星の上の馬鹿者

これは放浪記です。いろんなところに行っています。

つまらない自分のために

2022-01-21 11:10:31 | 日記

121

 

体感では完全にコロナウイルス感染症から治ることができたというのに、いまだに出勤することは禁止されています。それなので、本来仕事中のこの時間にブログを書くことにしました。

仕事先の要望では、出勤するためには「就業制限解除通知書」というものが必要とのことです。自治体の保健所から、陰性と判断した人の元に届けられる、待機期間が終了した証明書のことらしいです。その証明書の発行は昨日の段階で申請が終わったのですが、私の住む大阪では感染者が爆増していることもあって、あらゆる段取りが自分の方まで回ってきていない感がすごいです。区の方から連絡が来るとされていたのに、数日待っても来なかったりなどがザラにありました。結局こちらから連絡しなければいけないパターンが2、3回ほどもありました。

コロナなんて先月ほどでは、1日の感染者が数人いる程度にまで収まっていたというのに、今では1日に数千人に陽性反応が出るなど、なかなか収束しないものです。結局他人事のように感じられていたものが、とうとう自分の生活を強く脅かしてしまったものですし、当たり前のリスクを背負っていることに気づいてしまったような感覚があります。幸いにも軽症で済んでしまったのでよかったのですが、色々と考えさせられる今日この頃です。

私は今、シェアハウスに済んでおり、そこでは10人超の人たちと同居しているのですが、私がコロナに罹った時、この今の生活形態に強く疑問を持ちました。楽しく暮らしていることの外側にある、気づかなかったデメリットの波のようなものが、黒く私の価値判断に指針を示しているような感覚です。悪く思われそうな言い方をすれば、私たちは特に何か理念があって一緒に暮らしているわけではありません。人生においてそれが必要とされない時代はあって然るべきだと思います。平和な以上、それを脅かす過激な行動は簡単に肯定できるものはありません。なので何も疑問もないのならば、そのまま暮らしていけたら素晴らしいものです。

問題は、私自身が疑問に感じていることです。とても自己中心的で嫌気も差してくるのですが、結局私は周りと賑やかに生きていることに飽きてしまったのかもしれません。その賑わいによって、私が賄うべき幸福感や満足感に行き着くことがなかったのでしょう。人生は楽しいだけではないはずです。死んでしまいたいくらい病んでいる時とか、タブーの中にある根付いた自分の意識とか、集団のライトな感覚に応えられるものが必要なのです。それがこの家にはないのだと思います。

私の、他人に対してタブーにしている面は、「自分にも詰まらない面がある」ことだと思います。人の目に詰まらなく映らないように意識して生活しています。そんな自分を手放せないのは、もう仕方がない気もしますが、どうなのでしょう。

誰かにもっと弱みを見せられたら、つまらない自分、どうしようもない自分がうまく他人の価値観に反映されたら、よかったのでしょうけれど、それは無理な話に感じたのが、今回のコロナ騒動でした。限界まで弱りきった自分を救えるのは、自分しかいなかったのです。周りの人たちは、私がコロナを移してしまわないか気をつけなければならないものでしかなかったのです。それは他人が悪いわけではありません。私のこの価値判断に問題があるのだと思いますが、それを手放すことすらできません。

虚しいような気持ちが堂々巡りを重ねていき、今のような心境になりました。今はとにかく一人になりたい。誰とも連絡をとりたくもありませんし、誰とも話したくない。ずっと一人がいいのです。人間なんて所詮、団結もクソもない一人の個体でしかないのでしょう。



コメントを投稿