4月11日
買い物を済ませたあとの疲労感が今、心身ともに響いている。佐久平まで電車で1時間半かけての遠出である。佐久平で病院なり蔦屋書店なりイオンなりに行って、薬やら文房具やら洗剤やらいろんなものを買い漁った挙句の帰宅である。疲れている。疲れているけれど、昨日書いた通り自分の特質に理解を示すのであれば、この疲労はまごうことなき自然とも言える。だからこの疲労は素直に受け止めたい。
以前の自分であれば、疲れて動けなくなる自分という存在自体、受け入れ難いものであった。疲れたり、要領よく動けなかったり、他の優秀な人たちを羨んだりして、すぐに自分のことをダメなやつだと決めつけたりもした。そういう価値観を植え付けられるような環境に育ってきたことも自覚している。その環境に全ての責任を押し付けるわけではないが、今の自分が多少なりとも影響しているのは認めざるをえないだろう。最近、いろんなことがわかってきたりして、そのいろんなことが結びついたりしている。
少しずつ新しい自分を見つけたりなんかもしている。集団でいるのが大嫌いな自分、それでも誰かとの交流を求めている自分、不便な野辺山でもまあまあ快適に暮らしている自分、ほんとはそこまでリゾバを続けたいと思っていなかった自分、部屋の片付けとかおしゃれとか身の回りの生活を丁寧にするのが好きな自分、まあいろんな自分がいたりする。今までの自分は世間の流れとか親の意見とか、友達の価値観とか職場の雰囲気とかそういったものに流されて、流されているという事実にすら気づかずに流されぱなしだったのだと思う。それはもう想像以上に影響を受けていたはずだ。そして気づかないままに仮初の自分を作り上げて、勝手に息苦しくなって余計に疲れて、さらにそんな自分を否定されて肯定もしてやらない、そんな息の詰まる世界にいたわけなのである。
今もまだその世界から完全に抜け出したわけではない。というか多分一生抜け出せないと思う。そもそも完全には抜け出せなくてもいいと思っている。自分がその過去にいたことは事実で、その苦しかった記憶があり続ける限り、仮初の自分は墓場まで引きずり歩いていくことになるだろう。今でも繊細な自分を簡単に許したりはしない。自分を完全に許すことは、決して人生の目的でもなく、至高の幸福でもないと思っているからだ。
自分を完全に許すという、その無理やりな肯定を挟んでしまうことは、やりきれない過去に対しての逆張りの行いでしかなく、ただの憂さ晴らしにすぎない。しょっぱいもので腹を満たした分、その気持ち悪さを甘いものでごまかしているだけの話だ。自分の苦しかった過去は、今の肯定力を存分に振る舞ったとしても気持ち悪いだけだけなのだ。過去がどれくらい苦しかろうとも、今はフラットに自分を見なければいけない。しかし今のストレス社会では、繊細な人々はとことん自分を労ってくれることを求め続ける。まるで苦しかった過去の呪縛が解かれることを願うように。優しすぎるくらいに優しいところへと吸い寄せられるのだ。
もちろん膨れ上がったストレスや切羽詰まった感情は、一度は解き放たなければならない。人々はとことん我慢して、もうどれが自分の感情か他人の感情かわけわかんなくなっているからだ。このイライラはどこからもらってきたのか、自分の涙は本当の涙なのか、自分はこの人を好きになっているのか、はたまた好かれているのか。もう共感しあったり共有しあったり反発したり触発されたりしてぐちゃぐちゃなのが最近の人だと思う。だから一旦整理して、そして自分を見つめ直そうという意義があるのであれば、それこそ優しい世界に身を置いて休息をとるのが先決であろう。
しかし、それはあくまでも補給地点に過ぎない。マラソンは水分補給するために走っているのではない。サッカーはハーフタイムで一息つくためにプレイしてるのでもない。走り切るために、勝つために試合をしている。おそらく自分の人生にもそれなりの試合のルールがあるはずなのだ。それが社会とか組織とか家族とかなんかそういうでっかいものに覆いかぶさられて見えなくなって彷徨っていたのだが、その事実がようやくわかったのだ。そのベールが少しずつ剥がれ落ちていって、いずれは疑いようもなく走り続ける自分がいるであろう。ただそれを求めつづけるだけの旅みたいなものだ。旅がようやく始まりそうな気がする。