青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
子どもは日本国の宝|私たちは【子どもをいじめと虐待、性犯罪から守る】為にあらゆる方法を講じ解決にあたります




日本の政治家の中で、死に物狂いで日本の将来を考え、この沈みかかった日本丸をいかに立て直すか、実際党首の民主党代表鳩山由紀夫総理と韓国のイ・ミョンバク大統領とを皆さん比較してください
見た時点で器の違いがはっきり判りませんか。
極貧生活から這い上がってきた大統領と、生まれたときから何不自由なく親に甘えて育った首相と、基本的には国民に対しての意志の違い、それに決断力。私は今の政治家に一番残念なのは、今の子供社会が携帯による性犯罪の急増、それによってどれだけの子どもが被害に遭っているか想像もつかないだろう。もうすでに小学生までが性被害ばかりではなく援助交際それに子どもを食いものにする多くの大人たち。韓国では性犯罪に対しては厳しい法律によって取締りをしているのに対して、日本は何故か甘すぎる。やはり韓国のイ・ミョンバク大統領のように、性犯罪の常習者にホルモン注射などで「化学的去勢」を行うことを定めた関連法改正案、加重処罰する場合は最大で懲役50年になり、罰則を大幅に強化。このように厳しい法律を何故、創ろうとしないのか。いい加減に目を覚ませ。日本の未来がかかっているのだ。今回そういう意味で、韓国のイ・ミョンバク大統領を取り上げました。是非、皆さんに読んで頂き、本当に国民のことを考える政治家はこうでなければいけないと、私は思っている。

李 明博大統領は、韓国の第17代大統領。日本、大阪府出身

現代建設社長、国会議員(ハンナラ党)などの要職を歴任した後2002年にソウル特別市市長に就任し、都市改造政策等を行った。

2007年12月19日施行の大韓民国大統領選挙に出馬し、対立候補を圧倒的大差で破り、悲願の当選を果たした。

2008年2月25日、第17代大韓民国大統領に就任し、5年間の政権を正式に発足させた。


1941年、李忠雨を父親、蔡太元を母親とし、七人兄弟の第五子として現大阪市平野区加美南3丁目の島田牧場の社宅に生まれる。一家は終戦直後の1945年10月に父親の故郷である浦項へ引き揚げた。

その当時、高等学校への入学は限られた少数の特権であった。李 明博のような大家族の場合、一般的に長男が家族の希望のような存在であった。そして李明博も高等学校への進学を諦め、兄の教育費を稼ぐために母親の食品売りを手伝うつもりであった。しかし、定時制の同志商業高等学校に進学し奨学金の給付を受けながら昼間は仕事、夜は勉学に励んだ


高校卒業後、ソウルの梨泰院に家族全員で移った。そこで李は「金がなくて中退したとしても、高卒よりは大学中退のほうがましだ」と大学受験を決意、清渓川の古本屋で参考書を買い受験勉強を始めた。

市場で家業を手伝いながら、夜は当時学生の間で流行した眠気覚ましを呑んで勉強した結果高麗大学校商学部経営学科に合格肉体労働をして学費を貯め、1961年に進学した。大学在学中に兵役を務めたが、気管支拡張症により除隊となった。

1963年に高麗大学校商学部学生会長になった翌年、同大学校総学生会長代行となる。


1965年に大学を卒業した後は、学生運動の経歴が祟って就職難に陥るが社員が数十人という零細企業だった現代建設の面接まで辿り着いた。しかしそこでも経歴に難色を示されたが、なんとか入社を勝ち取った。赴任先のタイで強盗から金庫を命がけで守ったことで鄭周永に気に入られ、李 明博の薫陶の下、ビジネス界でらつ腕を奮っていく

1965年、現代建設はタイのパタニ・ナラティワート高速道路の契約を受注した。520万ドル規模のこのプロジェクトは韓国初の海外建設事業である。

現代建設におけるパタニ・ナラティワート高速道路の成功的完成は韓国の建設産業がベトナムや中東のような新しい海外市場の開拓の効果を促進させるようになる。


1960年代のベトナム建設需要の停滞により現代建設は中東地域へ目を向けることになる。アラブ造船・修理所、バーレーンのディプロマットホテル「20世紀の偉大な歴史」とも言われるサウジアラビアのジュベイル工業港プロジェクトなど積極的に国際的なプロジェクトを手がけることになる。

当時韓国の建設企業は100億ドル以上のプロジェクトを受注し、石油危機による国家的危機を克服することに大きく貢献した。

李が入社した1965年には90人位しかいなかった現代建設の従業員は、彼が会長職を離れた27年後には16万人規模の大企業として成長した。

27年間勤めた現代グループを離れた後、政界に進出することを決めた


29歳で取締役、36歳で社長、47歳で会長と出世街道を驀進し、現代建設を韓国のトップ企業に押し上げた経歴から、政界入り以前より既に経済人として伝説的な存在であり、「現代の韓国を創った50人」に選ばれるなど、韓国におけるサラリーマン神話の代表的人物とされている。

極貧から身を起こし高校時代より5時間以上寝たことはなく1日18時間働く猛烈人生は何度もドラマ化された他、現代建設を退職し政界入りする際に出版された自叙伝の日本語訳は2008年10月に「李明博自伝」として新潮文庫より刊行されたが、95年の出版以来韓国内では200版近く版を重ねるベストセラーとなっている。


1992年現代建設を退社。第14代総選挙で当選し、国会議員として政界入りした。続く第15代総選挙にも出馬しこの時盧武鉉を破って当選している。しかし、の選挙参謀による選挙法の違反で700万ウォンの罰金が科される前の1998年に議員を辞職し、失意の中で渡米。ジョージ・ワシントン大学客員研究員として1年間を過ごした。大学で参加した演習で「環境」の重要性に気付き、知人に誘われて訪れたボストンでの都市再生工事から、後の清渓川復元工事をはじめとする、一連の都市プロジェクトのヒントを得たという

帰国後一時は金融界への進出を試みたが、恩赦によって政界復帰が可能となり、2002年のソウル特別市市長選で当選した。しかし、選挙活動を早期に開始したことで罰金を科される。ソウル市長在任中は公共交通システムの再編ソウルの森の造成といったインフラ整備を大々的に進めた

中でも特筆されるのが、ソウルの中心部を通り抜ける清渓高架道路を取り除くことで、市民の大切な憩いの場「清渓川」を復元したことである。

李 明博の強力なプロジェクト推進によって、ソウルの中心部を流れる小川をみることができたさらに、清渓川は市民の憩いの場だけではなく、生態系の宝庫となった


李は2007年12月の大統領選挙で48.7%の得票で大統領に当選

2008年2月25日に第17代大韓民国大統領に就任就任式には、外国からの招待客や一般市民ら約6万人が参加。日本からは福田康夫首相のほか、中曽根康弘元首相、森喜朗元首相、重村智計早大教授らも出席した李は大統領就任式で、経済の回復を始めとして韓米関係の強化や北朝鮮との交渉を誓った。李は特に「グローバル外交」を目指すと共に隣国である日本、中国、ロシアとの更なる協調を追求すると断言した。