日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

諏訪山29号墳/諏訪山古墳群|埼玉県東松山市 ~比企地方の古墳時代前期の謎とともに藪に覆われて眠っている古墳~

2021-02-25 14:33:02 | 歴史探訪


諏訪山29号墳は、いわゆる諏訪山古墳群と呼ばれる後期の群集墳とは別個の前期古墳で、埼玉県内における最古級の前方後方墳のうちのひとつです。

発見困難
説明板なし
墳丘登頂不可能ではないが絶望的
駐車場なし
トイレなし

お勧め度:

 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


東松山市西本宿



現況


雑木林

史跡指定



出土遺物が見られる場所



 

2.諸元                             


築造時期


3世紀第3四半期(稲用編年)

墳丘


形状:前方後方墳
墳丘長:53m
墳高:
段築:
葺石:
埴輪:なし

主体部


不明

出土遺物


五領Ⅰ式の古式小型器台形土器、坩形土器、二重口縁壺形土器、小型高坏形土器

周堀


あり

 

3.探訪レポート                         


2015年2月1日(日)



この日の探訪箇所
富士浅間神社古墳(諏訪山36号墳) → 諏訪山29号墳 → 東武鉄道高坂構外側廃線跡 → 高濟寺および高坂氏館跡ならびに高済寺古墳 → 稲荷塚古墳 


 ⇒前回の記事はこちら

 富士浅間神社を後にして、今回の探訪の一番の目的である当地域の最古級の古墳を探しに行きます。

 これも古墳かなあ?



 富士浅間神社の南側にはデイサービスセンターがあり、おそらくその近辺じゃないかと思うのですが・・・

 ウロウロしていると、雑木林の中にあきらかな土盛が。



 こういう藪って写真にとってもほとんど意味が無いんですよね。

 でも確かに雑木林の中に古墳らしきものがあります。



 ただ、それが29号墳なのか35号墳なのか良く分かりませんが、両墳は南北に並んで隣接しており、おそらく29号墳じゃないかと思います。

 昨日の夜、出発直前に思い付いた探訪なので、下調べが十分にできていないことと、この後の予定が詰まっていることが相まって、今日は深く追及している時間はありません。

 久々に玉砕しました。

 もう時間がないので、次の目的地である高坂館跡を目指しましょう。

 (つづく)

 

4.補足                             


 上述の探訪でよくわからなかった29号墳と35号墳についてですが、『埼玉の古墳 比企・秩父』を元に簡単にスペックを示すと、

 29号墳 ・・・ 全長約53m 前方後方墳 4世紀前葉末
 35号墳 ・・・ 全長約68m 前方後円墳 4世紀後半末 県内の前方後円墳では最古級

 となっています。

 『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』では、35号墳の北側に古墳の印がマーキングされており、位置的にみると私が見たのはやっぱり29号墳ですね。

 『新編 埼玉県史 資料編2 原始・古代 弥生・古墳』が編された時点(1982年)では、浅間神社古墳と29号墳、35号墳ともに発掘調査がされておらず、該書には詳細な説明はありません。

 『季刊考古学・別冊15 武蔵と相模の古墳』によれば、埼玉県内(北武蔵)では、古墳時代初期に比企地方に諏訪山29号墳を始めとした前方後方墳の構築が始まります。

 なお、29号墳の築造時期は、上述のように4世紀前葉末という慎重な意見もありますが、私はもっとアグレッシヴに3世紀第3四半期で、熊谷市の塩1号墳と同時期と考えています。

 さらにもう1世代古い古墳としては、塩3号墳(方墳)や、根岸稲荷神社古墳(前方後方墳)を編年しています。

 面白いのは、こういった古い古墳は比企丘陵に集まっており、県内を見渡すと3世紀に遡る古墳はこの地域、つまりは入間川の支流域にしかないのです。

 このことから、濃尾の勢力が関東にやってきた際は、荒川よりも入間川を遡上して勢力を築くことを選択したことが分かります。

 ただし、後の令制武蔵国全体にまで範囲を広げると、南部の多摩川下流地域に大型前方後円墳の造営が早期に始まりその後も継続しますので、古墳時代前期では、入間川流域勢力より多摩川流域勢力の方がヤマトとのつながりが強かったことが分かります。

 それと、諏訪山古墳群はその連番が示す通り多くの古墳から構成されますが、塩野さんが言っている通り、29号墳と35号墳は前期の古墳として別格であり、それ以外の後期に群集する古墳とは別個に検討する必要があると思います。

 ただ、別個とはいっても大きな目立つ古墳のそばに群集墳を築造しているわけですから、それら後期の人びとは前期の王と系譜的につながりがあると信じていた人びとか、そうでなくてもリスペクトしていたというのは間違いないはずです。

 

5.参考資料                           


・『新編 埼玉県史 資料編2 原始・古代 弥生・古墳』 1982年
・『東松山市史 資料編第1巻 原始古代・中世 遺跡・遺構・遺物編』
・『埼玉の古墳 比企・秩父』(塩野博/著) 2004年


最新の画像もっと見る