星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

寝付きの悪さ、老朽化した家

2021-11-29 16:00:05 | 日記

11月29日

 

言いようのない、起き上がる気の起こらない憂鬱な朝の目覚めで今日は始まりました。

朝早く起きて昼ごはんを作ってしまおうと画策していた昨日の計画は、目覚めた瞬間の気だるさで一気に吹き飛んだのです。そして結局朝の10時くらいまで寝ていました。目覚めの悪さは寝付きの悪さ、浅い眠りによる疲れが原因のように思います。

かねて小学生の頃から寝付きが悪く、ぐずっていることも多く、家族や親戚に迷惑をかけていたのを覚えています。

そんな私とは真逆に、眠たくなればすぐに眠ることのできる人がいたりしますが、そんな人の気持ちがよくわからない。ああもうなんで私はいつもこんなやつなんだと、たまに無性に腹がたったりします。たかが寝付きが悪いだけで、他のいろんなダメなところが垣間見得て、さらにダメになる。そんな悪循環の繰り返しが私のサイクルなのでしょう。

ありがたいことにそれに歯止めをかけるのは、私自身の気まぐれか、時折私の計算の外からやっていくる誰かしらの言葉です。今日も憂鬱な朝の目覚めが霧散されるように、共有リビングでの会話があって、いつの間にやら私は自分の内面にあるネガティブも消えていたのです。

リビングでの話題は、メンバーこそ違うものの昨日の続きのような形で、とうとうこのシェアハウス内でネズミが現れたとのことで、ネズミの苦手な女性陣は阿鼻叫喚でした。

天井裏から聞こえてくるネズミと思しき足音も夏頃に比べると確実に増えてきているし、だから早めに処理して欲しかったのにとご立腹の人もいたり。まあそうでしょう。私もネズミとかゴキブリとかなら我慢できるけれど、大嫌いな蜘蛛が室内にこれだけ繁殖していたらたまったものではない。それこそ実家に帰らせていただきたい話になるのだから。

この家もなかなか老朽化が進んでいて、地震とかきたらもう一発アウトになる可能性も高いボロ具合です。南海トラフとか確実に倒壊の可能性大であろうし、シェアハウスとして運用されてからもかなり年数が経っているせいで家電家具の劣化も激しいし、そして今回のネズミの問題もあるし、個人の問題の前にこの建物をどうにかしなければいけないのではないかと、心配もそこそこに考えてしまう今日この頃です。

 


ネズミが出た、そんな報告で目覚めた朝。

2021-11-28 18:39:59 | 日記

11月28日

 

日曜日、ということを言い訳にして、こうしたネットでの色々なやるべきこととかもそれほどにしておきたい、みたいな甘い考えも日曜日ならばまかり通りそうですがどうでしょうか。

私は現在、大阪のとあるシェアハウスに住んでいるのですが、朝、このハウスの一階のトイレにネズミが出たという報告を聞いていまいました。

一階のトイレは私の部屋のすぐそばにありまして、そこでネズミを見たといっていた同じ住人の大声ときたら、たまったものではありませんでした。

彼の悲鳴は部屋で寝ている私の耳に容易く届いてしまうほどの大声で、まるで私の夢の中で聞こえたものなのかと錯覚してしまうほどでした。

結局私が起きて確認する頃には、ネズミは逃げてしまったらしくて、お目にかかることができませんでした。

図らずもそんな感じで日曜日の朝を壊されてしまって、昨日の段階では午前中のうちにやるべきことを全部してしまおうとか考えていたのですが、ドアをノックされてリビングに出てしまった流れでみんなと話をする流れとなり、そして一緒にテレビを見たりして、何もせずに時間を見送ってしまいました。

まあそういう時間も大切なので、別に思い通りにならないことに憤りを感じることもありません。計画通りに行かないことなんて、日常茶飯事でしかなく、計画通りにいったことの方が少ないくらい、計画性のない自分なのですから。

1日は長く、24時間の間に想像していた通りに時を送れるなんて考えの方が傲慢な気すらもしてきます。

ましてや私はシェアハウスに住むということを選んでしまったわけですから、素性の知らない人たちと一緒に時を過ごしていく覚悟を決めたものだと、周りに対して形で証明してしまったわけです。

どんな人が住んでいるかも、どんな空気の空間かも定かでないままに暮らしていくことを決めたのです。

何故、人見知りの極限地にいる私がコミュニティを重視するシェアハウスに引っ越すことを決意できたのか、当時の記憶を掘り起こしても、いまいちピンとくることもなく、まあ当時勤めていた仕事を辞めた解放感の勢いのままで大阪に行こうと弾かれたのでしょう。半分は私自身の意思であり、もう半分は風の向くままだったのだと。

そんな私の大阪での暮らしも、もうすぐ一年を迎えようとしています。この一年間、本当に色んなことがあったと思うし、高齢者のように過去を振り返ってしんみりしたくもなるこの頃ですが、自分にとって、まだ未踏とされている世界を馬鹿みたいに走り回っていたい狂気も垣間見えるので、振り返りはまだ先の話になりそうではあります。

 

 


脱ダーク

2021-11-27 15:41:08 | 日記

11月27日

暗い気分に陥るような、それに歯止めをかけるような、自制心のギリギリの具合で平静を保つ土曜日です。

昼ごはんは共有リビングの冷凍庫に眠らされていた謎の青魚です。それを竜田揚げにして食べました。

いい感じの満腹気分に軽い眠気を覚えながらも、これを書いています。

ただいま梅田にある若者のしゃべくりで雑多としたカフェの端っこにいるわけですが、特に外出の用があったわけではなかったりします。

ただ、家の中にいるとパソコンを開く気にもならない、発狂しそうな鬱を携えた私がいるだけなので、とりあえず多少金がかかってもいいので家を出るしかないのです。

別にそこまでアウトドアの自覚もないのですが、どうしても家というのは、何かよからぬことばかりが頭に浮かんでしまう。

やたらにネガティブで、破滅的で、どうせ幸せになろうがなんだろうが、自分はいずれ召されていくことには変わらないのだから、足掻いても無駄なんだな、さあ困ったものだ、とりあえず布団に包まれば少しは意識も遠のいてマシになるだろうか、とか死ぬほどどうでもいいことを堂々巡りして、それでまた寝てしまう休日になるのです。

これでも一応社会人として歯車の一つとして生きているのだから驚きです。みんなは私のように気が狂いそうになったり、孤独で妄想を繰り返したりすることってないのでしょうか。

大阪駅すぐそばの交差点、行き交うたくさんの人たち、みんな至ってまともそうに無表情で歩いていきます。

この中で本当にまともな人は一体どれくらいなのでしょうか。どれくらいの人が、内面気が狂っているのをひた隠して平静を保っているのでしょうか。そんなことを考えている自分の頭を、どれだけまともとして捉えたらいいのでしょうか。

大人になると大体のことは鮮明にわかってしまうものだと盲信していた子供時代が懐かしくもあります。

幼少の頃は親という絶対的な存在、万物の全てに理解があるものと本気で思い込んでいました。

それこそ宇宙の果てまで知り通していて、幼き未熟な私にあれこれと指南を重ねていくものと信じ切っていたわけです。

その神話も、あっけなく崩れていく音を聴いた時は、私も既に未熟ではありえないはずの年齢にまで達していて、子供の頃に信仰していた大人の万能説を、自分自身の身を持ってして破ってしまったのです。

知らないもの、想像でしか語れないものの大半はきっとそういうものなのかもしれません。

想像は遥かに壮大である分、現実はただ等身大を表すだけなのだと。全ての罪は己の思考なのだと。

 


よーいどん

2021-11-26 15:53:07 | 日記

11月26日

 

ついに始めてしまったのです。

いや、実をいうと、このようなブログとかユーチューブとか、Twitterとかインスタグラムとか、ネットでのあれこれの活動めいたことは初めてではないのですが。

でも毎回を新鮮な気持ちで(言い訳)で大きな第一歩を踏み出したいわけでして、今回もそんな感じでございます。

あとブログなんて今更誰も見てくれない自信があるので、ある意味思い切ったやり方で挑戦できるのではないかと考えていたりもします。

毎日を下手な踏み込みで失敗したくないと常日頃から考えている、そんな安定志向に足が向きがちな私ですが、それでもこうして仕事の定着しないコロナ禍特有の鬱屈した世間の中では、何かをしていないと気でも狂ってしまいそうになる。

仕事がないのをいいことに、ずっとベッドの上で都合のいい妄想を安眠枕の代わりにしたとしても、結局現実に身を置いている時点でゴールが見えてくるのです。

最近読んでいる本で、ACTという心理療法の本を読んでいるのですが、その内容は至って健常と思い込んでいる人々にとってもためになるような内容が書かれており、いつか書評でもしてみたいなと考えてみたり。

私には好きなものが人並みにあり、それは今こうして綴るような文章作成に加えて、小説の類なんかを読み進めてみたり、今聴いているミスチルをはじめとした音楽も好きで、どうしようもないほどにあてどもなく歩いたりするのも好きだったり、YouTubeで面白いことをしている人を傍観するのも悪くない。

いってしまえばありふれた人間の一人、だからこそこうして文章を書けるわけです。

私は凡人であるが故に、たくさんの喜怒哀楽に揉まれ、現実と価値観の相違に齷齪し、人を嫌いながら嫌いになりきれない。毎日を凡人として暮らしていきます。

それでも仕方ないので、ただ生きているに過ぎないとすれば、とても虚しいだけの時間が流れていくので、多少無理をしてでも楽しく生きているのですが、そうすると本当の感情がわからなくなる。

だからたまには、少し笑われるくらいネガティブで憐憫に浸った自分も、出して行けたらいいんじゃないかと、そんな気分の中で、このブログは始まったわけです。