つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

滝山城@東京都

2024-11-30 16:30:00 | 続100名城
2024年11月30日

午前中に八王子城を登城し、お昼を食べてか次なる城へ移動。

続100名城で国指定史跡の貴重な城郭、滝山城です。
同じ八王子市に位置します。

北条氏照が八王子城を築城する前に、滝山城を居城としていたとされています。

滝山城は武田氏と戦いの舞台にもなったと記録されています。

戦国時代を象徴する北条氏は、神奈川、東京、千葉、埼玉は当然ですが、群馬あたりまで勢力を伸ばしていた為、上杉や武田など名将と戦いを繰り広げていました。

それゆえ、北条氏が造る城は実践的で、まさに戦うための城。

今では各地で貴重な遺構として残り、城マニア達の心を掴んでいます。



滝山城入口の前までバスが出ています。

八王子城からは車で約30分程。
是非、八王子城とセットで訪れてもらいたい!

麓には無料の駐車場もあるので、大変便利です。



滝山城は北条氏照が永禄10年の1567年頃までに築城して、移転したと近年の研究で考えられています。



大手口から登城しますが、さっそく中世の山城のテイスト。

山を掘って造成したような、狭い道が続いています。



道の途中は食い違いになっているのも、戦国時代らしい造りといえますね。

道の左手は小宮曲輪、右手は三の丸。



小宮曲輪の空堀。
序盤から素晴らしい遺構を見ることができます。



右手の崖の上には小宮曲輪。
高低差の大きな空堀なのが分かります!



小宮曲輪。
曲輪の名称から、北条氏照の家臣小宮氏が活躍していたとされている。



小宮曲輪には土塁などを見ることができます。 

綺麗に草も刈られているので、形状の起伏が分かりやすいです。
 


三の丸の入口。
ここには枡形虎口跡がありましたが、残念ながら車道の整備によって現在は消滅してしまいました。

そして、小宮曲輪のように規模の大きな空堀で三方を囲んでいます。

ちなみに、当時はもっと大きな空堀であったとされていますが、現在でも高低差15mという圧巻の規模。



さらにら大手口の道を先に進むと、食い違いなった道と堀が現れます。

これは後ほど、上からの写真を貼ります。



続いて見えるのは千畳敷という曲輪。
大きな敷地の曲輪が広がります。

現在は芝生が敷いてあり、ファミリーが各々の時間を過ごしていました。



千畳敷から見た先ほどの食い違いの道。

上から見ると道の両脇が堀となっていて、土橋になっています。

ここからは横矢を仕掛けることができます。
かなり緻密に計算された城郭構造をしていますね。

鈴鹿サーキットのようにS字が続きます。



こちらは千畳敷脇にある土橋。
北条氏築城術の一つでもある、障子堀のようにも見えます。

当時はもっと堀が深かったと思われます。

普通であれば、ただ土が盛り上がってるだけで気にも留めない光景ですが、450年以上の時を経ても、この戦国の遺構を目の前にできているのは、ある意味では奇跡なのかもしれません。



千畳敷の向かい側には二の丸があります。

二の丸を囲む空堀は、小宮曲輪や三の丸を遥かに超える規模!

これも後ほど二の丸の周りを歩いた時の写真と共に解説します。


更に本丸を目指して先に進むと、二の丸と中の丸を分断する堀切を見ることができます。

滝山城は各曲輪が堀切や永遠に続く横堀で独立していているのが特徴的。
歩いていて全く飽きることがありません。



右手には中の丸、左手は旧斜の崖になっています。

中の丸は本丸の次に重要な曲輪とされていたので、堅牢に造りで防御機能を高めています。

土塁の残り方から、この場所には櫓門があったと推定されています。



中の丸は広大なスペース。
70m×100mの曲輪には当時の政庁があったそうです。

奥の建物には続100名城のスタンプが置かれています。



中の丸からの景色。
多摩川が流れており、このスポットから下を見ると、幾つもの腰曲輪が形成されているのが分かります。

北の防御も抜かりなく強化されています。



中の丸から、いよいよ本丸に入ることができます。

最後の難関は中の丸と本丸を分断した堀切に架けられた木橋を渡ること。



木橋を渡ると食い違いの枡形虎口。
最後の最後まで執拗以上に守りに忠実な設計。



本丸は土塁で囲まれていています。
中の丸はよりは、やや小さく細長い形状をした曲輪。



紅葉がとても美しい。



11月30日でしたが、暖かくこれが戦国を生き抜いた城であることを忘れてしまいそうな、のどかで静かな時間が流れています。



本丸の角には井戸があります。

底は見れませんでしたが、石積みでしっかりと造られているのが分かりました。



本丸の北側。
本丸には明治45年に創建された霞神社があり、静かにこの地を見守っています。



本丸からの景色。
滝山城は標高169mの東西に伸びる加住丘稜に築かれました。

標高が低いので、気軽に登城できるのがポイント。



帰りは本丸から階段で降りることができます。
おそらく神社の創建時か、後の時代に造られたと思われる階段。



本丸からの階段を下ると、滝山城名物の大堀切に出ます。

奥には先ほど渡った木橋が見えます。



この堀切は圧巻!
15m以上はありそうな、巨大堀切。

調査で当時は今よりも、もっと深い堀切だったことが判明しています。

さすが最後の砦となる本丸を守る堀切です。


続いて、また来た道を戻って、二の丸の周りを歩くことにします。

さっそく空堀と土橋を見ることができます。
写真の通り、右手も左手も空堀になっていて、その間が道になっています。

これが土橋ですね。



二の丸の周りは空堀と土橋だらけで、かなり防御体制を敷いているのが分かります。



空堀の右側が二の丸。
この空堀もかなり高低差がありますね。

しかも、木があまり生えて無いので、遺構の形が綺麗に見えるのもポイント。



南馬出から二の丸に入ることができます。
当然左右には空堀があり、土橋を渡ることになります。

どんなに大群で攻めてきても、この狭い土橋を渡ることになれば、防御が容易くなります。

攻めにくく守り易い。これが戦う城のセオリーです。



土橋の先は二の丸です。

写真は撮っていないのですが、二の丸周辺には多くの馬出があり、特に南馬出と大馬出は連続していて、鉄壁の守備ゾーンな気がします。



大手道に戻る道も、左右には空堀があり、土橋を渡って戻ることになります。

特に右手の二の丸を囲む空堀の規模は、レベルが違いすぎるほど凄いです。

実際に歩いてみて、どこから攻めてきても対応できるような設計になっている気がしました。



二の丸を繋ぐ土橋からの一枚。
右側が二の丸。

堀底からの高低差を見ると、その巨大さがお分かり頂けると思います。



右手は二の丸。
左手は最初に通った大手道です。

草が刈られているので、本当に見やすく素晴らしいです。
今でも埋もれた城は多くありますが、整備してくださっている方のおかげで、現代でも城は輝き続けます。

そして、大手道から登城した道を戻って下山です。


滝山城の戦として有名なのは、1569年の滝山合戦。

武田信玄と交戦して三の丸あたりまで攻め込まれましたが、2000人の兵で守ったという話も残っています。

しかし滝山合戦を機に、より堅固な八王子城を築城したとも言われています。

八王子城への移転によって、滝山城は廃城となりますが、ある意味では廃城によって綺麗な遺構が残っているとも考えられます。


そして、何よりも素晴らしいのは滝山城の保存会の方々が綺麗に整備をして守り続けていること。

東京にもこんなに素晴らしい中世の城が残っています。

先日行った本佐倉城も素晴らしかったが、滝山城も非常に魅力的な城。

いくつかの登城ルートがあり、時間の都合上ワタクシも全てを見ることはできませんでしたので、改めて行く楽しみができました。

今回は北条氏照の居城を日帰りで2城周りました。
八王子城も滝山城もテイストが違いますが、間違いなく東京に残る名城です。


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八王子城@東京都

2024-11-30 12:00:00 | 100名城
2024年11月30日

11月最後の土曜日は八王子城に遠征。 
戦国時代を象徴する、関東屈指の山城です。

今日は八王子城を含めた2つの城に行く為、今回は車で向かいました。

公共交通機関でのアクセスは中央線の高尾駅からバスが出ています。

八王子城を築城したのは北条氏康の三男となる北条氏照。
関東全域を制覇していた北条氏の本城となる小田原城と並ぶ、北条氏にとって重要拠点となっていたのが八王子城です。

八王子城は日本100名城で国指定史跡ですが、八王子城に関する資料が圧倒的に少なく、残された遺構と地道な発掘調査によって徐々に城の実態が解明されてきました。



八王子城は戦国時代末期の天正期に築城されたとされています。

戦国晩期に築城したこともあり、山城の最高傑作ともいわれています。

麓には八王子城跡ガイダンス施設があり、八王子城や北条氏についての資料を見ることができます。

こちらで少し知識をつけてから登城すれば、より楽しむことができると思います。



ちょうど紅葉シーズンだったので、イチョウも綺麗に色付いています。

八王子城は戦闘時に要塞となる要害地区と、城主の生活の中心となっていた居館地区、城の城下町となる根小屋地区に分かれています。

巨大な城でしたが、落城時はまだ未完だったとも言われています。



まずは、要害地区に潜入。
要害地区は標高460mの山に築かれた中世の山城タイプ。

入り口は無料の駐車場からすぐの所にあります。

こちらは新道で当時のルートとなる殿の道もあります。

これは後から知ったのですが、そちらのルートは堀切や石垣が見ることができるそうです。
これは今後の宿題でまた登城しようと思います。


細く狭い道を進んでいきます。

当時の遺構なのかは不明ですが、石垣も少し見ることができます。



最初に見えるのは金子曲輪。
北条氏家臣の金子家重が守っていたとされています。


本丸に続く道の途中には柵門跡があります。
平坦の地にあり、門跡の先は右手と左手に別れています。

今は、登山途中の休憩場となっています。


柵門跡を抜けると高丸が現れます。



高丸の先端は崖になっていて、下の曲輪の三方を見渡すことのできるように、突き出したような作りになっています。

防御機能の高い曲輪です。



八王子城はどこまでが天然の要害で、どこまでが人の手によって造られたのか、判断するのは難しいです。

しかし、間違いなくゴリゴリの戦う為の城であることに間違いありません。



さらに本丸を目指して、険しい道を進みます。



関東平野を一望できる、八王子城で一番の絶景スポット。



遠くには大都市、東京の高層ビル街が見えます。

八王子城は豊臣秀吉による小田原征伐の1590年に落城しました。

開戦やむなしの状態で、どういった想いでこの景色を見ていたのでしょうか。



デジカメでズームを使えばスカイツリーまでバッチリ見えます。

晴れた日は特に絶景です。



いよいよ、本丸が近くなりました。

右手には小宮曲輪、左手は松木曲輪、正面の階段を上がると八王子神社があり、その裏から本丸に上がります。



樹齢何年かは不明ですが、太い杉の木が並びます。
木は何も語りませんが、ここで繰り広げられた歴史も見てきたはずです。

八王子城の戦いでは豊臣軍となる前田利家、真田昌幸、上杉景勝の15000人の軍勢で攻め込まれ、1日で陥落しました。

本丸が近いこの辺りは激戦となった地なので、変わらぬ佇まいで八王子城落城の時も見ていたのでしょう。



東屋の裏手にあたる、三の丸にあたる小宮曲輪に向かいます。

狩野一庵が守っていたとされる曲輪。

小田原征伐の際に上杉景勝の軍勢の奇襲にあったことで落とされたとされています。



小宮曲輪を後にして、本丸に向かいます。



途中、本丸に向かう細い道で、神秘的な木があります。

ジブリに出てくるような、根本が洞窟のような穴になった木。



標高460mの本丸に到着です。
城の中心で最も重要な曲輪。



要害地区全般に言えるのですが、各曲輪の平地部分が小さいのが特徴的。

何百、何千の人員配置は難しそうに思えたのですが、どうやって戦ったのでしょうか。



続いて、松木曲輪。
中山家範がこの辺りを守備していて、奮闘しました。

松木曲輪を攻略した前田利家は、その武勇を惜しんで助命を申し出たと伝えられています。

そして、子息は徳川家康に仕えて、水戸徳川の家老になったそうです。



紅葉が見頃ということもあってか、多くの人が訪れていました。



一度、登城したルートで下山。
要害地区の次は居館地区に向かいます。

看板には古道・御主殿跡の看板があります。


山城の要害地区に比べて、居館地区は平らな場所に展開されています。



一つ目の橋を渡ると大手門跡に出ることができます。



一つ目の橋を渡った先に、堀切のように通路を切断した部分に架けられた橋が見えてきます。

本丸などが置かれている要害地区よりも、分かりやすく城の防御機能を見ることができます。



大手門跡の前には広めの空間があります。
昭和63年の発掘調査で門の礎石や敷石が見つかっています。

現在は埋め戻されています。



周りは土塁で囲まれていて、スタジアムのような臨場感があります。

大手門があったこの場所が居館地区に向かう八王子城の正面口となります。



道は綺麗に整備されていています。
この大手道を当時の武士たちも歩いていたことでしょう。

城主であった北条氏照も、歩いていたのだと思うと感慨深いです。



大手道の先には曳橋が見えてきます。
御主殿跡に架けられた大きな橋。

当時は簡素な木の橋が架けられていて、戦の際は橋を壊すことで主郭を分断する役割がありました。


橋を渡ると北条氏照の館があった御主殿跡に入ることができます。



関東では珍しい石垣。

中世城郭から近世城郭に移り変わるタイミングくらいの城なので、主郭部だけは石垣が使用されています。


入り口の突き当たりには少し大きな石材が積まれており、鏡石の原型を見ることができます。



無骨な野面積み。
主郭部は一段高い場所にあり、約9mの土塁で囲まれていて、腰巻き石垣と呼ばれる下部のみに積まれた石垣。


石垣が高く跳ね出している場所には、礎石が4ヶ所発見されていることから、櫓門もしくは物見櫓などの建築物があったとされています。



階段を登り、さらに90度曲がると主殿に入るための虎口が現れます。



階段の幅は約5m、踏面は1m、蹴上36cm。
ゆったり登れる階段は、現代でいうところの介護施設くらいバリアフリーに近い構造。

全面に石が敷き詰められているのも特徴的です。



当時をイメージした冠木門を抜ければ、御主殿です。



平成の発掘調査で、北条氏照の住まいだったとされる主殿、会所、庭園、敷石通路、水路などの遺構が発見されました。

建築物の礎石は、現在も見ることができます。
→礎石はレプリカのようです。



主殿の周りは土塁で囲まれています。
大きなスペースで、現在は広場となっています。



土塁の上からの曳橋。



造作物の上には会所の間取りなどが表示されていて、今はなき建築物を想像することができます。

建築物を復元できなくても、こういったプロモーションは凄く重要だと個人的には考えています。


帰りは曳橋の下を抜けるルートで帰ります。

そして、八王子城の名所なのが御主殿の滝。
崖になっていて、小さな滝が奥にあります。

天正18年、豊臣秀吉の軍勢によって落城した八王子城ですが、御主殿にいた女性や子ども、将兵達は滝の上で自刃し次々と身を投じました。

領民も含めた3000人が、八王子城で共に籠城していました。

滝から流れる川は、三日三晩赤く染まったと伝わっています。

戦国真っ只中の八王子城には、そんな悲しい歴史があります。



曳橋下からのショット。
素晴らしい4段に連なった石垣。

山城の要害地区とは一転して、近世城郭の姿を一層感じることができます。



御主殿周りの石垣は、復元して積み直したものですが、中には400年以上前のまま土の中に眠っていた箇所もあり、状態が良好なものはそのまま生かされています。



八王子城主の北条氏照は小田原合戦の際に、小田原城で籠城しており、八王子城の陥落の知らせは降伏の決め手となったとも言われています。

そして小田原城開城後に、北条氏政と共に切腹し、名家の北条家は滅亡します。

先の滝での自刃の話も含めて、悲しい話ではありますが、そもそも城とは軍事施設。

日本の文化として今は観光スポットとなっていますが、生死をかけた戦いの為に造られたのが、戦国時代における城の役割です。

後に城は権威の象徴や政治の中心地と役割が時代と共に変化していきます。

八王子城の落城は、同時に戦国時代に終わりを告げるものでもありました。

まだまだ謎多き城ですが、激動の歴史の中心となる重要な八王子城は、都内からのアクセスも良好なので、是非攻略して頂きたい城です。


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江戸城 遺構巡り【其の一】@東京都

2024-11-17 13:00:00 | 100名城
2024年11月17日

東京には江戸城の遺構が、街中に幾つも残っています。

現在、江戸城の主郭になっていた場所は皇居になっており、天守台や櫓、城門などが現存や復元されています。

しかし、江戸城は全長15kmに及ぶ日本一の巨大城郭でしたので、現在も至る所にその名残を見ることができます。

今では世界の東京都となり高層ビルが立ち並び、さらなる大開発が進んでいますが、江戸の歴史を知ることで今の東京を違った視点で楽しむことができます。

定期的に江戸城の埋もれた遺構を巡っていきます。

まず向かったのは四ツ谷駅。
四ツ谷駅は中央線、総武線、南北線、丸の内線が交わる大変便利な駅。

新宿区と千代田区の境に位置しており、江戸城はこの四谷まで広がっていました。



改札を出ると鉄道や駅周辺の歴史について観覧板があります。

当然江戸城についての内容もあるので、一度ここで知識を深めてから楽しむのも良いかなと思います。



四ツ谷駅から麹町方面の出口を出ると江戸城の遺構を見ることができます。



駅の目の前に現れるのは四谷見附。
立派な石垣が現れます。



見附とは番兵が駐在している城門のこと。
江戸城三十六見附と呼ばれ、江戸城には幾つも堅牢な門が存在していました。

現在でも地名として残っているのは、この四谷見附と赤坂見附です。



それでは四谷見附はどのような役割があったのか。
四谷見附は甲州街道に繋がる門だった為、万が一の際に将軍が甲府に脱出する為の重要な門だったようです。

江戸時代の甲府は幕府管轄領だったので納得です。



四谷見附前の橋からの一枚。
四ツ谷駅のホームと中央線。

首都東京の心臓となる中央線の線路こそ、実は江戸城の貴重な遺構です。

中央線の線路は江戸城の外堀の底部に敷いたので、周りよりも低い位置を走っています。



サイドから見ると四谷見附付近が、今でも城郭の形状をしているのが分かります。

ある意味では、堀のスペースに駅と線路を敷いたことで、他の建築物が建つこともなく宅地造成されるのもなく、堀の形状を現在に残し続けています。



四谷見附から飯田橋方面に向かいますが、土塁の上は整備されていて、歩くことができます。



静かで都会にいることを忘れてしまいそうな素敵な道。

今まさに江戸城の遺構の上を歩いています。


土塁の上から下を覗くと、堀になっているのが分かりやすいです。


市ヶ谷駅付近に来ると水堀になります。


橋からの一枚。
右側には先ほどまで歩いていた、巨大で美しい土塁。

そして、水堀。
東京に来た時は川だと思っていましたが、これは立派な水堀です。


いよいよ目的地の飯田橋駅に到着です。
牛込橋を渡ると牛込見附跡の遺構を見ることができます。


土塁と巨大な石垣。
ここには櫓門があり、それを支える石垣の土台が両側に残っています。

江戸城の外豪の中でも、最も状態よく残っている遺構。


さすが江戸城!と言わんばかりの石垣。

直方体の石材を交差して積んでいくのが、算木積みですが、江戸城の算木積みは他の城では見ることのできない程、綺麗に加工された巨大な石材を使用しています。


隅部以外はある程度加工した石材を使用する、打込接で積まれた石垣。

江戸城は拡張工事も行いつつ強固な城にしたので、完成は三代将軍徳川家光の時。

徳川家康から始まった江戸城の工事はトータル35年程の工事だったので、場所によって石垣技術が異なります。



飯田橋駅の改札側。
こちらは隙間なく積み上げた綺麗な切込接。



一つ石材がポツンと置かれています。

何やら下には文字が刻まれています。
松平阿波守と書かれていて、初代徳島藩主の蜂須賀忠英を指しています。

1639年に蜂須賀氏が天下普請によってここを築城担当した確かな証拠。

当時のメッセージは数百年経過した今、貴重な資料として届けられました。


駅前の道を挟んで二つ土台の石垣が残っていますので、櫓門の想像がつきやすい。


飯田橋駅の2階のテラスからは、さらにハッキリとイメージをもたらしてくれます。

二つ並んだ櫓台の上に、道をまたいで櫓門が建っていました。
天下を納める幕府の城らしく、巨大な城門だったことは、容易く想像できます。

牛込見附は枡形になっていて、敵を迎え打つ防御機能も備わっていました。



飯田橋の総武線ホームから、先ほどの櫓台の足元が見えます。

都内に住んでいる方にすれば何気ない光景かもしれませんが、江戸城の伊吹は何気ない光景の中に感じることができます。

東京の魅力を違った角度から見ることで、今の東京は確実に江戸時代と繋がっていることを感じます。

次は赤坂見附に行きたいと思います。




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品川台場@港区

2024-10-20 22:40:00 | 続100名城
2024年10月20日

三日間の岡山、高知、香川の100名城巡りを終え東京に帰ってきましたが、翌日は台場で用事があったので、品川第三台場に行きました。

日本続100名城にも選ばれている品川台場ですが、おそらくお台場に遊びに来ているほとんどの人が知らないであろう江戸幕府による貴重な遺構です。



よくあるお台場の光景。
ビーチには高校生や観光客、ファミリー、カップルなど各々の時間を楽しんでいます。

そんな幸せの時間が流れるこの地で、
江戸時代の1853年、日本に激震が走ります。

ペリー率いる4隻の軍艦が神奈川の浦賀沖に現れました。

江戸幕府は守備を強化するために砲台を建設することを決断。



奥にはレインボーブリッジが見えます。

お台場公園の見慣れた当たり前の光景ですが、レインボーブリッジの下に石垣造りの島があります。

海に浮かぶあの島こそ江戸幕府が造った要塞、品川第三台場です。

こんなオシャレタウンに大砲を放つための島があったなんて驚きですよね。



まるで天橋立のように細い道が島につながっています。

石材で造られた道で、対岸にはフジテレビが見えます。

砲台場は12基建造計画がありましたが、
幕府が開国したことで最終的には6基建造しました。

その内、現存しているのは第三台場と第六台場で現在、国の指定史跡となっています。

一般人が行けるのは品川第三台場のみ。

ワタクシが東京に来たのは13年前。
恥ずかしながらこの品川台場を知ったのは城好きになった最近のこと。

それまで全く存在を知りませんでした。



近ずくと石垣がよく見え、綺麗な切込接を確認できます。

緊急性が高い建築計画だった為、泉岳寺境内や品川の御殿山を切り崩して埋め立てられました。

資材を運ぶための船は1日2000隻。
作業員数は1日5000人。

超突貫工事です。

フジテレビなどがある、現在お台場と言われるエリアも埋立地ですが、江戸期に既に埋め立てられた島を造っていたのですね。



石垣は腰巻石垣になっていて、海と接する下部は石垣。
上は土塁で囲まれています。

第三台場は約150m四方の石垣で囲んでいます。



砲台場の中心部はサッカースタジアムのようになっています。



レプリカですが、大筒をセットする砲台置き場があります。



結局、台場は一度も使われることがなかったのですが、外国から日本を守ることは江戸幕府の威信をかけた事案だったことがわかります。


現在、品川台場には建築物は残っていませんが、想像を掻き立てる跡はしっかり残っています。



石材で形成された防空壕のような穴は、大砲の弾や火薬を収納するための弾薬庫として使用されました。



下から見るとまさにスタジアムのピッチに立っているようです。

砲台場は当時は御台場と呼ばれていました。

徳川幕府の威信を掛けた事業は、今も変わらない姿で残っています。

歴史は今に繋がっている。
まさに、お台場はそれを感じることができるエリアです。



夕暮れが近づくお台場。
レインボーブリッジと高層建築物。

目覚ましい発展を遂げた日本ですが、特にこの東京は世界で有数のビックシティになりました。

しかし、変わらない物もある。
海に浮かぶ第三台場とこの太陽は今も昔も変わらない。

この歴史を伝え繋がるのは、現代を生きている我々。

素敵なロケーションが、エモーショナルな気分にさせる。そんな1日でした。


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丸亀城@香川県

2024-10-19 12:00:00 | 100名城
さ2024年10月19日

昨日の高松城に続いて、今日は丸亀城に向かいました。

まさかの曇りで、雨予報。

当初の予定は午前は高松城で午後は丸亀城の予定でしたが、晴天の昨日の内に高松城に行ったのは正解!

高松駅からJR伊讃線で約20分ほどで丸亀駅に到着。



レトロなアーケードを歩き、丸亀城を目指します。
城が目的であっても、知らない街並みを歩くのも旅の楽しさの一つ。



歩いて10分〜15分ほどで丸亀城の水堀に到着です。

丸亀城周辺は大型バスも入れる大きな駐車場もあり、観光客を受け入れる体制がしっかりしているように思えました。

1587年に17万石でこの一帯を納めた生駒正親。
1597年に丸亀城に着手。1602年には完成したものの、本城は昨日行った高松城でしたので、1615年の一国一城令によって廃城とされてしまいました。

しかし、生駒氏がお家騒動によって所領没収により、丸亀藩が立藩し山崎氏が入封し丸亀城再建に着手。

その後、京極氏が入封して明治期を迎えます。

京極氏の時代に32年間の改修の末、現在の丸亀城に生まれ変わりました。


城下から城を見上げた瞬間、丸亀城の石垣に衝撃を受けます。

山一つを削り出して造られた城です。

まるで天空の城ラピュタのような、いくつも段になった石垣。

雨が強くなり、どんよりとした天気でも、この石垣を見ればテンションが上がってしまいます。

写真では何度も見ていましたが、実際に見ると圧倒されます!



まずは大手二の門から入城します。

大手二の門脇には、鉄砲を打てる狭間があります。

水堀に架けられた橋は極度に細く、大軍が攻めても横並びで進行するのは不可能。

つまり1000人で攻めてこようが、10000人で攻めてこようが、この橋を渡れる人数は決まっています。

この橋を渡る敵は狭間から完全にロックオンされます。

遥か奥の天守は今でこそ美しいですが、攻める側であれば、総石垣も含めて威圧が凄いですよね。



横から見ると分かるのですが、橋が途中で途切れています。

おそらく、有事の際はこの橋ごと落とすことで、より攻めにくくする狙いがあるのではと個人的には感じます。

水堀の石垣は綺麗な切込接で目地を揃えた布積み。

しかし、土塀下の石材だけは一回り大きな石材を使用しています。



二の門を抜けると枡形になっていて、大手一の門が出現!

枡形には鏡石と呼ばれる巨石が使われて、メインゲートとなる大手門にふさわしい格式高い門となっています。


上から見た枡形虎口。これぞ城門!

袋小路にすることで、敵に一斉攻撃を仕掛ける仕組みになっています。

二の門は高麗門で、一の門は櫓門。
櫓門で藩士が太鼓を打ち、時を知らせていたので太鼓門とも呼ばれていました。



大手門を抜けるとお土産屋があり、その脇の見返り坂を登り進めると天守へ繋がります。

坂は150mあります。



見返り坂の途中には、丸亀城の名所となる扇の勾配と呼ばれる石垣が現れます。

高さ20mクラスの石垣が丸亀城を取り囲みます。



先進的な切込接で隅は算木積み。
扇の勾配と呼ばれる通り、下は緩やかな勾配ですが上にいけばそり返って、ほぼ垂直になっています。

熊本城も同じ扇の勾配で有名です。
この巨大な高石垣を築いたのは、当然最高技術を有した石工集団の穴太衆。
熊本城の石垣も穴太衆が積んでいます。

元は自然石をその形を生かして利用した野面積みから始まった石垣は、綺麗に加工され、最終的には隙間がないように敷き詰められ、横目地が綺麗に揃った切込接と呼ばれる技術に辿りつきました。

昨日の高知城では野面積みの最高峰技術を見ましたが、丸亀城では日本の城郭建築における石垣技術の最高到達地点を目にしました。



見返り坂を登りきると、二の丸大手口跡が見えてきます。

写真では分かりづらいのですが、勾配がきついです。



二の丸には多くの櫓や渡櫓が建築されていて、本丸を防御していました。



本丸を支える石垣。
奥の張り出した場所には二重の塩櫓がありました。



天守に続く本丸の入り口、本丸虎口跡。
丸亀城はどこまで行っても勾配と石垣!


天守に到着。
三重三階の層塔型天守。

丸亀城は現存12天守の一つで、1660年に完成。
四国には現存天守が4城ありますが、四国の中で最も古い天守です。

国指定重要文化財の貴重な建築物。

長手面には黒の下見板張りが施されています。



天守入り口が可愛らしいのは、元々は天守と渡櫓が接続していた為。

天守の高さは15mで現存12天守の中では最も小さなサイズ。

総高60mを誇る石垣の要塞にしては、可愛らしい天守ですね。

しかし、この天守は小ぶりなのに相当な実装を備えた軍事施設なのです。

後ほど紹介!



非常にシンプルな天守で、後から付けたかのような唐破風が特徴的。
控えめながら千鳥破風もあり、一通りの装飾があります。



下から見上げる石垣も素晴らしいのですが、上から見る石垣もまた良き。

丸亀城には天守以外には麓にある城門しか建築物が残っていないのですが、至る所に櫓の跡が残ります。

丸亀城には12基の櫓が上がっていたので、当時の姿は壮麗だったことでしょう。



天守内部に潜入ー!



天守は1950年に解体修理が行われ、当時のままの姿を維持しています。

やはり木造建築は素晴らしいです。
小さめな天守ですが、一階は50本の柱で支えています。



一階は天井が高く、階段も急です。



いくつも複雑に重なり取り合っている横架材。
現存12天守だからこそ楽しめる昔ながらの技術。



海側に向けられた狭間。
鉄砲狭間はよくありますが、鉄砲狭間より大きなサイズの大砲狭間は、漆喰を塗られて穴が塞がれています。

これは非常時に壁を破って大砲を使用できるようにしたもの。

この天守から放たれる大砲の威力は、きっと強力であったと思われます。

丸亀城は一度も戦うことが無かった城です。



こちらも珍しい防御アイテム、太鼓壁。
写真をよく見て頂くと、長押から下の壁が分厚く内側に張り出しているのが分かります。

漆喰が厚く塗られ、鉄砲の弾丸が貫通しないように防御力を高めた壁になっています。



最上階。
昭和の解体修理をした際に、南東隅の壁の中から、祈祷札が出てきて万治三年の年号が墨書きされていました。

築城した日付なのか、解体修理した日付なのか、可能性は幾つか考えられますが、この時には天守が存在していたことが証明されました。

数百年の時を超えて、先人から我々に送られたメッセージ。



最上部の天井は面白いですね。

日本に12城にしか残されていない貴重な現存天守。これからも素晴らしい天守を、そして受け継がれた技術を守り続ける使命があります。



天守を見た後は、本丸→二の丸→三の丸へと戻り、南東隅にある月見櫓跡へ。

何故か天守を出た30分程だけ雨が止みました。

曇ってはいますが、それでも景色が素晴らしい。奥に見える大きな山は飯野山。

当時もこの月見櫓で絶景を楽しんでいたことでしょう。



二の丸を取り囲む南東側の石垣。


圧巻の打込接の高石垣です。



帰りは登ってきた見返り坂とは逆側となる搦手口側から降ります。



こちら側からの石垣も凄い!

張り出した石垣が多い為、隅部が多く石垣の技術の高さを、より一層感じることができます。


三の丸下の石垣。

二の丸下の石垣も高くて魅力的でしたが、三の丸下も同じくらい高い。
最上部に向かうに連れて勾配がキツくなり、最上部はほぼ垂直!



右奥には先程立っていた月見櫓跡の石垣。
下から見上げると、石垣の反り具合が分かります。

時代や城、築城者、地域によって石垣は全く異なります。

そんなところに石垣の魅力があります。



複雑に形成する三の丸を囲む石垣群。


上には三の丸の石垣。
下段は三の丸下にある帯曲輪の石垣。



これはさらに凄い!

一番上段は三の丸の石垣。
中段は三の丸下の帯曲輪の石垣。
下段は時代の異なる野面積みの石垣。

丸亀城には各曲輪ごと石垣で形成していて、いくつもの段々になっています。

三の丸石垣上には二の丸を囲む石垣と、さらに上には本丸を囲む石垣が存在します。

これが石垣の総高60mという、日本一の高さを誇る要塞、丸亀城です。

そんな全国のお城ファンからも愛されている丸亀城ですが、悲劇が襲います。


平成30年7月7日、七夕。
断続的に続いた西日本豪雨により、


南側の帯曲輪の石垣が一部崩落。


同年、10月8日
帯曲輪の南西隅部も崩落。


翌日、10月9日
三の丸坤櫓を含む南西隅部の大部分の石垣が崩落。



日本屈指の石垣の名城、丸亀城は大ダメージを受けてしまいました。

三の丸と帯曲輪の石垣は以前から危険とされていて、修復工事に着手する直前だったそうです。


6年経過した今も、鹿島建設が必死に復旧をしています。

本来は2024年度末に完工予定が、2028年完工に変更されました。

それは単純に復旧すべき石垣の数が増えたからです。
では、なぜ当初の見立てより増えてしまったのか



実は帯曲輪で隠れていましたが、三の丸の石垣は帯曲輪の土の中深くまで積まれていていたことが、崩落によって判明。

写真の通り、上段の石垣がグッと下まで伸びているのが分かります。

その高さは驚愕の31m!!
この発見により、単体の石垣としては徳川大阪城に次ぐ全国2位の高さとなりました。



土の中で隠れていた石垣によって、修復石材個数は1万1746個。

石材一つ一つに番号が振られ、城の前の広大な敷地に並べられています。


発見は石垣の高さだけではありません。

崩落した石垣の中に、丸形などに加工された石材が多く発見され、重ねると五輪塔が幾つも発見されました。

供養塔やお墓の一種とされる五輪塔が、なぜ石垣の中から出てきたのか、今だに謎のままだそうです。



発見は素晴らしいことですが、痛々しい姿に20分ほど立ち止まって現状の姿を眺めていました。

石垣は崩落したら何年もの歳月を費やします。
可能な限り元の姿に戻すには、おそらく新たに石垣を積むよりも難しく、さらに莫大な費用が重なります。

それでも元の姿に戻すことを決断したのは、現代の我々に先人から託された丸亀城を守るため。
そして未来に繋ぐため。

そんな誇り高き復旧を陰ながらワタクシも応援しています。



再び雨が強くなりましたが、再び大手口に戻る途中には、玄関先御門があります。

旧藩主居館の表門とされていて、江戸時代初期に建築。

形状は薬医門。左上には天守も見えます。


皆さん天守や石垣に目がいきがちですが、忘れてはいけないのが、再び戻ってきました大手一の門。

入口が通り過ぎてしまうほど影が薄いのですが、お土産屋を出てふと見たら中に入れることを知りました。

丸亀城に来たら観覧必至です。



一の門の中から太鼓で時間を知らせていたので、奥には太鼓がおいてあります。

現在は正午に太鼓で時を知らせているようです。



しかし、丸亀城のメインゲートの大手門ですから、当然防御機能も備わっています。

櫓門の防備アイテム石落とし。



丸亀城の枡形は18m×20mで大きめ。

大手二の門から侵入した敵はこの枡形で立ち往生。
そこを一の門から狙い撃ちます。

ここからだと、全てが手に取るように分かります。
しかし、鉄砲狭間などはなく窓も大きめなのでガチガチの戦国期の防御機能に比べると、やや劣る。もしくは他の意図があったのでしょうか。



大手一の門は1670年に京極氏によって建造。
関ヶ原の合戦からは70年が経過しています。

櫓内部の木材はやや細め。

しかし大手門の現存は珍しく、天守と大手門が現存しているのは、弘前城と高知城そして丸亀城のみ。

丸亀城の大手一の門も国指定重要文化財になっています。



大手一の門内部を見たら、来た時と同じ大手口の枡形から帰ります。



名残惜しいですが、大手口から丸亀城を後にします。


日本一の石垣の名城なので、見どころが多い丸亀城でしたが、やはり心に突き刺さったのは崩落した石垣。

崩落する前の、10月8日、9日共に住民から石垣から音がすると市役所に問い合わせがあったそうです。

物理的に音が鳴ったことは間違い無いのですが、石垣にも魂が宿っているのではないかと考えてしまうのです。
実際に石材一つ一つに職人の手が加えられ、思いが詰まっています。

そんな思いを今、一つ一つ繋ぎ合わせています。

1日も早い復旧を願っています。

3日間で岡山城→高知城→高松城→丸亀城と日本100名城の4城を周りました。

全ての城で素晴らしい石垣や建築物を見ることができました。

同じ城なのに全く性質が異なるので、城めぐりはやめられない。

四国にはまだまだ多くの名城があります。

また、改めて四国での城めぐりを敢行したいと思います。



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