昨日は国宝犬山城と岐阜城に行き、二日目は名古屋城に移動。
しかし、昭和に天守と共に再建。
天守の反対方向には表二之門も見えます。
表ニ之門の先には東南隅櫓。
表ニ之門の先には巨大な枡形虎口があります。
現代の建築基準では耐震上問題があると判断された為、現在閉鎖中の大天守と小天守。
二層の小天守。
天守の東から北へ抜ける門は不明門。
現在、石垣の修復工事も行われています。
そして、これが大天守を支える石垣!
素晴らしい!の一言。
どの角度から見ても美しい。
不明門の先には、広場に石材が転がっています。
西北隅櫓を見るために、名古屋城を一度退城して水堀の周りを歩きました。
こちらも石垣修復中です。
これはこれで貴重なシーンを見れた気がします。
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途中に小牧山城、墨俣城、清洲城など様々な城跡があるのですが、二日目は名古屋城一択と決めておりました。
名古屋城はそれだけ時間をかけてゆっくり周る価値があります。
岐阜羽島の駅近くに宿泊し、車で約50分程度で到着です。
今まで何度も行くチャンスはあったものの、利便性が良いから逆にいつでも行けると後回しにしていました。
しかし、近い内に天守は解体されて木造復元される予定。
現在、耐震の問題で既に天守内部には入ることができません。
城郭建築の最高到達地点と言われる名古屋城の現在の姿を、この目で焼き付けておきたいと思います。
場内には有料の駐車場があり、今回は三の丸の駐車場に停めました。
名古屋城の三の丸は跡形もなく駐車場となっています。
名古屋城正門から入城します。
元は藩主や一部の家臣しか通ることを許されなかった格式の高い門でした。
現在チケットはここで購入しますが、この門は枡形になっていて、本来は正面にもう一つ門があり、枡形虎口で折れ曲がってこの門を通過する構造でした。
明治に江戸城から移築して再現したものの、残念ながら空襲により焼失してしまいました。
しかし、昭和に天守と共に再建。
RC造での復元でしたが、名古屋城に訪れる方のテンションを上げる起爆剤となっています。
復興された門とはいえ、やはり城門があると無いとでは雰囲気が180度変わります!
復興された門とはいえ、やはり城門があると無いとでは雰囲気が180度変わります!
天気にも恵まれ素晴らしい一日の予感。
正門を抜けるとすぐに本丸が斜め左手に現れます。
正門を抜けるとすぐに本丸が斜め左手に現れます。
出だしから城郭建築の最高到達地点と呼ばれる所以を見せつけられます。
重要文化財の西南隅櫓と奥には名古屋城天守も見えます。
徳川家康が天下普請を命じて造らせ、以後尾張徳川家の居城だった名古屋城。
徳川の凄さを感じることができるでしょう。
天守の反対方向には表二之門も見えます。
まさに芸術というべき建築物と石垣。
華麗に加工された打込接。
隅の算木積みは昨日訪れた岐阜城とは全く異なります。
総石垣の城を日本で初めて造った織田信長の時代から、わずか40年で石垣の技術は急速に進化しました。
表二之門は天守に向かう門です。
表二之門は天守に向かう門です。
1612年の建築物で、重要文化財に登録されています。
表ニ之門の先には東南隅櫓。
当然こちらも重要文化財で、1612年に表ニ之門と一緒に建築されました。
西南隅櫓と同様、二層三階で出窓の下には石落としがあり、唐破風も施された防御機能と美的センスに優れた櫓です。
表ニ之門の先には巨大な枡形虎口があります。
櫓や土塀などの建築物は残っておらず石垣のみが残っていますが、当時は四方を囲んで敵が侵入した際に十字砲火で迎え撃つことが可能です。
これも信長の安土城から始まり、ここが近世城郭の完成系と言えます。
枡形虎口の先には復元された本丸御殿があります。
枡形虎口の先には復元された本丸御殿があります。
中に入りたかったものの、ものすごい行列のため断念。
※写真に人が映り込まないように、いつも努力しています。
人がいなくなるのを待つために何十分もその場にいることもあります。
本当は名古屋城は、観光客の方でいっぱいです。
大天守と小天守、そして本丸御殿。
これが本来あるべき江戸期の名古屋城の姿。
本丸御殿は城郭建築で天守と共に国宝第一号になりましたが、残念ながら天守も本丸御殿も空襲で焼失。
しかし、名古屋城は大量の写真と資料が残っているので、本丸御殿は木造で復元されました。
本丸御殿は政治を行う場所であり、藩主の住居です。
現代の建築基準では耐震上問題があると判断された為、現在閉鎖中の大天守と小天守。
二層の小天守。
名古屋城は大天守だけでもかなりの迫力ですが、小天守と連結しているので、より重厚感が出ています。
青空に映える大天守と小天守。
青空に映える大天守と小天守。
現在、木造での復元プロジェクトが進行中。
ちなみに、復元プロジェクトの求人が以前に出ていたのでワタクシ応募しましたが、定員に達した為、夢実現ならず。
天守の東から北へ抜ける門は不明門。
調べたところ、大奥に繋がる門だったらしく、常に鍵がかけられていたそうです。
開かずの門だったとか。
なるほど。奇妙な門の名前の由来が何となく分かった気がします。
現在、石垣の修復工事も行われています。
伴って立ち入り禁止エリアもあります。
堀に並べられた石垣達。
修復個数はなんと4000個!
1日に多くても6個ずつのペースでしか積めないため、気の遠くなる地道な作業です。
しかし、過去の産物を未来に繋げる重要で誇り高き工事です。
本当に頭が下がります。
そして、これが大天守を支える石垣!
素晴らしい!の一言。
扇の勾配と呼ばれる、緩やかな傾斜から垂直に立ち上がっていく石垣は芸術です。
熊本城でも同様に見られるこのダイナミックな石垣。
熊本城を築城した加藤清正がこの天守の石垣を担当しました。
清正流と呼ばれる芸術的な石垣は遠い地の名古屋でも存分に発揮されています。
清正流と呼ばれる芸術的な石垣は遠い地の名古屋でも存分に発揮されています。
名古屋城天守の延べ床面積はなんと4564㎡。
姫路城の2倍!
五層五階の層塔型。天守の高さは35.85m。石垣を含めると48.27mのビックスケールな天守です。
高さもありますが横幅もあり、こんなに図体の大きな天守は現存、復元天守含めて他にないでしょう。
さらに軒唐破風や千鳥破風など建築物としても美的センスもがあり、金の鯱は権威も象徴でもあります。
どの角度から見ても美しい。
国内最大級ゆえ、江戸時代に自重に耐えきれず石垣がはらみ、天守が傾いてしまいました。
わずか2年数ヶ月で築城した名古屋城ですが、天守の修復には3年を要しました。
その際に、荷重のかかる本瓦葺きから銅瓦に変更されたと言われています。
屋根が緑色なのは、銅が時と共に変色したからで、もともとは黒色の瓦です、
年季が加わった緑色の銅瓦は名古屋城のイメージカラーとしても定着しています。
名古屋城は一回では周り足りず、もう一周しました。
現在の東二之門は元々二之丸にあったものを移築。
高麗門で1612年の貴重な門です。
現在この一帯は石垣工事中で立ち入り禁止も多いため、賑やかな名古屋城も時が止まったかのように静かで逆に落ち着くスポットでした。
門を抜けると清正石が現れます。
巨大な鏡石。
この石は加藤清正が運んだと言われてきましたが、黒田長政がこの門の担当だったことから、加藤清正が運んだ石ではないと現在は考えられています。
それでも、この石は清正石です!
不明門の先には、広場に石材が転がっています。
皆さん天守に夢中でスルーしていますが、この石材達は凄く価値あるもの。
名古屋城は空襲で焼失して、現在鉄筋コンクリート造で復元されています。
その際に天守の礎石を全く同じ位置でこちらに移動したそうです。
あの巨大で高層の木造建築物を何百年と支え続けた石材。
よく見るとちゃんと木材が建っていた形跡も残っています。
この礎石の数には驚かされました。
最後は西北隅櫓。1619年に建てられた現存の櫓。
見た瞬間、櫓とは思えないほど大きさを感じることができますが、本丸からでは裏の姿しか見ることができません。
西北隅櫓を見るために、名古屋城を一度退城して水堀の周りを歩きました。
快晴だったので、水面にも綺麗に映っています。
水堀の幅が広いので、これでは敵も攻め辛いこと間違いなしです。
非の打ち所がないほど綺麗な櫓。
品があり、尚且つ重厚感もある素晴らしい現存の建築物です。
西北隅櫓は高さ16.3m。
桁行、梁間方向それぞれ8間×7間。
他の城の天守を凌ぐほどの大きさ!
こちらも石垣修復中です。
はらんでしまったらしく、足場を組んでの作業。
デジカメを拡大すると隅石も石垣内部の構造もよく見えました。
これはこれで貴重なシーンを見れた気がします。
名古屋城があってこその、名古屋の街。
空襲で焼失したものの、復元して元の姿を取り戻しました。
そして、近いうちに江戸期と同じ木造天守に生まれ変わります。
戦うための城から、政治のための城となり、今では市民や観光のための城へと変化してきました。
我が国の文化の象徴となる城は、次の世代に受け継がれていきます。
そんな努力も見ることができました。
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