自民党の総裁選からこっち、ずっと政治は気にしていましたがあまりの「ズレっぷり」にブログを書く気も起こらず。。
派閥政治の復活、新内閣のあまりの高齢、女性の少なさ、「自助・共助・公助」スローガンの不可解さ。
このコロナ禍の中、感染防止を国民ひとりひとりの努力に依存して有効な対策を打てない(打たない)政府が、「まず自助」などとよく言えるな、と思いますし、それを当たり前のように受け入れている国民側にも失望を感じます。
そして「共助」とは何を指すのか?
こども食堂などは「行政が対応しないから」個人や民間が善意で行っているだけで、行政がしっかりしていればそもそも必要のないものです。
逆にいえば行政の怠慢を個人が負担しているだけ。これが「共助」なのでしょうか?
おそらく「共助」には家庭内での助け合いも含まれていると思います。家庭内の介護負担が問題となって久しいのに、なぜ負担を正当化するようなスローガンを出し、それを受け入れてしまうのか。。
「縦割り打破」や「改革」なども盛んに叫ばれていますが、なぜ一大臣の個人ホームページ上で「縦割り110番」などという公(おおやけ)の問題を扱うのか。これは公私混同では?
以前アメリカ大統領選で、ヒラリー候補が個人メールアドレスを使用しただけでが大問題になったのに。
小さな事ですが、こういう小さい事の積み重ねが大きな歪みを生み出す事が分かっているからこそ、ヒラリー候補はあれだけ叩かれたのだと思います。
「縦割り行政」「慣例主義」にしても、縦割りにして慣例主義とすることで行政の根幹である「絶対に間違えない」業務を可能にしていた面もあるはずです。
行政は民間企業とは違います。たとえ時間がかかっても、無駄と思える手続きが多くても日常業務では「絶対に間違えない」事を第一にするべきだと思います。
その上で効率を上げるための方法を真剣に議論するべきなのに、時の一大臣の判断で議論なく進められてしまう事に恐怖すら感じます。
「既得権益の打破」ともうたっていますが、既得権益を得ている側の人が「自分たち以外の既得権益を打破」するための改革しかしていません。そしてその既得権益を自分の物にするために頭をひねっているだけではないか??
これまで、政府が「改革」を叫んで良くなった事があったでしょうか?
良くなったのは大企業や成功したお金持ちの人達だけ。それすら菅さんに言わせれば、
「私のように裸一貫からでも、努力すれば成功できる」
ということなのでしょう。その裏には
「努力しない人の事は知らないよ」
というメッセージがあり、実際そのようにやっているな、と感じます。
もし国民全員が「努力」したら、みんながみんなイチローの様なヒーローになれるとでも思っているのでしょうか??
プロ野球選手になった人は皆尋常でない努力をしてますが、成功するのはその中でほんのひと握り。
そんな弱肉強食が通用するのは「プロスポーツ」だからです。社会全体をそんな弱肉強食の世界にして、本当に良いのでしょうか。
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