眺める空に描くもの

高齢者女子のおひとりさま暮らしノート

休刊と3号雑誌のころ

2025-03-03 06:03:14 | わたし記
3月3日(月)ですが、今日は受診日で朝イチに出かける予定なので、早めのアップになります、以下、昨日の日記です。
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3月2日(日)のあさ空。
このところ、朝は天候が悪く、午後に持ちなおすというお天気が続きます。
今日も雲イリュージョンで桜島は「なかったこと」に。

午後からは持ち直したので、今日もがんばって、ちょっとした「お散歩」に出かけます。桜島も帰って来ましたが、頂上付近は相変わらず雲イリュージョン。ぼんやりしています。それにしても、この左手の木々、撮影する度に成長しているような気がします(笑) カットできれば、「きれいな桜島がァ見えるのにィ」なんて贅沢なことを思うけれど、なす術はござらぬ。
「すっきりと晴れてはおらぬのう」と、空を見上げると、雨雲がやはり、席巻しております。「こののちに雨も降ろうが、かまわぬ。いざ、出陣じゃ」「ははっ」(ひとり二役をこなすアタオカ高齢者)。

先日、見に行ったときには全く花は咲いていなかったのに、積雪のあと、急に気温が上がったせいで、一気に咲いた様子です。神社横の梅の大木は名もなき白梅ですが、風格があって、毎年、楽しみにしています。


ここまで来たら、都市農業センターまで行きたかったのですが、身体が痛いので無理をせず、泉石蔵に。お米はやはり、特別仕入ルートのせいか潤沢です。

お米の説明が書かれています。お店の方がお書きになったと思いますが、この方の文字、とてもきれい。感心して眺めます。特上米、おいしかった。


次第に雨模様で雨粒がパラつきます。
「ここで拙者は思い起こしたことがござった。うかつなことに、薩摩の最大手のスーパーをチェックし忘れていたことを。拙者としたことがぬかりおって。恥を知れっ」(まだ、続けていたのか?)

店舗数は93店舗。従業員数3500人を超える鹿児島最大手タイヨー。私が入院直後に買い物難民に陥ったとき、ネット注文をお願いして、助けていただいたスーパーです。今も最悪な状態のときはネット注文をお願いしています(超フレンドリーな配達員さんが来てくださる)。店舗の方にもうかがっているのですが、大手スーパーの方には流通していない思い込みで、うっかり、チェックするのを忘れていたのです。

お米はありました。このほかに、別の場所にもお米はあります。
もちろん、欠品しているお米もあって、ふだんに比べると、やはり品薄感はありますが、それでも、5キロ入りもちゃんとあって、3000円台なので、今の価格としては妥当なお値段かなと。

ただ、鹿児島産のお米は少なく、富山、北海道、新潟のお米が入っているようでした。つまり、鹿児島産のお米が主力のAコープとCOOPかごしまがお米の調達に苦戦しているということなのかな。どこから仕入れているのかという各店舗の違いをお米で知ることができるようですね。

少し青空も見えますが、雨雲にはやや負けそうな空の勢力図。


タイヨーの雑誌売り場で雑誌をチェックしていたら、「TJカゴシマ」が目につきました。「タウン情報カゴシマ」は、鹿児島のタウン情報誌の草分けで昭和55年の創業です。


そして、気になったのが「休刊のお知らせ」でした。


45年の長きにわたって続けて来られた月刊誌も最近のネット情報の台頭にはどうしても役割を見直さなければならない「とき」に来たようです。なんだか、とても感慨深い気持ちです。

先日、新人時代の仕事のやり方について書かせていただいた月刊誌の出版社J社は、TJさんよりも先に創刊していて、TJさんが創刊するにあたって、J社に教えを乞いに来られたという話をJ社の社長にうかがったことがありました。

今は鹿児島も少し経済的に潤って来たところがありますが、40年以上も前は、東京からUターンすると、東京との賃金格差は半分とか、3分の1になるくらい低所得。日本全国の県別所得ランキングの最下位争いをしていたくらいで、いかに鹿児島県が経済的にひっ迫していたかがわかります。となると、経済的にゆとりのある企業も少なく、広告収入に頼らなければならない雑誌の運営はかなり困難。広告にお金を出すなんて無駄と考える経営者の方ばかりで、創刊した雑誌の多くは「3号雑誌」となっていました。当時は、今よりも雑誌を創刊したい人たちはとても多くて、なんとかお金をかき集めて、創刊しても、広告収入が伴わないから、3号目で「休刊」という名前の廃刊をせざるを得ないという時代だったのです。

J社の社長は東京の出身の方で鹿児島には縁もゆかりもなかったのですが、お兄さまが、縁あって鹿児島に来ることになり、親戚も友人もいない鹿児島で寂しいので、弟である社長を呼び寄せたそうです。そこで、雑誌の編集を仕事にしたかった社長はZ社の編集部に入りました。Z社は文芸誌で鹿児島の著名人たちの「随筆」を掲載する一方で、編集部の企画として、企業のトップの対談など、経済誌的な一面も。さらに、企業のトップや文化人を会員にしていますから、月刊誌の販売は会員の下支えありきで、売れる売れない内容にかかわらず、確実に本は会員が購入するし、広告についても、会員各社に依頼するので、かなり安定的な運営をしていたのですが、Z社の編集長と運営方針が合わず、J社の社長は決別。そのとき、東京の大手出版社の編集部にいて、鹿児島にUターンしてZ社で働いていたSさんをヘッドハンティングして、ふたりで新たに立ち上げたのがJ社でした。

Z社と同じことはできないので、J社の社長は「3号雑誌」にせずにすむ方法を思案し、住宅情報誌を立ち上げることに。住宅専門誌であれば、広告主も探しやすいという発想だったようです。これから住宅を建てたい読者向けの情報誌を創刊する一方で、逆にハウジングメーカー向けに統計情報が得られる専門の情報誌の発刊など、経営に関する仕掛けを考えたことで、「3号雑誌」にはしなかったのです。その成果を評価してTJ社の方たちがJ社を参考になさったようでした。そして、TJ社さんも3号雑誌に終わらず、順調に運営されているのを見て、どこか業界の仲間的な思いで社長や私たち編集部員もエールを送っていたのでした。

J社はさまざまな事業展開をして、生き残りをかけて運営をしていましたが、社長が45歳の若さで他界。編集長のSさんが後継となって頑張っていらっしゃいました。私はそののち、J社からは離れてしまいましたが、フリーのライターとして、今の会社に入る前にはTJ社の取材をさせていただいたこともあり、ご縁のある雑誌の休刊には心が痛みます。

私自身もネット情報のおかげで、紙媒体のライターの仕事が激減して、仕事を続けられなくなったし、フリーのライター仲間も仕事を続けることが難しい状況がありましたので、TJ社さんはよく持ちこたえられたと思います。

TJ社さんの取材で撮影させていただいたカフェのパフェ。




40年くらい前は、こんな風にネット情報の時代が来るなんて、思いもよらなかった。紙媒体の情報が主力の時代があったことは次第に記憶の彼方の波に飲み込まれて行くにしても、私にとっては特別な思い出の日々です。TJカゴシマさん、お疲れさまでした。そして、取材では大変、お世話になりました。休刊前の最後になる来月号も買わせていただきますね。


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2 コメント

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 (シャイン)
2025-03-03 18:09:23
紙の雑誌がどんどん薄くなりそして無くなっていく…
作家さんも仕事が激減して
バイトしている方もいらっしゃる
ちょっと寂しいです
パフェ、美味しそうっていうか
きっと美味しいのだろうな
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Unknown (reicoba)
2025-03-03 19:11:28
>シャイン さんへ
>…... への返信
時代とは言え、本当にこんな時代になるなんてと寂しく思いますね。紙媒体がすべてなくなるとは思いませんが、本も電子版になってしまうし、生き残りは難しい時代ですね。

パフェ、おいしそうですよね♪とは言え、私は食べてなくて(笑) お店によって試食させてくださるところもありますが、こちらのお店は提供がなかったので、味はわからないのですが(>ω<) このお店には自腹でランチには行かせていただきました。
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