星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

活力となる人たち

2023-04-17 23:43:57 | 日記

4月17日

 

テレビ朝日の番組でBUMP特集が放送されていたので、見逃し配信で観てみた。自分がこのバンドを好きでいられて本当に良かったと思える内容だった。この気持ちを、きっと誰かに伝えたいとも思うし、でもその反面、自分の心の中で満足できたからそれでよしとする気持ちもある。そのどちらも同じくらいに感じていた。改めて、素敵な人たちだと思った。その素敵さに、自分はやられたのだと思った。それが嬉しかった。

 

ボーカル藤原基央さんの曲作りに対する気持ちがあそこまで肉声としてしっかり放送されることはなかなか見たことがない。地上波ではないテレビや、それこそ昔のスペースシャワーTVなどではアルバムが出たときなんかによく出演していた記憶があるが、そのくらいだ。熟練してなおかつ現役として活動されているなかで、改めてのインタビューといった感じであった。前編後編と番組が編成されていて、合計1時間半ほどの内容ではあったが、全体を通してもう一度観直したいくらい興味深いものだった。番組スタジオにはBUMPをリスペクトするミュージシャンの方々がゲストで出演して、自分達がBUMPにどんな影響を受けたのかを話していた。そのほかにもプロのミュージシャンがBUMPの曲をどう思っているのかについてのコメントが寄せられたりして、BUMP本人が出ていない場面でも楽しめる内容だった。

 

その番組を見終わってからまた改めてBUMPの曲を聴いたりした。以前からいいと思っていた曲も、また別の印象を持つ気がした。もう何千回聴いたかわからない曲なども、新しい良さを垣間見れた。特に自分はAuroraという曲が好きだ。Auroraには、BUMPの醸し出す優しさと現実を向き合おうとする勇気のようなものをもらえる気がする。そしてそれは強さになっていく。最近、一人でいることが多くて息が詰まってしまってやるせない日々が続いていたが、本当にいい活力をもらえたと思います。ありがとうございます。


すこしずつ

2023-04-16 23:07:28 | 日記

4月16日

 

二日間くらい日記を書くのをあえてサボってみたりした。その間にある程度は心の面も休まった。そしてゆとりを持つことも大事だと思えた。あともっと簡素なことを書いてもいい気がしてきた。そんな二日間だった。

 

最近は自分の内面に向き合おうとやけになっている気がする。でも自分の思うように好き勝手書いているとこんな調子になってしまう。読み手意識のとても低い内容ばかりになっていることはわかっている。自分だって読み返してはいやになる。凝り固まっていて、どこに向かっていくかもわからない文章でいやになる。それをあえてインターネットで公開することの愚かさもさらに嫌気がさしていく。自分は何がしたいのかも判然としない毎日がある。

 

気づいたことがある。自分の人生に何かテーマみたいなものがあるとすれば、それはジレンマとか、葛藤とかそんなところだということ。自分の人生には常にそれが付随している。こうやって日記を公開することもそうだ。自分の書いた文章を、誰かに見てほしいのかとそう考えた時、内向的であまり目立ちたくない自分がそうではないと主張してくる。じゃあ自分の声は誰にも届かないくていいのかというと、今度は孤独を嫌う寂しがり屋の自分もまた現れる。常に相反した存在が矛盾した自分へと確立させる。嬉しい時は嬉しい感情がなくなってしまう時の悲しさを見る。刺激を追求すれば疲れた心が見る悪夢にうなされる。誰かといるときは一人の時を思い描いて孤独になる。どちらも常にあり続けるのが自分なのだ。

 

こんな頭で数々のことを目まぐるしく循環させていくものだから、人の意見が入り込むとこれまた自分が嫌になる。基本的に人に左右されがちなのだ。こればかりは治せるものではない。こんな、他人との境界線のあいまいさ。ふざけている。でもこんな自分だと気づいたからには、少しでも受け入れなければ、ほんとうにこのままだと思う。だから少しずつ、ほんとにすこしずつ、変えていく。


静寂の中での自分探しなこと。

2023-04-13 22:45:11 | 日記

4月13日

 

野辺山での暮らしは基本的に静けさに包まれている。夜は街灯もほとんどなく、車の通りも少なく、静寂の中でただタイピングを進めていく音だけが響いていく。自分が住んでいる寮には、他にも数名の人々が住んでいるわけだが、果たしてみんな何をして暮らしているのだろうか。すこし気になるところだ。あまり刺激を求めすぎないようにしている自分にとって、この空間はいろいろと精神のバランスを保つのに丁度いいものだと気づいたわけだが、他の人たちもそうであるとは限らない。みな、部屋で酒を呑んでぐったりしているのだろうか。暇じゃないのだろうか。

 

都会のようにさまざまな情報が溢れている、そのようなカオスと化している空間から逸脱してしまったことは、たんなる偶然でしかない。しかし自分は自分なりに、この野辺山で暮らしていることに対しての意義のようなものを、最近は感じざるを得ない。この意義は、大阪や京都で暮らしていたときには得られなかったものだと思う。離れてしまったたくさんの地域には、それぞれの意味があったかもしれないが、その意味は目に見えるものがほとんどであった。人間関係や、その地域でしか見られない景観、食べ物や飲食店、給料や仕事や娯楽なんかも含めて。

 

今まで、何かと放浪のような形でさまざまな地域を移動してきた。それは自分の中に答えを見出せていない最大の証拠のようなものだった。理由があろうともなかろうとも、移動してきたたくさんの場所では、自分を見つけ出せてはいなかったのだ。そもそも自分探しなんて馬鹿らしいと思っていたし、自分なんてすでにあるものだと過信していたのだ。常にあり続ける葛藤こそが自分であると思い込んでいた。矛盾している内面を引きずり歩いていくことこそが人生でしかなかったのだ。これに定義する言葉なんてものはなく、自分は一生涯このままなのだろうと当然のように悟っていたし、なんなら他の人たちも同じだと思っていたのだ。

 

結局自分はこの野辺山で、他の人にはない自分特有のものを、なるべく偏見もなく真正面で見据えるための空間としているのだった。それが以前もここに書いたHSPについてのことも大いに関係しており、とにかく頑固で意地を張っていた都会暮らしの時の自分を少しずつ解きほぐしてあげているわけである。別に楽をしようとか、理想的な自分を探そうとかしているわけでもない。ただ淡々とした具合で、自分がどんな生き物なのかを知った上で、新しい生き方を探したいだけだ。そうでもしなければ、いつまで経ってもただの頑固者でしかなく、本当の心の向きなんてわからないだろう。だから自分は、静寂に包まれて探している。誰の声も聞かずに、誰の影響も受けずに、ここで生活をする。多分もうすぐで、わかるものがあると信じている。


深い話に行きそうになって止めるブレーキ。

2023-04-12 23:25:11 | 日記

4月12日

 

サウナに入ったあとにワインを呑んで、晩飯も食ってかなり頭もボヤけているこんな状態でも、一応はパソコンを開いて日記を書くわけである。こうした習慣として染み付いたものは、なかなかやめることもなく、反射的に続いてしまっている。それはとてもいいことではある。しかしいつまで続けるのだろうかとふと考えた時、なんとなく闇の向こう側を見通してやろうとして、いつまでも真っ暗闇であることに気づいた時の不安のようなものを抱く。死ぬまで書き続けるんじゃないだろうかという不安。誰にあてたメッセージでもないこの長ったらしい日記は、一応こうして全世界に発信されている現実があるわけだけれども、そこにはどんな意義があるというのだろうか。独り言を聞いてもらうための空間。箱庭に閉じ込められている生き物が一人ぼっちで暮らしている、そんな世界を見てもらうだけの小さな空間なのようだ。

 

文章を書き続けていくことが、まるでマラソンのようなものを延々続けていくことと似ていると思うのは自分だけではないだろう。そしてマラソンのようなものは、まるで死という名のゴールに向かっている人生と似ていると感じるのもまた同じだ。文章を書く行為は人生の一部分として見立ててもいい。文字の一つ一つは呼吸の一粒一粒のように細やかである。このふたつは非常に相似しているが、決定的な違いがある。文字というのは存在した瞬間から常に一定にあり続けている。それと比較して呼吸は、一息発したときの刹那を超えたらすでに大気の一部となる。時間に依存しているか否かが二つの違いである。呼吸は時間に依存して、文字は時間に依存していないのだ。これは非常に大きな役割を持つ特性だと自分は考えている。

 

…まあこんなことを話していたらそれこそ大量の時間を使わなければならないのでやめておくことにする。つい深いところまで話題を突っ込んでしまうのが自分の悪い癖だ。別に時間を使ってもいいのだが、いかんせんワインの酔いがかなり回ってきているのでその辺にしておくのがベストだと思う。話を広げるのは簡単でも、まとめたり結論づけたりするのは難しい。難しいことを思いついたとしても、それに対して自分なりの答えとかまとめが出来上がらないのならほどほどにしておくべきだろう。日記なんて難しいことを悟るための空間でもない。これはただの日記で、これを書いている自分は学者でもなんでもない人間なのだ。あくまでも普通にとどめておきたいわけなのである。

 

それで先程の自分は、いつまでこの日記を書き続けられるのかと、そんな嘆きみたいなものを書いてみたが、そのうちGWが近づけば嫌でも忙しくなって日記なんて書いているひまなど見いだせなくなると思う。だからこうして有意義にしたいのか無駄にしたいのかもわからないニュアンスのものだと開き直ったりしているわけなのである。そんな今の時間はとても貴重といえるだろう。物事の曖昧さに溺れている時間、これはなによりの贅沢なのだ。大学生が進路に悩んでいる時間、無職がタウンワークでだらだらと求人一覧を見る時間、レストランで何を頼もうか一向に決まらない時間。優柔不断とはまるで贅沢者の所業かともいえる。自分はとにかく色々と迷っている。精神はどこまでも決められない物事の渦に巻き込まれていく。

 

これでいいと思っている。まあそう思うのも今だけかもしれないが。明日になって、ふとしたことで機嫌が悪くなって物事の見方が変わったら、こんなもの簡単に否定して見せられるだろう。でもその程度には肯定している。それくらいしかない。自分の書いたものに手向けてやることなんて、ちょっとした肯定くらいなものだ。


疲労の余韻、旅のはじまり。

2023-04-11 22:35:10 | 日記

4月11日

 

買い物を済ませたあとの疲労感が今、心身ともに響いている。佐久平まで電車で1時間半かけての遠出である。佐久平で病院なり蔦屋書店なりイオンなりに行って、薬やら文房具やら洗剤やらいろんなものを買い漁った挙句の帰宅である。疲れている。疲れているけれど、昨日書いた通り自分の特質に理解を示すのであれば、この疲労はまごうことなき自然とも言える。だからこの疲労は素直に受け止めたい。

 

以前の自分であれば、疲れて動けなくなる自分という存在自体、受け入れ難いものであった。疲れたり、要領よく動けなかったり、他の優秀な人たちを羨んだりして、すぐに自分のことをダメなやつだと決めつけたりもした。そういう価値観を植え付けられるような環境に育ってきたことも自覚している。その環境に全ての責任を押し付けるわけではないが、今の自分が多少なりとも影響しているのは認めざるをえないだろう。最近、いろんなことがわかってきたりして、そのいろんなことが結びついたりしている。

 

少しずつ新しい自分を見つけたりなんかもしている。集団でいるのが大嫌いな自分、それでも誰かとの交流を求めている自分、不便な野辺山でもまあまあ快適に暮らしている自分、ほんとはそこまでリゾバを続けたいと思っていなかった自分、部屋の片付けとかおしゃれとか身の回りの生活を丁寧にするのが好きな自分、まあいろんな自分がいたりする。今までの自分は世間の流れとか親の意見とか、友達の価値観とか職場の雰囲気とかそういったものに流されて、流されているという事実にすら気づかずに流されぱなしだったのだと思う。それはもう想像以上に影響を受けていたはずだ。そして気づかないままに仮初の自分を作り上げて、勝手に息苦しくなって余計に疲れて、さらにそんな自分を否定されて肯定もしてやらない、そんな息の詰まる世界にいたわけなのである。

 

今もまだその世界から完全に抜け出したわけではない。というか多分一生抜け出せないと思う。そもそも完全には抜け出せなくてもいいと思っている。自分がその過去にいたことは事実で、その苦しかった記憶があり続ける限り、仮初の自分は墓場まで引きずり歩いていくことになるだろう。今でも繊細な自分を簡単に許したりはしない。自分を完全に許すことは、決して人生の目的でもなく、至高の幸福でもないと思っているからだ。

 

自分を完全に許すという、その無理やりな肯定を挟んでしまうことは、やりきれない過去に対しての逆張りの行いでしかなく、ただの憂さ晴らしにすぎない。しょっぱいもので腹を満たした分、その気持ち悪さを甘いものでごまかしているだけの話だ。自分の苦しかった過去は、今の肯定力を存分に振る舞ったとしても気持ち悪いだけだけなのだ。過去がどれくらい苦しかろうとも、今はフラットに自分を見なければいけない。しかし今のストレス社会では、繊細な人々はとことん自分を労ってくれることを求め続ける。まるで苦しかった過去の呪縛が解かれることを願うように。優しすぎるくらいに優しいところへと吸い寄せられるのだ。

 

もちろん膨れ上がったストレスや切羽詰まった感情は、一度は解き放たなければならない。人々はとことん我慢して、もうどれが自分の感情か他人の感情かわけわかんなくなっているからだ。このイライラはどこからもらってきたのか、自分の涙は本当の涙なのか、自分はこの人を好きになっているのか、はたまた好かれているのか。もう共感しあったり共有しあったり反発したり触発されたりしてぐちゃぐちゃなのが最近の人だと思う。だから一旦整理して、そして自分を見つめ直そうという意義があるのであれば、それこそ優しい世界に身を置いて休息をとるのが先決であろう。

 

しかし、それはあくまでも補給地点に過ぎない。マラソンは水分補給するために走っているのではない。サッカーはハーフタイムで一息つくためにプレイしてるのでもない。走り切るために、勝つために試合をしている。おそらく自分の人生にもそれなりの試合のルールがあるはずなのだ。それが社会とか組織とか家族とかなんかそういうでっかいものに覆いかぶさられて見えなくなって彷徨っていたのだが、その事実がようやくわかったのだ。そのベールが少しずつ剥がれ落ちていって、いずれは疑いようもなく走り続ける自分がいるであろう。ただそれを求めつづけるだけの旅みたいなものだ。旅がようやく始まりそうな気がする。