
3月8日(土)のあさ空。小雨がパラつく雨模様。
海と空の区切りがはっきりしない。溶け込む空と海。

今日も寒い。先週は積雪があったのに、急激に温度上昇して一時的にしのぎやすくなったものの、また、寒の戻り。あっちこっちに行く季節感に身体が追い付かないので、今日ものたりのたりで過ごします。灯油も調達したから安心してヒッキ―。お米の備蓄もあります(笑)

先日の「3号雑誌時代」のお話の続きでも書いてみます。
母から「もう無理。どっちか帰って来て」と泣きながら懇願された東京に住む私と千葉で暮らす兄。兄妹会議で集まって検討した結果、「僕は男だから仕事を辞めるなんて無理。Rさん(私のこと)は女だから、鹿児島に帰ってよ」と言われ、たしかに、長男である兄に仕事を辞めさせたら、親戚筋から何かと非難されそうだと判断して泣く泣くUターンした私。東京の職場の方たちはもちろん、大学時代の恩師にまで、「Rさんが鹿児島に帰っても自分を生かせる道はない」と言われ、東京に残るように説得されたのですが、母の状況から「帰らない」選択肢はできなかったのです。ただ、このときの判断は何十年も経った今でも、選択ミスだったと反省しています。もちろん、両親の看取りまで責任を持って行ったことに対しては何の後悔もないのですが。別の道も模索すべきだったと、ずっと後悔は続いています。
3号雑誌の時代(鹿児島の全国最下位の低所得の環境下、月刊誌は広告収入が絶望的にのぞめず、3号以上が発刊できなかった)に、何とか社長のアイデアで継続的に月刊誌を発行していた貴重なJ社に入社した私。東京出身で、アイデアマンだった社長はこれから来るコンピュータの時代を予測して、業務にもパソコンを生かしたいと考えて、パソコンを1台、購入していました。(社長は月刊誌の発行だけでなく、別事業も経営して、そちらの収入は潤沢だった)
そのパソコンを預けられ、「業務に活用して欲しい」と、やわらかな社長命令を受けて(パソコンがどこまで使えるのかが未知数だったので強制というわけではなかった)、すぐに活用させるように努力した私。手作業で1か月かかっていたデータ分析を2日でやれるようにデータをパソコンに蓄積。さらに、そのデータ分析の結果を業者向けの統計情報として冊子にまとめる仕事をワープロソフトですべて仕上げるようにしました。本誌(月刊誌)はオフセット印刷でしたが、業者向け速報はタイプ印刷を頼んでいて、それを編集部内で作成できるようにしたのです。
当時はタイプライターで原紙に印字して謄写機にかけるという印刷方法があったのですが、それはまさに、ワープロソフトで原稿を作成して、プリンターで出力させることと同じですから、社長は「それができたら、タイプ印刷に出さずにすむはず」というイメージを持っていたようです。ただ、いかんせん、ご自分はパソコンが扱えない。もちろん、ほかの社員にチャレンジするように言っていたようなのですが、パソコンなんて、だれも触ったことがなくて、とてもじゃないけれど、「難しくてやりたくない」としり込みする社員ばかり。当時は驚くような高額のパソコンでしたから、まさに宝の持ち腐れ状態だったそうです。☆当時はパソコンとも呼んではいませんでしたが、わかりやすくパソコンと書いています。
そこに入社した私はパソコンがおもしろくて仕方なく、夢中になってしまい、ほかに使える人はいないから、だれにも手ほどきを受けなかったものの、すぐに使えるようになりました。ワープロソフトを使って、それまで印刷屋さんがやっていたのとそん色なく、同じように仕上げるのに試行錯誤して仕上げましたが、出入りしていたコンピュータ会社の方が、私の作ったものに驚愕して、「こんな使い方ができる人なんていませんよ。すごい。どうやって入力したんですか」と私の作業風景を見学していたほどでした。
今のパソコンなら、難なくできることも、当時はまだまだできないことも多く、特に面倒だったのは漢字変換。学習能力はなく、「鹿児島市」と打ち込みたいのに、出て来るのは「加護しまし」しか出せない時代。仕方なく、「しか」「じどう」「しま」「いち」と打ち込むのですが、それも候補の漢字が下に10個ほど出て来て、そこから選択をしなければならないので、必要な漢字が出て来るまでキーを押し続け、10回目の7番目といった記憶をしておいて、なるべく早く必要な漢字を見つけないといけないという時代でした。マウスもなかったので、すべて移動はキーのみでしたから、時間がかかりました。
さらに、データ分析の方も蓄積したデータが多くなると、処理はできず、ぶーん、ぶーんと唸ったあげく、壊れるという始末(笑) 私は一日中、パソコンと向かい合っているうちに、その悩む姿がかわいくなってしまって、壊れると、「あー。ごめんねえ。データが多すぎちゃったねー。無理させてごめん。データを減らすから、もう一度、がんばってね」なんて声をかけて励ましていました(それを見ていた社内の人は私のことをアタオカだと思っていたはず)。一度に分析できないほど、多くなったデータは小分析した結果を集めて最終のデータ量を減らすなどを工夫。だれもパソコンのことはわからないので、ひとりで考えて、ひとりで試行錯誤して、仕事をやりこなして行ったのでした。
私は瞬く間に統計速報作成の時短とコスト削減を実現。ついでに、私に「あんたに仕事は教えない」と私に吐き捨てた編集部のAさんが「飛んで」しまったので、私は編集長の補佐をすることになって、私は編集長を師匠にして彼の編集作業を見よう見まねで覚えました。編集長はAさんがいなくなってしまい、ほぼひとりで編集の仕事をやっていたので、私に手取り足取りで「教える」なんていう暇はないものの、失踪したAさんのように敵意をむき出しにはしない方だっだので、助かりました。さらに編集長は東京の大学を卒業後、大手出版社で編集の仕事を経験して来た方で、月刊誌の企画内容も的確で、レベルは高く、その後の私の人生で編集の仕事の基本をここで学ばせていただいたことはとても役立ちました。また、編集長の方は私が取材とライターの経験者だったので、取材して記事は書ける上に、パソコンを業務に役立てようと勝手に試行錯誤して行くので、任せることができて、とても助かっているようでした。

今にして思うと、パソコンの手ほどきを受けずに、よくぞ、そこまで使いこなせたなあと、我ながら感心しますが、まだまだ機能が装備されず、できないことが多かったからこそ、簡単に使いこなせたということでもあったのだろうと思います。そして、私は意外にパソコン操作には向いていたようです(笑)
このあと、私は全国から注目をされるビデオテックスに事業に取り組むことになるのです(インターネット時代の夜明け前のできごと)。

1日雨が続きました。
ずらっと並んだ大したことない選択肢から
選んでいく…
無けりゃ自分で作るって
それでも 一文字ずで金属製の文字を拾って
カシャカシャうつタイプライターより
スゴイよね!!って
そんな時代をreicobaさんも生きていたんだって
なんか嬉しいです!
>そうそう!... への返信
ありがとうございます~。シャインさんもあの古き面倒な時代をご存じなんですねー(笑)
でも、きっと、シャインさんは私よりかなりーりお若いかと思います(^^)v
高齢者の私は年金だけでは暮らせないだけで働き続けないといけない状況で。シャインさんはばりばり現役世代ですよね?