星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

狭き門、こじ開けたい。

2023-03-31 20:38:25 | 日記

3月31日

 

野辺山から電車で2時間半の旅を続け、長野県上田市に到着した。朝からの旅路で疲労は溜まっている。上田は城下町ということで、風情ある街並みが特徴的である。商店街も活気があり、そこそこに発展している。甲府とか、佐久平とかよりも居心地が良いような気がする。昼間は買い物とかもしながら、上田城の桜を見に行った。は散々歩き回ったので、今晩は上田市のゲストハウスでゆっくり一泊することにする。

 

正直、ゲストハウスは落ち着きがなくてすこし苦手だったりする。いろんな人が行き交う中で文章を書くことは、少しやりづらく、普通にビジネスホテルとかに泊まればよかったと感じている。人見知りで、あまり人の雰囲気に飲まれたくないからというのもあるけれど。なんというか、初めてシェアハウスに住み始めたときのそわそわした感じを思い出す。大阪に住んでいた時、常に廊下やリビングで人が行き交い、すれ違えば挨拶をして、同じ空気感を当たり前のように共有し合う、あの空間。ああいう賑やかさがとても恋しい時もあった。あの時の自分は、やっぱりあの時の空気感が必要だったのだ。あの生活こそにやりがいを感じていたし、自分の場所だと堂々と胸を張って思えるものだった。

 

今の自分は、とにかく一人で文章を書き続けていく時間が欲しいのだ。だから、寂しさを解消したり、誰かと賑やかに暮らしていくことを求めるわけにはいかない。実際、こうやって自分のやるべきことを求めていけば、自然と自分の身を置いておくべき空間というものが、おのずと見えてくるような気がする。自分の今住んでいる野辺山は、不便さこそは目立つけれど、自分の作業を邪魔されることはない。孤独感や寂寥感、静けさに襲われて飲み込まれてしまいになるけれど、それは問題ではない。そもそも安心を求めて生きているのではないのだからと、そういった気持ちで絶望と隣り合わせにならなければいけないのだ。

 

それはとてもスリルのある生活ではある。捨て身のものでもある。そんなものが必要かと疑問にも思う。でも安寧の暮らしでは、賑やかな暮らしでは、きっと無意識の領域には達することができないであろう。自分はそれが欲しいのだと、最近気づいた。無意識の領域、その狭き門をこじ開けなければ、自分は所詮その程度止まりだろう。その程度で終わるのが嫌だったので、家を飛び出して、シェアハウスを飛び出して、関西を飛び出した。馴れ合いがあれば、きっと手を緩めてしまう。幸福があれば、そんなもの忘れてしまうだろう。忘れてしまった方が楽だったかもしれない。でも忘れられないから、今の自分がある。多分死ぬまで忘れないと思う。


好きなものの嫌いな面まで

2023-03-30 23:05:43 | 日記

3月30日

 

明日は長野市に行く予定だ。ここから約80キロも距離がある道のりを、鈍行列車で向かう。向こうで2泊して、早朝に帰宅して、そのまま仕事にいくという、少しハードな予定となっている。しかし最近は無理することに対してあまり抵抗がなくなっている気がする。別に何かに触発されたわけではないけれど。以前はもっと自分の身が可愛くて仕方がない生き物だったはずだったのだが、それが少しずつ変わってきている。最近気づいたことのようだが、ストイックに生きていかないと文章を書くことは難しい気がする。こうしていろんなことを書いたり、またはいろんな本を読んだりと、そんなことの繰り返しがここ最近の日常だ。たらたらしていたらまともなものなんて一文も書けないと思ったりもする。馬鹿な文章でもいいから少しでも書いておかないと、何もいいことが浮かばない。そういうことを悟ったのかもしれない。

 

4月末までに一つ新人賞を応募しようと思っている。やっぱり小説を書いておかないと気が変になりそうだ。気が変になるというとかなりの語弊がありそうだけれども、人は何かしらの物事には身を注いでいく生き物だと自分は思っている。だから人は努力したりとか、人を好きになったりとか、何かを作ったり、仕事をしたりするのだろう。自分が熱を込めて取り組めるもの、それに対して極めようとしていくと、途端にゴールのない旅路へと入り込んでしまう。そうなると抜け出せない。抜け出せたとして、そこには味気のない道が続いているだけだ。だからやめてはならないものだと自分は思う。

 

文章を書くのが好きなことなのかというと、ぶっちゃけ好きでもあり、嫌いでもあるものだと思っている。好きなものを好きなままでいるための方法は簡単だ。適切な距離を保っておけばいい。音楽が好きなら、好きだなと思える距離以上に近づかないことを意識すればいい。そして離れすぎなければそれでいい。

 

でもそれを選べないのが、人たる生き物だとも思う。嫌いな面にまで向き合ってこそ、その好きなものに対してへの愛情表現なのだろう。だからもっと向き合うべきだと思う。好きなものの嫌いな面が見えてくるまで。そういう気持ちで、最近は書いている。


スケジュール(仮)について

2023-03-29 22:06:57 | 日記

3月29日

 

計画的に動くのが苦手な自分が、前日からスケジュールを立ててどれくらいその通りに動けるのかを検証してみた。結果を言うと、夕方まではなんとかしてやりくりできた。朝から部屋の片付けをし、身支度をして仕事に行く。決まった時間に昼休みをとり、昼寝をして、読書をする。そして今日は夜出勤がなかったので15時からフリーになった。そこからが酷かった。酷かったというかもうスケジュールのことなどほとんど頭になかった。適当に本を読んだりyoutube観たりを繰り返していた。まあそんなところで、結局のところスケジュールを立てる意味とは果たしてあったのかという疑問ではあるのだが・・・。

 

多分あったとは思う。完璧にはその目標通りにできなかったとしても、まあ半分くらいはその通りやれたのならば、それはとても有意義な活動といえるだろう。有意義と言ってしまうとなんだか無理矢理に意識だけが高まったようなニュアンスで嫌気がさすのだが、部屋の片付けもできたし、有意義としか言いようがない。実利があったということでよしとする。

 

ただ、もう少し改善をしてやればもっとスケジュール通りに動けるとは思う。予定の内容が曖昧すぎたり、現実離れしているとうまくいかないし、多分毎日は続かないだろう。毎日続けられるようなもので、でもしっかりとスケジュールを組んでいる意味があるもの計画にしたい。だから今日のは仮のもの程度なのだ。明日は今日よりも計画通りにこなしてみたい。


変わり目かもしれない

2023-03-28 23:37:55 | 日記

3月28日

 

もうすぐで4月が始まろうとしていてなお、ここ野辺山では冷ややかな霧雨が八ヶ岳の方面から降り注いでくる。先週くらいからずっと天気は雨模様で、時には霰のようなものもポツリポツリと降る日もある。もはや3月の晴れの日よりも寒い気がする。天気がよければ、気温も上がると思うのだが、今のところ寒い。そんな春だったりする。

 

今月いっぱいでこの野辺山での生活も終わる予定だったのだが、わけあってGW終わりまで滞在期間を延長することにした。次に行くところが見つからなかったのだ。箱根、佐世保、与論と来てのこの野辺山で、このリゾバ生活もいよいよ足止めとなった。理想では4月から北海道の札幌付近でどこか手頃なリゾバ先を見つけるつもりだったのだが、そんな甘い理想は簡単に打ち砕かれた。4月の北海道は閑散期らしく、派遣会社のサイト内で求人を検索してもいいものが見つからない。それならばと北海道に限定せず、全国規模で探してみたのだが、それでもピンとくるものがないのだ。

 

リゾバ生活ももうすぐ1年に差し掛かろうとしている中でこれは初めての経験だった。今までなら、次に行くところを探していく中で、行ってみたいところや興味のある職種は2、3個くらいあったものだ。それが今回は1つもないのだ。全く興味のないところばかりではないのだが、今の状況から無理やりに脱出したくなるほど行きたいところはなかったりするわけだ。

 

これはリゾバ生活を続けていた今までの自分にはなかった気持ちだ。もしかしたら転々としていくこの生活にも飽きが生じてきたのかもしれない。ここにいたらとりあえずは働ける。飯も食える。それでいいんじゃないかと薄々思っているような自分がいるのだ。それ以外の仕事していない時などの面で、自分は試されていると言ってもいい。どうやってそのような時間を過ごしていくのか。こんな山ばかりの世界で、こうしてブログを書いて、本を読んで、賢くなった気がして、でもその先のことはいつも迷ってばかり。

 

意識をいくら高く見積もっても、打ち砕かれるのはいつものことだ。じゃあふざけ倒して楽しいことばかりのものに囲まれていても、結局は大阪のシェアハウスを出た時のように、何かしらの物足りなさを感じてしまう。所詮は選択肢がありふれた人間の一種の贅沢みたいなものなのかもしれない。だから、選んでいる暇があれば、突き進んだほうがいいのかもしれない。そろそろそんな時期かもしれない。


草野正宗の「火」

2023-03-28 00:24:40 | 日記

3月27日

 

「暖めるための 火を絶やさないように 大事な物まで 燃やすところだった」

 

スピッツの「若葉」の歌詞の一部である。スピッツの歌詞には難解なものが多いとか、インターネットでよく言われていることではあるが、わりかしそういうわけでもないと自分は思っている。ただ他のミュージシャンより、どこかつかみどころがなくて、脱力感も少し垣間見えるようで、それでいてなお真似することの難しい、そんなバンドだと思っている。

 

そもそも詩に答えを求めることがナンセンスだったりする。詩を見た時に感じたことを広げていく内面世界が、いわゆる読み手がわの答えなのだ。「こういうふうに感じてくださいね」と凝固したような言葉の羅列は、詩としての味わいを殺しているようなものだ。答えがないものの方が、その分読み手側の自由が働く。スピッツの曲に答えがないものが多いのは、それが詩たる持ち味を保っていることの証拠だろう。

 

しかしあまりにも具体的なものがなくなると、そこにはメッセージもない、それこそただの文字の羅列に感じてしまうわけで。その塩梅は書き手の手腕に求められるものになる。どこまでその世界を広げられて、どこまで書き手の意志を宿すものにできるのか。

 

曖昧で、性を連想させたり、死を連想させたりと、スピッツの草野正宗の歌詞はいつもそんなところではあるが、たまにその強い意志のようなものが見え隠れするところがある。それが上記の「若葉」の歌詞である。

 

この一文に、「暖める者」と「火」と「大事な物」の三つの立場がある。この三つの立場はさまざまなものに置き換えられるものである。自分はこの何気ない一文に、世の中のいろいろな立場の縮図のようなものを感じたりする。

 

誰かの味方につくことで一つの生きがいを得る。だから人は孤独になることを拒む。同時に特定の誰かに守られることを求める。世の中は奪い合いとか殺し合いのような殺伐としたものだと喩えられることが多いが、同時に誰かを助けたり助けられたりの世界でもある。助け合うのか、殺し合うのか、どっちにしろ「火」が重要になってくる。暖めたり、照らしたりすることのできる「火」。しかし同時に、燃やしたり、苦しめたりすることのできるものでもある。世界が安定して保たれるためには、この「火」が殺し合うためのものではなく、暖めるためのものでなければならない。その真理をわかっていなければ、「若葉」のこの一文は書けないと思う。「燃やすところだった」といううっかりミスしてしまいそうな茶目っ気な歌詞もスピッツの特徴であるが、それもまた危うげな武器としての「火」を表しているようで、なんとも趣深い。

 

とまあこんな感じで、歌詞を読み取ってみた。別に何かの情報をあてにしたわけではないから、真意は不明である。詩なんて読み手が勝手に決めればいいのだ。