つぶやき城ー。のブログ

日本の城、歴史的建造物の旅日記
※個人的観点

法光山 妙正寺【徳川家光公 縁の寺】@東京都

2025-01-05 16:00:00 | 
2025年1月5日

1月2日は江戸城に行き、本年度がスタートしました。

昨年から江戸城や徳川家に縁のある場所を、少しずつ周っております。

今回は東京都杉並区にある妙正寺に行ってきました。
正月最後の休みのこの日、家から歩いて約1時間少々ですが、ウォーキングを兼ねて訪問。

新宿区、中野区、杉並区を流れている川で、新井薬師あたりから約9.7kmの区間を流れる妙正寺川があります。

妙正寺川沿いは、ほとんどの区間が歩行者専用なのでウォーキングやランニングには最適。

妙正寺の裏側には妙正寺公園があり、噴水もある広い公園があります。川は公園に繋がっています。

妙正寺は1352年に堂を建てたのが始まりとされています。
670年以上の歴史があるお寺です。



妙正寺の正門。
こちらは昭和56年新築の門になります。



鐘楼堂は昭和38年に建て替えられました。

都内にいることを忘れてしまう程、緑に溢れています。



本堂は天保元年に火災によって消失。天保3年に再建されました。
昭和6年に改築。

木造の格式ある建築物。

1649年に徳川家光公が、鷹狩りの際に神前に武運長久を祈願し、徳川家の葵の紋幕と朱印地五石を寄進したことで、御朱印寺として有名になりました。

朱印地とは江戸時代に、幕府によって神社や寺院の領地として安堵された土地のこと。



本堂の中には本尊のほかに、安産に霊験ある鬼子母神像が祀られています。

この鬼子母神像は、かつて江戸城の大奥にあり、安産にとても霊験があると信仰されていました。

徳川家光公にまつわる話と、大奥にまつわる話。
江戸城から遠く離れた杉並区のこの地で、息吹を感じることが出来ます。

今でも葵の紋幕を掲げて法会が行われています。



妙正寺の目と鼻の先に、井口喜容家所蔵文書があります。

江戸時代の文書が500点以上あり、杉並区の有形文化財になっています。



井口家は村役を勤めており、江戸時代の高家支配の歴史を知る上で貴重な資料となっています。

長屋門も立派。



ウォーキング頑張りました。

歴史を知れば、住んでいる街も見え方が変わります。
これからも、少しずつ江戸にまつわる場所を周っていきます。



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江戸城【三回目】@東京都

2025-01-02 13:00:00 | 100名城
2025年1月2日

新春、あけましておめでとうございます。
今年もゆったり城めぐりに勤しみたいと思います。

さて、2025年の最初の城めぐりは江戸城です。
1月2日は一般参賀があり、天皇陛下がお出ましになる日。
ワタクシも産まれて初めて、参加致しました。

一般参賀の時は、江戸城の普段入ることのできないエリアに入ることができるので、お城ファンにとっては特別な日なのです。

大手町の駅に到着したのは朝の7時50分頃。天皇陛下のお出ましは10時10分頃なので、割と早めに到着したつもりでしたが、既に大大大行列!

後からニュースを見たら、今年は6万人が大集結したそうです。



快晴で空気が澄んでいて最高の朝です。
和田倉門側から行列に接続です。

水堀に逆さに映った石垣がとても綺麗です。



和田倉橋と和田倉門。

関東大震災によって和田倉門が大破し、渡櫓は翌年の地震で潰れてしまった為、現在は石垣のみが残ります。

和田倉橋は木橋で復元。
江戸城には幾つもの橋がありましたが、木造で復元しているのは、平川門とこの和田倉門のみ。



皇居正門より入っていきます。

通常は橋の前には柵があり、警備員も常時いてセキュリティが万全。近づくこともできません。

当然この先は立ち入り禁止エリアとなっています。



皇居正門から見た二重橋と伏見櫓。

この水堀と石垣も普段は見れない景色なので、しっかりと目に焼き付けます。



皇居正門は江戸幕府の時代には西の丸大手門と呼ばれていました。



櫓門の石垣。当時はこの石垣から土塀が少し伸びて、西の丸大手門の目の前に直線上に高麗門がありました。

本来は一つ目の門を抜けると90度折り曲げて二つ目の門があるので、防御の観点から見ると珍しい構造。



西の丸大手門も江戸時代から存在する、貴重な現存の門となります。

鉄板が貼られ、重厚感がある素晴らしい門。



二の丸大手門を抜けると、ぐるりと傾斜を上りながら緩やかなカーブを90度曲がると、先ほど写真に撮った二重橋へと繋がります。



今日の目当ての一つが、この伏見櫓。
鉢巻石垣の上には現存の二重櫓と渡櫓が鎮座。

立ち入り禁止エリアの為、伏見櫓をこんなに目の前で見ることは普段できません。

写真でしか見たことがなかった伏見櫓ですが、間近で見ると大きくて迫力があります。



江戸城は現代では皇居という名が一般的な名称となっていますので、初めて参賀に来た方の会話を聞いていますと、ここが城であったことを実感した方も多かったようです。

そうです!
ここは日本が世界に誇る天下の名城、江戸城跡なのです。



二重橋を渡った先にも櫓門がありましたが、現在は石垣のみが残っています。

美しい切込接の石垣。
石材一つ一つをよく見ると、角を削って立体的な石材となっています。

さらに表面には、すだれ仕上げという細かい線を入れて化粧仕上げなのが分かります。

さらに隅の算木積みにおいては、下になるほど規則的に幅広くなっています。

美的センスが光る、石垣技術の最終形態!


天皇陛下のお言葉を拝聴した後は、坂下門方面へと降っていきます。

そして、もう一つのお目当てが富士見櫓!

富士見櫓も普段は見ることが出来ません。
通常日でも東御苑からは見れるのですが、櫓の裏側しか見れないので、やはり皇居側から見るのが一番美しい。



明暦の大火で天守を失った江戸城において、天守の代用とされたのが富士見櫓。

江戸城の中心に位置していて、当時は富士山も見えたことから富士見櫓と名付けられたと言われています。



三層三階、高さ16mの木造現存櫓。
関東大震災で大破しましたが、旧材を使用して復元されました。

建築物のほとんどを失っている江戸城にとっては、とても貴重な遺構です。



富士見櫓の石垣は、城内の現存石垣の中で最も古い石垣の一つ。石垣の高さは15m。

出口のルートは桔梗門か大手門から出ることができるのですが、今回は大手門から帰ることにしました。

次の楽しみを残しておきたい性格です。
桔梗門はまた来年見たいと思います。


中之門跡。一際大きな石材を綺麗に加工した石垣。

瀬戸内海沿岸の白い花崗岩を使用しています。この石は大名が通る道や、天守台など特別な場所にのみ使用されています。

本丸に続く中之門が重要な場所だったのは明白ですね。



最後は大手門。
江戸城の顔となる特別な門です。

桁行22間(40m)×梁間4間2尺(7.9m)の巨大な渡櫓の櫓門。

残念ながら世界大戦の空襲により、江戸時代の建築物は消失。
昭和に復元されました。



大手門には珍しい石狭間があります。
鉄砲を撃つための狭間と呼ばれる穴を、土塀ではなく石垣を切り欠いて設置しています。

このタイプは大阪城や岡山城などでも見ることが出来ます。



大手門の石垣は1620年の改修時に伊達政宗が担当したと言われています。

その際に現在のような枡形虎口になりました。



新年のスタートには申し分ない程、満足した1日でした。

日本で一番巨大な江戸城は、行くたびに新しい発見があります。

ずっと近くで見たいと思っていた伏見櫓と、富士見櫓を見て改めて江戸城の素晴らしさを実感しました。

引き続き、今年も宜しくお願いします。



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滝の城@埼玉県

2024-12-29 17:00:00 | その他城
2024年12月29日

柳瀬川を挟んで埼玉県所沢市と東京都清瀬市の県境に位置する場所に、滝の城という城があります。

近くにカインズホームとベイシアがあるので、年末の買い物に行った際に近くの城で検索してヒットしたので訪問しました。

聞いたことがない城で何気なく行ったのですが、結論的には想像を超えた素晴らしい城でした。

サクッと30分程で周るつもりでしたが、興味深い遺構が多くて結局は2時間ほど滞在。


現在滝の城は、滝の城址公園となっていて球技場などがある地域の公園となっています。

車の場合は無料の駐車場もありますが、ワタクシが行った時は年末年始だからでしょうか、駐車場は閉鎖されていました。

電車でのアクセスは東所沢駅から徒歩25分ほど。



目の前を流れる柳瀬川に架かる橋は城前橋。

このような、ちょっとしたPRでも個人的にはとても大事だと思っています。



今回ワタクシは高速道路側の駐車場方面から入城しました。

ちなみに主郭部とされている場所は反対側なので、のんびり歩きながら向かいます。



公園に入るとすぐに池があります。
時間は約15時頃。ランニングや犬の散歩をしている方が数名いるのみで、とても静かです。

この辺りは田んぼもあって平地ですが、右手は森となっていて、約25m程の高低差があります。



森の中に整備された道があるので入ってみました。

先程までいた田畑の景色とは一変して、やや城っぽさの雰囲気が出てきます。



堀切のように尾根を分断したこの辺りには、滝跡があります。

左手が城郭部で右手は城外。
滝の城とは、ここを流れていた滝が由来とされています。



こちらも同じく、気になってしまう形状をした道。
公園整備で作ったのか道なのかは不明ですが、人工的に山を削って道を通しているのは明らかです。

そんな想像をしながら見て周るのが、中世城郭の楽しさ。

資料が少なくて未解明が多い故に、宝探しをしている探検家のように、ワクワクしてくるのです。


小高い丘のような山ではありますが、見ての通り切り落としたような急な崖が主郭まで続いています。

ここが中世の平山城と知って歩くと納得の造り。



公園の反対側に来ると一般道があり、この辺りが城跡とされています。



やや急な坂を登ると、道路がぐるりと周り混んでいます。

まさに道路の中心部が城の遺構となっていて、土塁と空堀になっています。

ちなみに、この道路は視界も悪く交通量が多いので注意が必要です。



坂を登りきると城山神社の入り口があり、そして滝の城の主郭の入り口となります。

派手なノボリ旗には北条家の家紋。



早速、二重堀が現れます。

滝の城は外堀、中堀、内堀の三重で構成された、まさに戦国時代の戦うための城です。


各曲輪を分断するように空堀が設けられています。



高低差は約2.5〜3mくらいでしょうか。

滝の城は関東管領の山内上杉氏家臣の大石氏が築城し、後に北条氏照もしくは北条氏照の家臣が居城し改修したとされています。



素晴らしい遺構が、状態良く残っています。
堀の形状が分かりやすく、草木が整備されているのも好印象!

草木が多くて遺構が分からない城もあるので、その点では中世の城をあまり行ったことがない方でも、楽しめるのではないでしょうか。

遺構の看板も各所に設置されているので分かりやすい。



堀底にも自由に入ることができるのも魅力!

写真では伝わらない迫力を、実際に遺構の中で間近に見ることができます。


  
土橋を渡り鳥居を抜けると、二の丸があります。



土橋から見た右手は、先程歩いていた空堀です。



土橋から見た左手は、二の丸をぐるりと空堀が囲んでいます。

こちらは三日月のように、Rを描いた空堀。
二の丸を囲む空堀が、滝の城の中堀となります。



左手は二の丸で、土塁がハッキリと残っています。

右手は本丸を囲む空堀。
こちらも綺麗なRを描いて、この空堀が内堀となります。



本丸跡には城山神社があり、一際大きな曲輪となっています。



城山神社の本殿には、可愛い猫ちゃんがお出迎え。



人懐っこく、とても癒されます。
ここで参拝している人を見守ってくれます。

滝の城の現在の城主は、この猫ちゃんかもしれません。



本丸からの景色。
遮るものが何も無く、東京方面を一望することができます。

目の前には天然の水堀となる柳瀬川が流れています。
また、生活や物資の流入の観点から見ても、水という資源は城造りおいて、とても重要です。



本丸を見た後は、少し戻って三の丸を目指します。

右手は本丸。もはや芸術。
石垣の城も当然ながら素晴らしいし芸術的ですが、滝の城のように中世の土造りの城もまた良き。



空堀を観察しつつ、土橋を進みます。
先にある少し小さな曲輪は馬出し。



馬出しからのショット。
空堀の前には本丸があり、発掘調査で本丸側に門の跡が発見されました。



発掘調査で本丸の空堀側に門跡が発見されたことで、馬出しと本丸を繋ぐ、木橋があったという仮説が浮上しました。

実際に見てみると、空堀の中でもこの場所だけ、少し堀底が盛り上がっているので、ここに何かがあったのは間違いなさそうです。



馬出しを超えると三の丸があります。
別名は茶呑み曲輪。

北条氏時代に下野、現在の栃木出兵の際はこの滝の城から出陣したとされていて、北条氏照が来た際はこの三の丸で家臣とお茶を楽しんだことから、茶呑み曲輪と呼ばれています。

戦いに明け暮れているイメージの戦国時代のホッとするような話。



三の丸の奥には大井戸跡があります。



三の丸からの景色。
崖の下には腰曲輪のような、東曲輪が見えます。

いつの間にか日が暮れ始めています。



続いて中堀を通って三の丸を囲む空堀を進みます。

写真のように、至る所に土橋があります。



右側が三の丸。

数週間前に行った、同じ北条氏照の居城だった滝山城を彷彿とさせます。

それを何気なく行った城で見つけてしまったので、テンションが上がってしまうのは当然です。



実際に東曲輪にも行ってみました。
横長の曲輪ですね。

ここに何があったのかは不明ですが、この東曲輪は中堀と内堀が交差する分岐点になるので、縄張りの位置付けとしてはとても重要だと思いました。


右手が三の丸、左手は本丸、正面は馬出し。

各曲輪を空堀で全体的に区切って、曲輪同士が堀切になるこの築城スタイルは北条氏らしさがあります。

この空堀は先程の東曲輪に繋がっています。

高低差もあり、堀底から眺めると3次元のようで素晴らしい!



この堀底を歩けるのが良いですね。
振り返っての一枚。

右手が本丸、左手が三の丸。
正面には夕暮れが近づく城下。



食い違いのように、うねった空堀。
張り出した曲輪から横矢で攻撃するのが狙いなのでしょうか。

そんなことを想像しながら堀を歩き進めます。自然の中で繰り出す妄想は最高のスパイス。



一番最初に通った土橋に戻り、社務所側の二の丸と本丸の内堀を歩きます。

高低差は4〜5mくらいはありそうです。



左手が本丸ですが、各曲輪が交互に跳ね出して食い違いになっています。



振り返っての一枚。
右手が本丸になります。

先ほどは堀底がフラットな地形になっていましたが、ここは堀底がキュッと狭まったV型の薬研堀になっています。



最後は霧吹きの井戸跡へ。

ここには龍が住んでいたという伝説があり、内容は割愛しますが、この地域では伝説に由来した地名となっているようです。

本丸の下では七世紀後半の横穴古墳も発見されていることから、神秘的なものを感じてしまいます。

今は、のどかで静かな時間がゆっくりと流れています。



夕暮れも近づいてきました。
柳瀬川から撮った一枚。

右手には滝の城があります。

工夫を凝らした滝の城は、小田原城、八王子城と同じく、豊臣秀吉による小田原征伐で落城し、その後廃城となりました。

その後表舞台からは消え、眠り続けていたことで滝の城には良好な遺構が残っていたのでしょう。
当然、地域の方々が守り続けてきたことも忘れてはいけません。

開発によって失われた城は、日本中に沢山あります、

そして、1925年に埼玉県の史跡として文化財指定されたことで、表舞台から消えた城は今の時代を生き、次の時代に引き継がれています。

5月には戦国滝の城まつりが開催されているようです。

発掘調査を何度もされて、これだけの遺構が残っている城なので、もっともっと幅広い方に知って欲しいと純粋に感じました。

コンパクトな城なので軽装備で行けるし、遺構がハッキリしているので分かりやすいので、中世城郭にあまり行ったことがない方でも楽しめます。

今回、時間の都合で外堀周辺を周ることが出来ませんでした。

北条氏の城だと結論づいた理由には、外堀で障子堀が見つかったことが起因しています。
まさに北条氏を代表する築城術です。

次は、もっと幅広い範囲で散策したいと思います。

年内最後の城巡りは最高の形で終わることが出来ました。




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滝山城@東京都

2024-11-30 16:30:00 | 続100名城
2024年11月30日

午前中に八王子城を登城し、お昼を食べてか次なる城へ移動。

続100名城で国指定史跡の貴重な城郭、滝山城です。
同じ八王子市に位置します。

北条氏照が八王子城を築城する前に、滝山城を居城としていたとされています。

滝山城は武田氏と戦いの舞台にもなったと記録されています。

戦国時代を象徴する北条氏は、神奈川、東京、千葉、埼玉は当然ですが、群馬あたりまで勢力を伸ばしていた為、上杉や武田など名将と戦いを繰り広げていました。

それゆえ、北条氏が造る城は実践的で、まさに戦うための城。

今では各地で貴重な遺構として残り、城マニア達の心を掴んでいます。



滝山城入口の前までバスが出ています。

八王子城からは車で約30分程。
是非、八王子城とセットで訪れてもらいたい!

麓には無料の駐車場もあるので、大変便利です。



滝山城は北条氏照が永禄10年の1567年頃までに築城して、移転したと近年の研究で考えられています。



大手口から登城しますが、さっそく中世の山城のテイスト。

山を掘って造成したような、狭い道が続いています。



道の途中は食い違いになっているのも、戦国時代らしい造りといえますね。

道の左手は小宮曲輪、右手は三の丸。



小宮曲輪の空堀。
序盤から素晴らしい遺構を見ることができます。



右手の崖の上には小宮曲輪。
高低差の大きな空堀なのが分かります!



小宮曲輪。
曲輪の名称から、北条氏照の家臣小宮氏が活躍していたとされている。



小宮曲輪には土塁などを見ることができます。 

綺麗に草も刈られているので、形状の起伏が分かりやすいです。
 


三の丸の入口。
ここには枡形虎口跡がありましたが、残念ながら車道の整備によって現在は消滅してしまいました。

そして、小宮曲輪のように規模の大きな空堀で三方を囲んでいます。

ちなみに、当時はもっと大きな空堀であったとされていますが、現在でも高低差15mという圧巻の規模。



さらにら大手口の道を先に進むと、食い違いなった道と堀が現れます。

これは後ほど、上からの写真を貼ります。



続いて見えるのは千畳敷という曲輪。
大きな敷地の曲輪が広がります。

現在は芝生が敷いてあり、ファミリーが各々の時間を過ごしていました。



千畳敷から見た先ほどの食い違いの道。

上から見ると道の両脇が堀となっていて、土橋になっています。

ここからは横矢を仕掛けることができます。
かなり緻密に計算された城郭構造をしていますね。

鈴鹿サーキットのようにS字が続きます。



こちらは千畳敷脇にある土橋。
北条氏築城術の一つでもある、障子堀のようにも見えます。

当時はもっと堀が深かったと思われます。

普通であれば、ただ土が盛り上がってるだけで気にも留めない光景ですが、450年以上の時を経ても、この戦国の遺構を目の前にできているのは、ある意味では奇跡なのかもしれません。



千畳敷の向かい側には二の丸があります。

二の丸を囲む空堀は、小宮曲輪や三の丸を遥かに超える規模!

これも後ほど二の丸の周りを歩いた時の写真と共に解説します。


更に本丸を目指して先に進むと、二の丸と中の丸を分断する堀切を見ることができます。

滝山城は各曲輪が堀切や永遠に続く横堀で独立していているのが特徴的。
歩いていて全く飽きることがありません。



右手には中の丸、左手は旧斜の崖になっています。

中の丸は本丸の次に重要な曲輪とされていたので、堅牢に造りで防御機能を高めています。

土塁の残り方から、この場所には櫓門があったと推定されています。



中の丸は広大なスペース。
70m×100mの曲輪には当時の政庁があったそうです。

奥の建物には続100名城のスタンプが置かれています。



中の丸からの景色。
多摩川が流れており、このスポットから下を見ると、幾つもの腰曲輪が形成されているのが分かります。

北の防御も抜かりなく強化されています。



中の丸から、いよいよ本丸に入ることができます。

最後の難関は中の丸と本丸を分断した堀切に架けられた木橋を渡ること。



木橋を渡ると食い違いの枡形虎口。
最後の最後まで執拗以上に守りに忠実な設計。



本丸は土塁で囲まれていています。
中の丸はよりは、やや小さく細長い形状をした曲輪。



紅葉がとても美しい。



11月30日でしたが、暖かくこれが戦国を生き抜いた城であることを忘れてしまいそうな、のどかで静かな時間が流れています。



本丸の角には井戸があります。

底は見れませんでしたが、石積みでしっかりと造られているのが分かりました。



本丸の北側。
本丸には明治45年に創建された霞神社があり、静かにこの地を見守っています。



本丸からの景色。
滝山城は標高169mの東西に伸びる加住丘稜に築かれました。

標高が低いので、気軽に登城できるのがポイント。



帰りは本丸から階段で降りることができます。
おそらく神社の創建時か、後の時代に造られたと思われる階段。



本丸からの階段を下ると、滝山城名物の大堀切に出ます。

奥には先ほど渡った木橋が見えます。



この堀切は圧巻!
15m以上はありそうな、巨大堀切。

調査で当時は今よりも、もっと深い堀切だったことが判明しています。

さすが最後の砦となる本丸を守る堀切です。


続いて、また来た道を戻って、二の丸の周りを歩くことにします。

さっそく空堀と土橋を見ることができます。
写真の通り、右手も左手も空堀になっていて、その間が道になっています。

これが土橋ですね。



二の丸の周りは空堀と土橋だらけで、かなり防御体制を敷いているのが分かります。



空堀の右側が二の丸。
この空堀もかなり高低差がありますね。

しかも、木があまり生えて無いので、遺構の形が綺麗に見えるのもポイント。



南馬出から二の丸に入ることができます。
当然左右には空堀があり、土橋を渡ることになります。

どんなに大群で攻めてきても、この狭い土橋を渡ることになれば、防御が容易くなります。

攻めにくく守り易い。これが戦う城のセオリーです。



土橋の先は二の丸です。

写真は撮っていないのですが、二の丸周辺には多くの馬出があり、特に南馬出と大馬出は連続していて、鉄壁の守備ゾーンな気がします。



大手道に戻る道も、左右には空堀があり、土橋を渡って戻ることになります。

特に右手の二の丸を囲む空堀の規模は、レベルが違いすぎるほど凄いです。

実際に歩いてみて、どこから攻めてきても対応できるような設計になっている気がしました。



二の丸を繋ぐ土橋からの一枚。
右側が二の丸。

堀底からの高低差を見ると、その巨大さがお分かり頂けると思います。



右手は二の丸。
左手は最初に通った大手道です。

草が刈られているので、本当に見やすく素晴らしいです。
今でも埋もれた城は多くありますが、整備してくださっている方のおかげで、現代でも城は輝き続けます。

そして、大手道から登城した道を戻って下山です。


滝山城の戦として有名なのは、1569年の滝山合戦。

武田信玄と交戦して三の丸あたりまで攻め込まれましたが、2000人の兵で守ったという話も残っています。

しかし滝山合戦を機に、より堅固な八王子城を築城したとも言われています。

八王子城への移転によって、滝山城は廃城となりますが、ある意味では廃城によって綺麗な遺構が残っているとも考えられます。


そして、何よりも素晴らしいのは滝山城の保存会の方々が綺麗に整備をして守り続けていること。

東京にもこんなに素晴らしい中世の城が残っています。

先日行った本佐倉城も素晴らしかったが、滝山城も非常に魅力的な城。

いくつかの登城ルートがあり、時間の都合上ワタクシも全てを見ることはできませんでしたので、改めて行く楽しみができました。

今回は北条氏照の居城を日帰りで2城周りました。
八王子城も滝山城もテイストが違いますが、間違いなく東京に残る名城です。


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八王子城@東京都

2024-11-30 12:00:00 | 100名城
2024年11月30日

11月最後の土曜日は八王子城に遠征。 
戦国時代を象徴する、関東屈指の山城です。

今日は八王子城を含めた2つの城に行く為、今回は車で向かいました。

公共交通機関でのアクセスは中央線の高尾駅からバスが出ています。

八王子城を築城したのは北条氏康の三男となる北条氏照。
関東全域を制覇していた北条氏の本城となる小田原城と並ぶ、北条氏にとって重要拠点となっていたのが八王子城です。

八王子城は日本100名城で国指定史跡ですが、八王子城に関する資料が圧倒的に少なく、残された遺構と地道な発掘調査によって徐々に城の実態が解明されてきました。



八王子城は戦国時代末期の天正期に築城されたとされています。

戦国晩期に築城したこともあり、山城の最高傑作ともいわれています。

麓には八王子城跡ガイダンス施設があり、八王子城や北条氏についての資料を見ることができます。

こちらで少し知識をつけてから登城すれば、より楽しむことができると思います。



ちょうど紅葉シーズンだったので、イチョウも綺麗に色付いています。

八王子城は戦闘時に要塞となる要害地区と、城主の生活の中心となっていた居館地区、城の城下町となる根小屋地区に分かれています。

巨大な城でしたが、落城時はまだ未完だったとも言われています。



まずは、要害地区に潜入。
要害地区は標高460mの山に築かれた中世の山城タイプ。

入り口は無料の駐車場からすぐの所にあります。

こちらは新道で当時のルートとなる殿の道もあります。

これは後から知ったのですが、そちらのルートは堀切や石垣が見ることができるそうです。
これは今後の宿題でまた登城しようと思います。


細く狭い道を進んでいきます。

当時の遺構なのかは不明ですが、石垣も少し見ることができます。



最初に見えるのは金子曲輪。
北条氏家臣の金子家重が守っていたとされています。


本丸に続く道の途中には柵門跡があります。
平坦の地にあり、門跡の先は右手と左手に別れています。

今は、登山途中の休憩場となっています。


柵門跡を抜けると高丸が現れます。



高丸の先端は崖になっていて、下の曲輪の三方を見渡すことのできるように、突き出したような作りになっています。

防御機能の高い曲輪です。



八王子城はどこまでが天然の要害で、どこまでが人の手によって造られたのか、判断するのは難しいです。

しかし、間違いなくゴリゴリの戦う為の城であることに間違いありません。



さらに本丸を目指して、険しい道を進みます。



関東平野を一望できる、八王子城で一番の絶景スポット。



遠くには大都市、東京の高層ビル街が見えます。

八王子城は豊臣秀吉による小田原征伐の1590年に落城しました。

開戦やむなしの状態で、どういった想いでこの景色を見ていたのでしょうか。



デジカメでズームを使えばスカイツリーまでバッチリ見えます。

晴れた日は特に絶景です。



いよいよ、本丸が近くなりました。

右手には小宮曲輪、左手は松木曲輪、正面の階段を上がると八王子神社があり、その裏から本丸に上がります。



樹齢何年かは不明ですが、太い杉の木が並びます。
木は何も語りませんが、ここで繰り広げられた歴史も見てきたはずです。

八王子城の戦いでは豊臣軍となる前田利家、真田昌幸、上杉景勝の15000人の軍勢で攻め込まれ、1日で陥落しました。

本丸が近いこの辺りは激戦となった地なので、変わらぬ佇まいで八王子城落城の時も見ていたのでしょう。



東屋の裏手にあたる、三の丸にあたる小宮曲輪に向かいます。

狩野一庵が守っていたとされる曲輪。

小田原征伐の際に上杉景勝の軍勢の奇襲にあったことで落とされたとされています。



小宮曲輪を後にして、本丸に向かいます。



途中、本丸に向かう細い道で、神秘的な木があります。

ジブリに出てくるような、根本が洞窟のような穴になった木。



標高460mの本丸に到着です。
城の中心で最も重要な曲輪。



要害地区全般に言えるのですが、各曲輪の平地部分が小さいのが特徴的。

何百、何千の人員配置は難しそうに思えたのですが、どうやって戦ったのでしょうか。



続いて、松木曲輪。
中山家範がこの辺りを守備していて、奮闘しました。

松木曲輪を攻略した前田利家は、その武勇を惜しんで助命を申し出たと伝えられています。

そして、子息は徳川家康に仕えて、水戸徳川の家老になったそうです。



紅葉が見頃ということもあってか、多くの人が訪れていました。



一度、登城したルートで下山。
要害地区の次は居館地区に向かいます。

看板には古道・御主殿跡の看板があります。


山城の要害地区に比べて、居館地区は平らな場所に展開されています。



一つ目の橋を渡ると大手門跡に出ることができます。



一つ目の橋を渡った先に、堀切のように通路を切断した部分に架けられた橋が見えてきます。

本丸などが置かれている要害地区よりも、分かりやすく城の防御機能を見ることができます。



大手門跡の前には広めの空間があります。
昭和63年の発掘調査で門の礎石や敷石が見つかっています。

現在は埋め戻されています。



周りは土塁で囲まれていて、スタジアムのような臨場感があります。

大手門があったこの場所が居館地区に向かう八王子城の正面口となります。



道は綺麗に整備されていています。
この大手道を当時の武士たちも歩いていたことでしょう。

城主であった北条氏照も、歩いていたのだと思うと感慨深いです。



大手道の先には曳橋が見えてきます。
御主殿跡に架けられた大きな橋。

当時は簡素な木の橋が架けられていて、戦の際は橋を壊すことで主郭を分断する役割がありました。


橋を渡ると北条氏照の館があった御主殿跡に入ることができます。



関東では珍しい石垣。

中世城郭から近世城郭に移り変わるタイミングくらいの城なので、主郭部だけは石垣が使用されています。


入り口の突き当たりには少し大きな石材が積まれており、鏡石の原型を見ることができます。



無骨な野面積み。
主郭部は一段高い場所にあり、約9mの土塁で囲まれていて、腰巻き石垣と呼ばれる下部のみに積まれた石垣。


石垣が高く跳ね出している場所には、礎石が4ヶ所発見されていることから、櫓門もしくは物見櫓などの建築物があったとされています。



階段を登り、さらに90度曲がると主殿に入るための虎口が現れます。



階段の幅は約5m、踏面は1m、蹴上36cm。
ゆったり登れる階段は、現代でいうところの介護施設くらいバリアフリーに近い構造。

全面に石が敷き詰められているのも特徴的です。



当時をイメージした冠木門を抜ければ、御主殿です。



平成の発掘調査で、北条氏照の住まいだったとされる主殿、会所、庭園、敷石通路、水路などの遺構が発見されました。

建築物の礎石は、現在も見ることができます。
→礎石はレプリカのようです。



主殿の周りは土塁で囲まれています。
大きなスペースで、現在は広場となっています。



土塁の上からの曳橋。



造作物の上には会所の間取りなどが表示されていて、今はなき建築物を想像することができます。

建築物を復元できなくても、こういったプロモーションは凄く重要だと個人的には考えています。


帰りは曳橋の下を抜けるルートで帰ります。

そして、八王子城の名所なのが御主殿の滝。
崖になっていて、小さな滝が奥にあります。

天正18年、豊臣秀吉の軍勢によって落城した八王子城ですが、御主殿にいた女性や子ども、将兵達は滝の上で自刃し次々と身を投じました。

領民も含めた3000人が、八王子城で共に籠城していました。

滝から流れる川は、三日三晩赤く染まったと伝わっています。

戦国真っ只中の八王子城には、そんな悲しい歴史があります。



曳橋下からのショット。
素晴らしい4段に連なった石垣。

山城の要害地区とは一転して、近世城郭の姿を一層感じることができます。



御主殿周りの石垣は、復元して積み直したものですが、中には400年以上前のまま土の中に眠っていた箇所もあり、状態が良好なものはそのまま生かされています。



八王子城主の北条氏照は小田原合戦の際に、小田原城で籠城しており、八王子城の陥落の知らせは降伏の決め手となったとも言われています。

そして小田原城開城後に、北条氏政と共に切腹し、名家の北条家は滅亡します。

先の滝での自刃の話も含めて、悲しい話ではありますが、そもそも城とは軍事施設。

日本の文化として今は観光スポットとなっていますが、生死をかけた戦いの為に造られたのが、戦国時代における城の役割です。

後に城は権威の象徴や政治の中心地と役割が時代と共に変化していきます。

八王子城の落城は、同時に戦国時代に終わりを告げるものでもありました。

まだまだ謎多き城ですが、激動の歴史の中心となる重要な八王子城は、都内からのアクセスも良好なので、是非攻略して頂きたい城です。


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