大学の学位を取得した難民はカクマでのわずかな雇用機会のことを考え、これからどうなるのだろうと自問している。
カクマ・キャンプで奨学金プログラムの恩恵を受けた難民は、教育を受けた見事な証を手に入れたものの、その知識は難民キャンプでは基本的に役に立たないと言う。
人道支援団体は資格のある者に、カクマ・キャンプで高等教育を受ける特別な機会を与える。ウィンドル・トラスト・ケニア(WTK)とイエズス会難民サービス(JRS)は条件を満たす学生に、わずかではあるが奨学金の機会を与える。外部からの資金提供者はカクマを訪問して、これらのNGOを通じて奨学生を支援できる。例えば、イタリアの支援団体カリタスはJRSを通じて奨学金を送っている。
JRSは本来、南アフリカ大学(UNISA)を通じてカクマに拠点をおく遠隔教育を提供することに重点を置いているが、ナイロビでの直接の勉強も手助けする。UNISAの遠隔教育プログラムは公共行政、開発行政、経済学、社会学、心理学、教育、企業経営、あるいは地域保健などの学位課程のコースを学ぶ機会を与える。
ウィンドル・トラスト・ケニアは、ナイロビでの学位課程及びナイロビとイギリスでの修士課程のために奨学金を提供している。また教育を受けるための再定住を通して、カナダの大学の学位課程プログラム、WUSC(ワールド・ユニバーシティ・サービス・カナダ)プログラムとも連携している。
奨学金プログラムに詳しい学生によると、奨学金プログラムの目的は1)個人の知的探求を満たすため、2)難民社会に力を与えるため、3)個々の難民が自立できるようにするため、4)難民が、故国に戻るとき、自国の発展に貢献できるように技能を高めるためだ。
KANEREはカクマで高等教育の奨学金を得た3人の卒業生に会ったところ、彼らはその恩恵とフラストレーションについて話をしてくれた。
*****
ビレイにはUNISA(南アフリカ大学)の構内でインタビューをした。彼はここでフィットネス運動をしている。奨学金での勉強は1年前に終えているが、UNISAの構内は彼にとって「第2の故郷」なので、ここで本を読んだり運動をしたりしている。「僕はこの大学構内の一部になっている」というほどだ。
ビレイは奨学金申請が認められて、2002年に企業経営と経済学の勉強を始めた。奨学金の支給はJRSとイタリアのNGOカリタスから受けた。教育を受ける前は、小さな事業をしていたが、勉強に集中するため仕事は辞めた。午後はIRC成人教育プログラムのビジネススキルの教師を続け、地元でビジネスをしている人達にアドバイスをしていた。
UNISAの遠隔教育プログラムを卒業してからは、毎月3000ケニアシリングの報奨金でビジネススキルの教師を続けた。仕事の機会はきわめて少ないと彼は言う。 「(カクマに)雇用市場はない。政策上、難民が給与労働者として採用されることはあり得ない。だから僕の頭脳は変わったのに、生活水準に変化はない」
「僕の強みは、教育レベルが変わってアップグレードされたことだ。更に教育を受ける道も開かれているし、コミュニケーション能力といった僕のスキルは、いろいろ役に立っている。しかし僕の不満は、物質的利益がなく、人生は変わらず、精神的に落ち込んでいることだ」
改善するためには、人道支援団体はやる気をそぐような難民キャンプの環境を再構築するべきだと、ビレイは言う。「UNHCRの人たちがこういう声に耳を傾けてくれればいいのだが。政策の見直しがきわめて重要だと考えている」
*****
アディスは結婚していて、2人の子どもの父親だ。1991年に、彼はアディスアべバ大学社会科学部に入学した。同じ年、国外逃亡を余儀なくされた。1991年から1993年まではケニアのワルダ難民キャンプにいたが、キャンプが閉鎖されため、カクマ・キャンプに移された。
1999年、アディスは、始まったばかりのプログラムの最初の学生グループとして、UNISAの学生になった。2000年から2003年にかけて、ウィンドル・トラスト・ケニア(WTK)の支援でデイスター大学に入り、コミュニティー開発での学士(BA)資格を取得した。
2004年から2006年までは、ドイツ学術交流会(DAAD)の支援でナイロビ大学に学び、災害管理社会学の修士課程を修了した。
大学院での勉強を終えた時点で、アディスは「カクマに戻るときだ」と思ったと言う。しかし彼は自分の教育スキルを間接的にしか使ってこなかった。カクマに拠点のある複数のNGOで、報奨金をもらう仕事をしてきただけだ。WTKではUNISAの学部学生に経営学を個人指導した。2007年と2009年の一時期、フィルム・エイド・インターナショナルの国外支援マネージャーとして働いた。現在はWTKで英語教師をしている。
自分の知識を使って、アディスは地域社会の発展に貢献しようとしたが、キャンプではこういう努力は限定されると感じている。「直接でも間接的でもいいから、難民の人々に貢献しようとしてきた。しかし条件がもっと整っていたなら、今よりずっと貢献できたと思う」
彼が言うには、カクマの奨学生は勉強が終了した時点で、特有の課題に直面する。雇用の市場は惨たんたるもので、全く存在しない。就職するためには、就労許可が必要だ。しかしケニアでは、難民は妥当な労働許可証を取得することが禁止され、海外で働くために当然必要な書類(条約旅行証明書)の取得は、「めちゃくちゃ厄介な手続きをしなくてはならない」
カクマ内にわずかにある雇用機会は、高等教育を受けた者には適さない。「カクマ難民キャンプでは教育程度に関係なく、レベルの低い仕事しか与えられない。英語の読み書きができる程度のレベルだ。具体的には、フォーム4中退(または中学校の卒業生)でほぼ務まる仕事だ」
「スポンサーから数百万シリングの投資をしてもらい、トレーニングをして資格を取ったというのに、我々の未来は暗く、依然としてカクマ難民キャンプでの日々を指折り数えて漫然と過ごしている」とアディス言う。
アディスは、今後に向けて「スポンサーは、難民の奨学金取得者に対し、勉強終了後に仕事を得る手助けをする連絡事務所を持つべきだ。」と考えている。さらに「UNHCRは難民の奨学生をもっと大事にして、再定住の道を考えるべきだ。同時に、奨学生が条約旅行証明書を取得しやすくすべきだ」とも付け加えた。
*****
ルイスは、3人の子どもがいる既婚のルワンダ難民だ。彼は2001年にJRSからの奨学金で社会学、刑事司法の勉強を始めた。勉強の合間にはLWFで、子どもの発育のケースワーカーとして働いた。 2006年の勉強終了時に、その仕事は辞めたが、子ども諮問委員会のメンバーとしてボランティアを続けた。今日、彼と家族は彼の零細ビジネスの利益で生きている。
「勉強を終了できてとても満足している」と同氏は言う。「JRSのことを生涯忘れない。;私はあの組織を自分の親と思っている」
スーダン難民がカクマでまだかなり多くの人口を占めていた間、ルイスは柱やプラスチックシート、マクティ(屋根用の草ぶきマット)などの建築資材を販売していた。スーダン人が帰還を始めると、は屋根葺きのためのプラスチックシートや小売業者のための資材を取り扱い始めた。資材はブローカーを通じてナイロビから手に入れる。彼は自分のビジネスの経験を振り返り、「こういう仕事は移動の自由がないので挫折しがちだ」と言う。
カクマでは適切な仕事がないため、また難民が利益を上げる仕事に就くことを禁止するケニアの政策のせいで、彼は学問から得た知識を仕事に生かしたことがないと言う。
「私の意見では、ケニア政府とUNHCRの政策は見直すべきだ。能力のある難民が仕事のために自由にあちこち移動できるように条約旅行証明書を簡単に取得できるようにてほしい。たとえばス南スーダンでは、熟練した労働力を喉から手が出るほど必要としている。ところが旅行書類がないため、そこに行けないのだ。自分の勉強とは無関係なビジネスで時間を無駄にする代わりに勉強を続けたいと思っている。自分が学んだことを生かせる仕事に就けず、まともに生きるには到底足りない給料しか得られないのでは、あまりにつらいし、欲求不満になる」
カクマ・キャンプで奨学金プログラムの恩恵を受けた難民は、教育を受けた見事な証を手に入れたものの、その知識は難民キャンプでは基本的に役に立たないと言う。
人道支援団体は資格のある者に、カクマ・キャンプで高等教育を受ける特別な機会を与える。ウィンドル・トラスト・ケニア(WTK)とイエズス会難民サービス(JRS)は条件を満たす学生に、わずかではあるが奨学金の機会を与える。外部からの資金提供者はカクマを訪問して、これらのNGOを通じて奨学生を支援できる。例えば、イタリアの支援団体カリタスはJRSを通じて奨学金を送っている。
JRSは本来、南アフリカ大学(UNISA)を通じてカクマに拠点をおく遠隔教育を提供することに重点を置いているが、ナイロビでの直接の勉強も手助けする。UNISAの遠隔教育プログラムは公共行政、開発行政、経済学、社会学、心理学、教育、企業経営、あるいは地域保健などの学位課程のコースを学ぶ機会を与える。
ウィンドル・トラスト・ケニアは、ナイロビでの学位課程及びナイロビとイギリスでの修士課程のために奨学金を提供している。また教育を受けるための再定住を通して、カナダの大学の学位課程プログラム、WUSC(ワールド・ユニバーシティ・サービス・カナダ)プログラムとも連携している。
奨学金プログラムに詳しい学生によると、奨学金プログラムの目的は1)個人の知的探求を満たすため、2)難民社会に力を与えるため、3)個々の難民が自立できるようにするため、4)難民が、故国に戻るとき、自国の発展に貢献できるように技能を高めるためだ。
KANEREはカクマで高等教育の奨学金を得た3人の卒業生に会ったところ、彼らはその恩恵とフラストレーションについて話をしてくれた。
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ビレイにはUNISA(南アフリカ大学)の構内でインタビューをした。彼はここでフィットネス運動をしている。奨学金での勉強は1年前に終えているが、UNISAの構内は彼にとって「第2の故郷」なので、ここで本を読んだり運動をしたりしている。「僕はこの大学構内の一部になっている」というほどだ。
ビレイは奨学金申請が認められて、2002年に企業経営と経済学の勉強を始めた。奨学金の支給はJRSとイタリアのNGOカリタスから受けた。教育を受ける前は、小さな事業をしていたが、勉強に集中するため仕事は辞めた。午後はIRC成人教育プログラムのビジネススキルの教師を続け、地元でビジネスをしている人達にアドバイスをしていた。
UNISAの遠隔教育プログラムを卒業してからは、毎月3000ケニアシリングの報奨金でビジネススキルの教師を続けた。仕事の機会はきわめて少ないと彼は言う。 「(カクマに)雇用市場はない。政策上、難民が給与労働者として採用されることはあり得ない。だから僕の頭脳は変わったのに、生活水準に変化はない」
「僕の強みは、教育レベルが変わってアップグレードされたことだ。更に教育を受ける道も開かれているし、コミュニケーション能力といった僕のスキルは、いろいろ役に立っている。しかし僕の不満は、物質的利益がなく、人生は変わらず、精神的に落ち込んでいることだ」
改善するためには、人道支援団体はやる気をそぐような難民キャンプの環境を再構築するべきだと、ビレイは言う。「UNHCRの人たちがこういう声に耳を傾けてくれればいいのだが。政策の見直しがきわめて重要だと考えている」
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アディスは結婚していて、2人の子どもの父親だ。1991年に、彼はアディスアべバ大学社会科学部に入学した。同じ年、国外逃亡を余儀なくされた。1991年から1993年まではケニアのワルダ難民キャンプにいたが、キャンプが閉鎖されため、カクマ・キャンプに移された。
1999年、アディスは、始まったばかりのプログラムの最初の学生グループとして、UNISAの学生になった。2000年から2003年にかけて、ウィンドル・トラスト・ケニア(WTK)の支援でデイスター大学に入り、コミュニティー開発での学士(BA)資格を取得した。
2004年から2006年までは、ドイツ学術交流会(DAAD)の支援でナイロビ大学に学び、災害管理社会学の修士課程を修了した。
大学院での勉強を終えた時点で、アディスは「カクマに戻るときだ」と思ったと言う。しかし彼は自分の教育スキルを間接的にしか使ってこなかった。カクマに拠点のある複数のNGOで、報奨金をもらう仕事をしてきただけだ。WTKではUNISAの学部学生に経営学を個人指導した。2007年と2009年の一時期、フィルム・エイド・インターナショナルの国外支援マネージャーとして働いた。現在はWTKで英語教師をしている。
自分の知識を使って、アディスは地域社会の発展に貢献しようとしたが、キャンプではこういう努力は限定されると感じている。「直接でも間接的でもいいから、難民の人々に貢献しようとしてきた。しかし条件がもっと整っていたなら、今よりずっと貢献できたと思う」
彼が言うには、カクマの奨学生は勉強が終了した時点で、特有の課題に直面する。雇用の市場は惨たんたるもので、全く存在しない。就職するためには、就労許可が必要だ。しかしケニアでは、難民は妥当な労働許可証を取得することが禁止され、海外で働くために当然必要な書類(条約旅行証明書)の取得は、「めちゃくちゃ厄介な手続きをしなくてはならない」
カクマ内にわずかにある雇用機会は、高等教育を受けた者には適さない。「カクマ難民キャンプでは教育程度に関係なく、レベルの低い仕事しか与えられない。英語の読み書きができる程度のレベルだ。具体的には、フォーム4中退(または中学校の卒業生)でほぼ務まる仕事だ」
「スポンサーから数百万シリングの投資をしてもらい、トレーニングをして資格を取ったというのに、我々の未来は暗く、依然としてカクマ難民キャンプでの日々を指折り数えて漫然と過ごしている」とアディス言う。
アディスは、今後に向けて「スポンサーは、難民の奨学金取得者に対し、勉強終了後に仕事を得る手助けをする連絡事務所を持つべきだ。」と考えている。さらに「UNHCRは難民の奨学生をもっと大事にして、再定住の道を考えるべきだ。同時に、奨学生が条約旅行証明書を取得しやすくすべきだ」とも付け加えた。
*****
ルイスは、3人の子どもがいる既婚のルワンダ難民だ。彼は2001年にJRSからの奨学金で社会学、刑事司法の勉強を始めた。勉強の合間にはLWFで、子どもの発育のケースワーカーとして働いた。 2006年の勉強終了時に、その仕事は辞めたが、子ども諮問委員会のメンバーとしてボランティアを続けた。今日、彼と家族は彼の零細ビジネスの利益で生きている。
「勉強を終了できてとても満足している」と同氏は言う。「JRSのことを生涯忘れない。;私はあの組織を自分の親と思っている」
スーダン難民がカクマでまだかなり多くの人口を占めていた間、ルイスは柱やプラスチックシート、マクティ(屋根用の草ぶきマット)などの建築資材を販売していた。スーダン人が帰還を始めると、は屋根葺きのためのプラスチックシートや小売業者のための資材を取り扱い始めた。資材はブローカーを通じてナイロビから手に入れる。彼は自分のビジネスの経験を振り返り、「こういう仕事は移動の自由がないので挫折しがちだ」と言う。
カクマでは適切な仕事がないため、また難民が利益を上げる仕事に就くことを禁止するケニアの政策のせいで、彼は学問から得た知識を仕事に生かしたことがないと言う。
「私の意見では、ケニア政府とUNHCRの政策は見直すべきだ。能力のある難民が仕事のために自由にあちこち移動できるように条約旅行証明書を簡単に取得できるようにてほしい。たとえばス南スーダンでは、熟練した労働力を喉から手が出るほど必要としている。ところが旅行書類がないため、そこに行けないのだ。自分の勉強とは無関係なビジネスで時間を無駄にする代わりに勉強を続けたいと思っている。自分が学んだことを生かせる仕事に就けず、まともに生きるには到底足りない給料しか得られないのでは、あまりにつらいし、欲求不満になる」
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