100人を超えるカクマ住人が、正体不明のガンマンによる度重なる殺人に対して抗議行動を起こした。
2012年8月5日の夜の10時半ころ、カクマ3ゾーン1ブロック14において、4人の男たちが、フェイサル・アブディ・アダン(25歳)の居住地に侵入し、彼を殺害した。侵入者4人のうち2人はAK47のライフルを持ち、他の2人も武器を手にしていた。殺害されたフェイサルはダダーブからの難民として2008年にケニアに来た。その後、2009年にUNHCRによって、カクマキャンプに再配置されていた。
強盗団は手慣れた様子で、イスラムのラマダン月の長い断食が終わって部屋の外でくつろいでいた家族や隣人たちを殴り始めた。全員に銃口を向け、床に横になるよう命じた。殴りながら、携帯電話、時計などを取り上げ、現金を要求した。食糧を受給している難民たちは、貧しくて現金など持ち合わせていなかった。強盗団は警告もなしに、銃をフェイサルに向けて撃った。KANEREのインタビューに答えてくれた生存者によると、犯人はその場にいた全員の携帯電話を取り上げ、フェイサルが抗議をしようとしたら、いきなり撃ったという。「彼らは我々全員を殴りつけた。フェイサルは、彼らが2発の銃を撃つ前に、すでに頭から血を流していた」と フェイサルの兄は涙ながらに話した。
居住地には8人の住民がいて、そのうち4人は、激しく暴行されたと訴えている。一発の弾丸だけがフェイサルの腹部、左の腎臓の下あたりに当ったが、残りは誰にも当らなかった。フェイサルは、弾丸が貫通して背中に大きな穴をあけられ、大量の血を流して倒れこんだ。「たいへんなショックを受けた。生きていく気力を失った。状況は真っ暗だ」と 別の親族がKANEREに話した。
この恐ろしい状況の中、すべての被害者は難民警備員に守られながら救急車で難民病院に運ばれた。キャンプの病院で話してくれた生存者によれば、警察は、事件後20分たって、ようやく現場にやってきたのだという。同じ夜、フェイサルは内出血と外部出血の処置を受けたあと、カクマミッション病院に移され、緊急手術を受けた。残念ながら、フェイサルは手術中に病院で亡くなった。
【写真】 故フェイサル・アブディの遺体
【写真】 故フェイサル・アブディの埋葬
〈難民の抗議〉
8月6日の朝、カクマ3のソマリア人を中心とする難民たちは、抗議の行動を起こし、10km先にあるUNHCRや関係NGOの構内を目指して行進を始めた。9時ころには、抗議活動のニュースはキャンプ中に広がった。100人を超えるキャンプの住人が行進に加わり、キャンプ全体の抗議行動の様相を呈し始めた。10時ころ、平和的な抗議行進はUNHCRの前に到着し、人々がさらに集まってきた。
突然、警官が催涙弾を撃ち参加者を追い払い始めた。人々は警官に怒りを向けたが、催涙弾には恐怖を感じた。その後、警官は群衆をキャンプに戻そうとして、無差別に殴りかかってきた。多くの難民は、この激しい攻撃に戸惑い、中には難民病院に運ばれて処置を受ける者も出た。KANERE記者との会話で、ある者は警官の暴行を非難したが、別の者は、後からの仕打ちを恐れて口をにごした。「私は抗議の場所にはいなかった。別のところに行くため道を横切ったら、警官に殴られた。私は殴った警官を知っている。恐ろしい」 病院の女性病棟でファツマはこう話した。
同じ日の3時45分ころ、フェイサルの遺体は、21年のキャンプの歴史の中で初めて作られたカクマ2の共同墓地に埋葬された。その日のうちには、ブロック14の不穏な事件について、キャンプの責任者から犠牲者の家族への接触はなかった。
今年の7月にも、ソマリの男性とスーダンの男性がカクマ3の居住地で正体不明のガンマンに殺害され、キャンプは恐怖に包まれた。KANEREは、カクマの警察とUNHCRオフィスに取材を申し入れたが、当局は報道機関には話さないという彼らの方針に反することを理由に、キャンプの不穏な事件が続発していることについて、コメントを拒否した。
或るKANEREの記者は、批判的報道や難民の権利を擁護する主張に対して脅迫を受けた。カクマの上級記者もまた、難民騒動の報道の間、キャンプの警備員に妨害され、脅された。
名前は実名ではありません!
2012年8月5日の夜の10時半ころ、カクマ3ゾーン1ブロック14において、4人の男たちが、フェイサル・アブディ・アダン(25歳)の居住地に侵入し、彼を殺害した。侵入者4人のうち2人はAK47のライフルを持ち、他の2人も武器を手にしていた。殺害されたフェイサルはダダーブからの難民として2008年にケニアに来た。その後、2009年にUNHCRによって、カクマキャンプに再配置されていた。
強盗団は手慣れた様子で、イスラムのラマダン月の長い断食が終わって部屋の外でくつろいでいた家族や隣人たちを殴り始めた。全員に銃口を向け、床に横になるよう命じた。殴りながら、携帯電話、時計などを取り上げ、現金を要求した。食糧を受給している難民たちは、貧しくて現金など持ち合わせていなかった。強盗団は警告もなしに、銃をフェイサルに向けて撃った。KANEREのインタビューに答えてくれた生存者によると、犯人はその場にいた全員の携帯電話を取り上げ、フェイサルが抗議をしようとしたら、いきなり撃ったという。「彼らは我々全員を殴りつけた。フェイサルは、彼らが2発の銃を撃つ前に、すでに頭から血を流していた」と フェイサルの兄は涙ながらに話した。
居住地には8人の住民がいて、そのうち4人は、激しく暴行されたと訴えている。一発の弾丸だけがフェイサルの腹部、左の腎臓の下あたりに当ったが、残りは誰にも当らなかった。フェイサルは、弾丸が貫通して背中に大きな穴をあけられ、大量の血を流して倒れこんだ。「たいへんなショックを受けた。生きていく気力を失った。状況は真っ暗だ」と 別の親族がKANEREに話した。
この恐ろしい状況の中、すべての被害者は難民警備員に守られながら救急車で難民病院に運ばれた。キャンプの病院で話してくれた生存者によれば、警察は、事件後20分たって、ようやく現場にやってきたのだという。同じ夜、フェイサルは内出血と外部出血の処置を受けたあと、カクマミッション病院に移され、緊急手術を受けた。残念ながら、フェイサルは手術中に病院で亡くなった。
【写真】 故フェイサル・アブディの遺体
【写真】 故フェイサル・アブディの埋葬
〈難民の抗議〉
8月6日の朝、カクマ3のソマリア人を中心とする難民たちは、抗議の行動を起こし、10km先にあるUNHCRや関係NGOの構内を目指して行進を始めた。9時ころには、抗議活動のニュースはキャンプ中に広がった。100人を超えるキャンプの住人が行進に加わり、キャンプ全体の抗議行動の様相を呈し始めた。10時ころ、平和的な抗議行進はUNHCRの前に到着し、人々がさらに集まってきた。
突然、警官が催涙弾を撃ち参加者を追い払い始めた。人々は警官に怒りを向けたが、催涙弾には恐怖を感じた。その後、警官は群衆をキャンプに戻そうとして、無差別に殴りかかってきた。多くの難民は、この激しい攻撃に戸惑い、中には難民病院に運ばれて処置を受ける者も出た。KANERE記者との会話で、ある者は警官の暴行を非難したが、別の者は、後からの仕打ちを恐れて口をにごした。「私は抗議の場所にはいなかった。別のところに行くため道を横切ったら、警官に殴られた。私は殴った警官を知っている。恐ろしい」 病院の女性病棟でファツマはこう話した。
同じ日の3時45分ころ、フェイサルの遺体は、21年のキャンプの歴史の中で初めて作られたカクマ2の共同墓地に埋葬された。その日のうちには、ブロック14の不穏な事件について、キャンプの責任者から犠牲者の家族への接触はなかった。
今年の7月にも、ソマリの男性とスーダンの男性がカクマ3の居住地で正体不明のガンマンに殺害され、キャンプは恐怖に包まれた。KANEREは、カクマの警察とUNHCRオフィスに取材を申し入れたが、当局は報道機関には話さないという彼らの方針に反することを理由に、キャンプの不穏な事件が続発していることについて、コメントを拒否した。
或るKANEREの記者は、批判的報道や難民の権利を擁護する主張に対して脅迫を受けた。カクマの上級記者もまた、難民騒動の報道の間、キャンプの警備員に妨害され、脅された。
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