内容が少々タイトルと変わってきてしまうのだが、一応前回の続きなのでそのままで続ける。
というか、読んでいる人が少ないブログだが、もしかして届いたら面白いなと思うので探し人の情報もあとの方で書いてみる。
因みに、そのカルカッタのホテルはホテルパラゴンと言う。インドに行く前にバンコクのバーで隣にいた欧米人旅行者に宿の情報を聞いたらそこがいいということで決めた。その時に「隣にあるホテルマリアも有名だけど、ジャンキーの旅行者が多いから避けた方がいいわよ」と言われたので避けた。
泊ったのは数回だが一度の滞在期間が長かった。いつも一部屋にベッドが8台ほど並んだドミトリーに泊まっていたが、初めて泊ったときは3月でドミトリーの8割ほどが日本人だった。ほぼ全員がA型肝炎にやられて春休みの1~2週間を日がな一日カルカッタのベッドで天井を見ながら過ごしていた。
僕は毎日観光に出かけると、帰りに露店で彼らにバナナを買った。みんな食事がのどを通らないと言っていたからだ。
食事がのどを通らない割には夕方になるとほぼ全員がむくむくと起きだして宿の屋上に行って、大麻を吸っていた。マリファナではなく、ハシーシの方。
前にも書いたが僕はそういうものに全く興味がないので、インドの労働者の煙草、ビーディーを持って行って夜じゅう一緒におしゃべりを楽しんだ。禁煙して28年になるが、以前は一日60~70本ほどを吸うかなりのヘビースモーカーだったので煙草の味にはうるさい(笑)、ビーディはその僕が非常に美味しいと思った煙草の一つだった。
そんな彼らは全員が日東駒専、MARCH、慶応早稲田、どこかの学生だったので(地方の国立大学の学生も数人いた)、今はそれぞれそこそこの会社でそれなりのポジションについているんだろうなと思う。
そのあともホテルパラゴンには数度泊ったが、そのうちの一回が忘れられない。その時は10日ほど宿泊していただろうか。いつものようにドミトリーにベッドをもらうと、隣のベッドに日本人男性、あとは全員欧米人の男女だった。その日本人男性は「自分探し系」で、でもそれまでにインドで出会った自分探し系よりははるかに深い何かを持っていそうな人で、話がとても弾んだ。
初日は夜になると、部屋の真ん中のベッドに陣取っていた陽気なイギリス人女性が「じゃ、みんなどこから来たか、それぞれ自己紹介しようよ」ということで、昔のユースホステルのイベントのようになり、それを機にその部屋の空気が一気に和んだ。
僕は翌日はずっとペンフレンドだったインド人に弾丸で突然会いに行ったのだが(過去の日記参照)、ペンフレンドが泊って行けよと言うのでその夜は連絡もせず宿に帰らなかった。翌日の昼に帰ったら、初日の夜に自己紹介した同室のみんながとても心配して翌日帰ってこなかったら警察に行こうと言っていたとその日本人の彼に聞いて、嬉しいような申し訳ないような気に。安宿は安宿なりの安全さがあると思ったのもその時だった。
ペンフレンドの家から帰った後、その日本人が北のダージリンに移動すると言っていた数日後までは、二人で飯を食ったりお茶に行ったりしていた。
前述の通り彼は自分探し系で、日本の生活の全てを突然捨ててインドに来たと言っていた。少なくともその旅の間は、すべてを流れに任せて、何をするかではなく自分が「そこに『ある』」ということを特に重視している人だった。
「この旅が終わったらどうされるんですか?」と聞いたら、「日本のどこかの人形劇団で人形劇に携わろうと思う」と言う。特に誰とも交流しない感じの人だったが、僕のことは「なんか、面白い旅をする人だなと思った(からちょっと話をしてみようと思った)」と言ってくださった。
ダージリンには「トイトレイン」と呼ばれるナローゲージの登山鉄道で行くのだが、彼がそれに乗る日の夕方「最後にプリンでも食いに行きますか?」と誘って、僕のお気に入りのカルカッタで美味しいカスタードプリンを出すコーヒーショップ(カフェ・フィエスタだったかな?)に連れて行った。(このほか、給仕のオジサンたちが白いユニフォームをかっちり着ていて植民地の香りを思わせる「カルカッタコーヒーハウス」という美味いスペシャリティコーヒーを飲ませるカフェもお気に入りであった。)。
その時も話が弾んで、そろそろ駅に行かないと乗り遅れるのではないかと思った僕は「そろそろ行かないといけないんじゃないですか?」と言ったら、「遅れたらその時はその時だよ。今は君との話が興味深いからこっちの方が重要だ。」と言う。
時計を見て彼を急がせた自分が少々恥ずかしくなったが、「ま、そうは言ってもそろそろ行かないとね。」と彼はにこっと笑った。
その時のカスタードプリンの代金は、次の目的地に旅立つ彼へのはなむけに僕が払ったと思うが、席を立つときに、
「こういう時に連絡先を事細かに交換するのは得意じゃないけど、いつかまた会えるように」と氏名だけを書いたメモを一枚くれた。
「鳴川」さんと言う名前だった。
「じゃ、僕も・・」とメモを書こうとすると「それはいいです。人には会うべきときに必ず会えるから。」と制された。
それ以来もう30数年になるがまだそのタイミングは来ていない。ごく少数の人しか読んでいないこのブログに書くくらいなら、彼も構わないんじゃないかと思い書いてみた。
万が一連絡がついたらとても面白いですね。
当時はインターネットなどと言うものは影も形もなかったが、ネットが使えるようになってから一度だけ彼の名前を検索してみたことがある。ご自身でおっしゃったようにとある人形劇団の公演情報に彼の名前を見つけた。