面では人一倍の鋭さを持っていると自負しているのは、こう言った面ですぐに変わってしまうからなのでしょう。感動を引き起こされると、ついその物事の素晴らしさを投影したくなる。

そして自分でその気になってみたりもする。小さな頃から、なりきりが好きで、ごっこ遊びには夢中でした。

ヒーローものに憧れては手足をあくせく動かして想像力を遊ばせて、人形を買ってもらえるたびにそのキャラクターに役割を与える、それが自分なのでしょう。同時に怖いことだってあります。

すぐにでも影響を受けてしまうわけですから、危ない思想や恐怖映像など、あまり携わりたくないものへの不可抗力だって、多少はあるわけです。それすらも、今まで生きて生きた中で、なんとなくうまく帳尻を合わせていく、そんな処世術を活用していきます。

そんなこんなで、今日の自分は完全なオフモード、さっきサウナにも入り、完全に体は整っています。

明日は日曜日で、これからは土曜日の夜、ということなので、みんなでゲームでもできたらいいかなと思う次第ですが、さてどうなることでしょうか。


疲れただけの文章

2022-01-28 20:49:04 | 日記

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サイコーーーーーー

 

なことに、ようやく月曜日からの労働から解放されて、やっとゆったりと時を過ごせる土日に差し掛かりそうな、金曜日の晩です。コロナウイルス感染症の症状も収まり、自治体から自粛解除のお許しを受けて今週初めから久々に出勤することになったわけですが、久々の出勤、それも5日も働いて、ほとほとに疲れました。コロナの症状が出てからおよそ10日間は隔離を強制されて、その10日間が終わった後も数日は仕事に来てはダメだと、会社から出勤自粛を命じられて、私は二週間ほど家に閉じこもることしかできなかったのですが、その期間も遠い昔のように感じます。そりゃあそんな病み上がりですから、疲れたこと疲れたこと。最近はブログを書くときに、何かテーマに沿ったこと、例えば音楽とか読書とか、いろんなお気に入りのコンテンツについて語ろうと思っているのですが、今はそれもままならない、ただひたすらに、コンコンと溢れ出る煩悩や、休め休めと命令してくるお邪魔虫な脳みそのせいもあって、全く思いつくことのできません。とにかく書いているだけの文章となりまして、まあよくやっている私の得意分野になるものです。こうして文字で埋め尽くす作業になんの理念もあったものではないのですが、しかし文章に携わることへの先への道は、未知なるものであっても希望に照らされているような、そんな気もするものです。

というのも、最近の私は、限界に挑もうかと言わんばかりに、読書に励んでいます。昨日から、ドイツの作家が書いたものである『モモ』という小説を読み始めました。たまたまKindleで見つけたにすぎなかったのですが、これがまた面白くて、仕事の休憩中なんかの合間を縫って、あっという間に半分くらいまで読み終えました。ドイツ文学といっても、もともとは児童文学を中心に書いている作家らしく、難しい表現は一才ありません。また読み終えたら感想を言いたいと思います。とりあえず今日は、一旦一休みして、体力が回復したら、リビングでミネストローネでも作ろうかと思っています。ではでは。


全集を初めて読み終えて

2022-01-27 20:43:48 | 日記

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谷崎潤一郎の全集第1巻を無事読み終えました。感想としましては、難しいけれど、読み応えがあって面白いの一言です。

語彙力が限りなく豊富な作家なので、一文一文に知らない単語が出てくるほどで、さすがは明治の文豪だなと思います。

それに加えて、迷いのない文章が、延々と続いていき、そして展開を加えていく。その話の面白さは確かなものがあると思いました。

谷崎はいわゆる「耽美派」というカテゴリーの作家になります。哲学や人生観といったようなものより、美そのものを追求するような形態の芸術です。谷崎本人がそう名乗ったわけではなさそうですが、あくなき美への追求するスタイルが本当なのか、それは作品を読んでいるとなんとなくわかる気がします。

確かに彼の小説には、哲学めいた教訓などはほぼ出てきません。少なくとも1巻の時点ではそうでした。これから先の巻に、そんな彼の人生観が垣間見えるのか、とても楽しみです

2巻は来月頭ごろに家に届くそうです。

 

では。


別に何もないところから

2022-01-26 20:29:21 | 日記

息抜きもたまには必要ですが、人生の時間は有限なので、一休みがつい勿体無く感じることはしかたないのです。

別に生きているだけなのだから、そんな焦るものなど何もない。

目指すところはあくまでも頭の中の現実でない部分。

現実はもっと難しくて、ややこしくて、そんでもって無限の世界が広がっています。

人の頭の中もまた、無限に広がり続ける世界を構築できる、達者な脳みそを持っています。

自分にできることは、その脳みそを活用していくこと、それによって世界が広がると信じることです。

ここのところ、うまくいかない生活に悩まされたり、コロナウイルスにかかって39の高熱が出たり、Amazonの荷物が届かなかったりと、いろんな小さな不幸に出会っています。

今の自分ができることは限られていますが、悪い気はしていません。

お金もないし、恋人もいない。仕事は派遣の事務職だけ、とまあ冴えない時間の中で、いかにして豊かさを得るのか、そのことばかり考えています。

そのためには、とりあえず進むしかない。動くしかない。コロナの高熱にかかって、もう何もしたくない状態から解き放たれた今、気付かされました。

音楽を聴いて感動して、人に会って緊張して、異性を意識したり、なんでもないような街並みの風景に身を委ねたり。。。

今できることはそれくらいですが、あんまり悪くないような気がしています。

 

 
 
 

読解力を感じた最近

2022-01-25 20:50:30 | 日記

 

最近、読書に励んでいるせいか、読解力が上がった気がします。

数週間前にとったアプリ版の日経新聞(有料)も、以前よりかはスラスラと読めるようになりました(しかし単語の意味を理解しているわけではありません。素読の技術が上がり、難読な文字や文章表現に出くわしてもそのまま読み進められるようになっただけです)し、リビングで誰かがいる時でも、無心になってコラムとかwikipediaとか読めたりします。

以前はそこまで集中力がありませんでした。リビングで誰かがいるとつい話し込んだり、部屋で読書に専念しようとしても、数分で嫌になったりしてました。

ちなみに最近ハマっているwebサイトは「NEUT Magazine」というものです。

NEUT Magazine

ここではたくさんのアーティストや、俗にマイノリティと呼ばれがちな人たち、そしてタブーとされている社会問題に携わる人たちのインタビューなどを取り上げているサイトです。日本ではあまり表沙汰にならないようなものも取り扱っているので、異文化を知る手がかりになります。

取り上げているのは性の問題など、テレビでは取り上げられないものや、入れ墨やAV女優などあまり良いイメージを持たれない傾向のもの、20代のうちに農家として生きていく人などさまざまです。普通に過ごしていたら出会えないような考え方を持っている人たちが多く取り上げられているので、自分が生活していく上でもとてもいい刺激になります。

今の時代、取得できる情報の選択が広がり、好きなものを好きな時間に携わることができます。

その分、しっかり選ぶことのできる人は、自分の価値観に沿ったものを選べますし、映画や音楽など、自由な形で知ることができます。しかしその反面、何を選べばいいのか、人によって答えは定まっていませんし、迷いが生じるのもおかしくありません。

とりあえずYouTubeをダラダラ観ているうちに、恵まれた人生を送られたらいいのですが、それは難しいのかもしれません。私のように真面目のつもりで生きているからといって、幸せの質が最高のものになるとは限りません。

要は人それぞれなのです。人それぞれだから、その自由さの真の価値に気づいた時こそが、本当の幸せなのでしょう。それが見つかるまでは、見つけられなかった結末を迎えるとしても、探すしかないのです。