Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2011年8月号 カクマ難民キャンプの支援団体に関する考察

2012年06月26日 | オピニオン

ミシェル・ジェームズ・デラモ (ヴァージニア工科大学)による寄稿

 〈初めに:ありのままの意見〉

デイビッド・エガーズが著書 「What is the what?」 の中で、バレンチノ・アチャク・デング氏について触れている。それによれば、バレンチノ・アチャク・デング氏は、故郷マリアルバイの暴動を逃れ、南スーダンからエチオピアやケニアの避難所を目指す若者の徒歩集団に加わり、ついには米国に第三国定住した。その半ば小説化された回想録には、米国での新生活への期待や、逃亡、野営、ハラハラドキドキの冒険が散りばめられ、西欧の読者を、はるか遠い馴染みのない場所に誘ってくれる。デング氏は、成長期のほとんどをキャンプで過ごした。最初はエチオピアのギロ川に沿った一時しのぎのピニュードキャンプで、その後は彼が難民として正式に登録されたUNHCR管轄下のカクマキャンプで。

デング氏は逃避行や将来への不安が要因のトラウマで挫折しながらも、キャンプで生き残るために必要な手段やルールと折り合いをつけて暮らしていた。その様子は、難民たちの日常がどんなものか、まざまざと見せつけるものだ。デング氏は若いうちから良き相談相手を見つけた。またキャンプの住人として生きるために、リーダーシップ能力を磨き、強い志を育んでいった。しかしキャンプの環境は、志を達成しようという意気込みを阻むもので、難民たちを戸惑わせる。その結果、個人もコミュニティも、不満だらけの従属状態に陥っていく。著者は次のように書いている。

「カクマでの生活は何だったのか? あれでも生きていたと言えるのか? これについては、見方が分かれる。一方で、我々は生きていた。 つまり、食べたり、友情を育んだり、学んだり、愛したりしながら生活を営んでいた。しかし我々は、どこにもいなかった。カクマは、どこにもなかった。カクマとは、我々が最初に覚えたように、ケニアの言葉で『実在しない場所』である。それはともかく、その場所は、場所とは言えなかった。それは一種の煉獄だった。エチオピアのピニュードキャンプの方がまだましだった。ピニュードには、少なくとも絶え間なく流れる川があった。つまり、我々が逃れてきた南スーダンに似た雰囲気がある。それに比べ、カクマは暑く、味もそっけもなかった。この地には、草も木もほとんど生えていない。役に立つものを拾い集める森もない。何マイルも、何もないようにみえる。その結果、我々は国連にすべてを頼ることになった」(エガーズ P334-335)

デング氏がカクマ難民キャンプに与えた「煉獄」という言葉は、地形上の風景が荒れ果てているというだけではなく、しっかりした解決への糸口もなく、決断を求める余地すらない宙ぶらりんの人間の状態をうまく言い当てている。そんな記述にも関わらず、デング氏の物語は、たとえ難民キャンプに居ようとも、人は人間としての権利を行使しようとし、政治的解決を図ろうとしていることを示している。

この小論の目的は二つある。一つは、カネレから住民の生の声を拾い出し、カクマキャンプで活動している支援団体について、難民がどのように感じているかを調べることである。

もう一つは、カネレを通して、市民社会の役割を指し示すことである。カネレの存在は、キャンプが依存的環境を助長する構造になっているのに、支援機関が相変わらずの状態であることを示している。カネレは、インターネットに掲載されているので、キャンプのみならず世界にまでその扉を開いている。カネレは、一つには独立した情報源であることで、また一方で人道支援団体に立ち向かっていることで、国際的な注目を浴びている。国連や他の支援団体は、こうした難民による批判の声を封じ込めようと脅しをかけているが、皮肉なことに、カネレの願いは、こうした支援団体からの干渉を排除し、完全に自立していくことなのだ。 

〈長引く紛争の中での生活〉

長引く紛争に巻き込まれている難民たちは、人道支援に頼り切るしかないキャンプに、長いこと閉じ込められている。「保管倉庫状態の難民:権利の拒否、人間性の浪費」 という論文によれば、世界の1200万人の難民のうち700万人以上(約58%)が10年以上、難民キャンプで惨めに暮らしている。彼らの生活の特徴は、無気力を無理強いされていることと、軍隊に支配されていることだ。

国際難民機関が集めた実験データは、保管倉庫状態が健康や福利にどれほど深刻な影響を与えているかを詳細に示している。当然のことながら人権は侵害されている。長期の倉庫状態は、あきらめ、やる気の欠如、自分たちのために声をあげることへの恐れなどが特徴の 「病理学的依存症」 を育んできた。外部の力に抑圧されるのが当たり前になり、抑圧者が直接或いは間接的に流す意図的なメッセージを深く信じてしまう。皮肉なことだが、人間倉庫状態では、抑圧する側が、難民をキャンプから外に出すことではなく、ノン・ルフルーマンの原則を楯に難民を囲いこむ集団へと変貌する。

倉庫状態にしておかなければならない根拠は何なのか。難民がいると特に紛争地域周辺で治安が悪化すること、難民が地元の市場で働くと地元の経済的負担が増大すること、キャンプを設営すると受け入れ国に支援が提供されること、キャンプがあることで難民グループの政治的苦境をつまびらかにできることなどが挙げられる。しかしこれらの根拠は、難民を政治的苦境に至らしめている構造的問題を解決するものではなく、むしろ問題をさらに複雑にしている。治安を守り、市場を透明化させようとすれば、難民を軍隊の管理下に置くことになり、結果として難民を守るのではなく、難民の権利を制約することになってしまう。

カクマに16か月住み、カネレの立ち上げに参画したフルブライト奨学生、ベタニー・オジャレートは、「難民キャンプは、肉体的な監禁状態と変化のない単調さと周りからの抑圧が混在している」と書いている。 彼女はまた、長引く難民生活により生じる心理的依存体質は、難民それぞれの精神的弱さの顕われだという仮説に強く反発している。無力感はむしろ、キャンプの空間と時間のありようによって作り出されたものだと言う。カクマでオジャレートが出会った難民たちは、キャンプの中に厳重に閉じ込めておこうとする組織や政治に、懸命に反発し続けていた。彼らは、毎日の暮らしがとてつもなく単調なことで、どれだけ思考の自由が奪われているかを思い知らされ、意図的に反発行動をとるようになった。 

〈カクマでの生活:プロフィル〉

カクマ難民キャンプは、ケニア北西部のトゥルカナ地方に位置し、国を追われたスーダン難民を救うために1992年に設立された。2004年の世界難民報告書では、カクマキャンプは「長期に難民が保管倉庫状態にある最悪の実例」の一つに挙げられている。

ケニア政府は、大多数の難民をキャンプに閉じ込め、自由に仕事や生活をする権利を拒否している。キャンプは人権の侵害で満ち満ちている。レイプ、家庭内暴力、その他の犯罪はここでは日常である。昔からの裁判システムは難民たちを、例えばケニア法でも国際法でも犯罪とされていない姦通罪などの違反行為で投獄する。地元の住民とは、薪などの資源が原因で衝突する」

UNHCRは、2011年の計画で、キャンプ内の治安向上を目的に、公正な難民保護事業の充足、生計を得ることに着目した基本的生活標準の改善、多層菜園計画の実現等をリスト化し、ケニア政府や受け入れミュニティと交渉を続けている。

これらの努力にも関わらず、カクマでの生活は困難を極める。気候は半砂漠で、農耕には全く適していない。就業の制約は、キャンプの外での仕事探しを不可能にし、そのため、全ての食料供給、医療行為、個人の健康や家庭生活の管理はキャンプの外から持ち込まざるを得ない。諸々の資源の欠乏は、難民と地元トゥルカナ住民との間に摩擦を引き起こし、そのため、武装による治安維持や難民の移動に関する厳しい監視が必要になる。長引くソマリアでの紛争は、本国帰還への見通しが全くたたないまま、保護を求めて絶えずケニアにやってくる人の流れを生み出している。

カクマ住民が直面している多くの難問の中で、難民認定作業(RSD)はとりわけ厳しい。人々は、認定が終了するまで延々と待たされる。何年も宙ぶらりんの状態で生活した後、何人かはUNHCRから保護の基準に合わないと告げられ、ケニアを出るように求められる。これはケニアで生活しながら保護を求めている人々にとって、致命的な衝撃である。

キャンプ生活についてカネレに投稿された文には、「ひどい」という言葉が頻繁に使われている。1992年にカクマに最初に来た難民の一人、マンスル・メンゲシャは、カクマでの時間について、「私と家族にとっての生活ワークショップ」 と自嘲気味に表現した。さらに「あなた方が知っている以上に、カクマはひどいところだ。カクマは、権力者が、難民が生きる場所としてではなく、難民を終わらせるために排除する場所として選んだように思える」(2010年9月10日投稿)とも書いている。他の人々も、治安、水の欠乏、行き当たりばったりの開発計画、説明なしに短縮されるプログラム等に関して意見を出している。住民やかつての住民たちによる生の声は、自分たちの依存体質へのじれったさや、自分たちの権利を要求することへの強い期待にあふれている。 

〈粉末栄養剤 “MixMe” の場合〉

カネレの中で大きな議論を巻き起こしたプログラムの一つに、世界食糧計画(WFP)が実施しているMixMeプログラムがある。MixMeは、オランダで健康、栄養、材料分野で事業を展開しているグローバルな化学会社DSMが製造、寄贈している微量栄養粉末である。製品の配布は、不十分な食糧配給により難民たちに拡がっている重度の貧血や微量栄養素の欠乏に対応しようというものだった。MixMeは、毎月の配給の際に、便利なように一回分1gの小袋30個入りの小箱として渡された。各家で、食事の直前に食べ物にふりかけて食べる。カクマ住民の間で、鉄欠乏貧血症の蔓延を画期的に抑えることが狙いだった。

その使いやすさや、MixMeの正しい使い方を周知させる映画やパンフレットや演劇などの大掛かりなキャンペーンにもかかわらず、製品は住民にあまり受け入れられなかった。住民の間で生じた最大の疑問は、なぜ地元の食糧ではなく栄養剤を与えようとするのかということだった。

MixMeの粉末状の外観は、それが難民キャンプだけで支給されているという事実と相まって、製品の信頼性に新たな不安を引き起こした。カネレの取材に応じてくれた人は、中身の成分表や宗教的な食事制限品が入っていないかをはじめ、MixMeがカクマに配布されるにいたった手続きや意思決定プロセスについて、様々な疑問を投げかけた。なぜダダーブキャンプではないのか? 地元の市場や店のお客、支援スタッフにはなぜ売らないのか? 特に住民が知りたがったのは、MixMeは試作品ではないのか、難民は効果を試すモルモットではないのか、ということだった。これらの疑問は、カクマの住民が、自分たちが弱い立場にいることにひどく敏感になっている表れである。コンゴの男性の次のコメントは、製品の栄養学的効果を達成するには、決定経緯の完全な公開と同意が必要であることを明確に示している。

「MixMe導入のやり方には、背後に未だ明らかになっていない秘密が隠されているようにみえる。これらは今後、もっと明らかになってくるだろう。WFPは、どこかの大学の研究者の実験材料にされている難民たちに、外部から持ち込まれた有害な化学物質MixMeを与えるかわりに、地元で手に入る地元の食材を配ることが、はたしてできるだろうか」

住民がMixMeを薬品としてしか認識していないことが、製品の効能に関する噂を広めた。噂は、家族計画用の薬であるというような推測まで生み、難民にとって為にならない隠された動機があるのではないかとの疑惑を生じさせた。ジェベル・マラ小学校の若者は「MixMeは、人々の間で種々雑多な憶測が出ていて、皆嫌っている。どこの国で作られたのかがわからないし、賞味期限も不明確である。人が食べて良い物ならば、ケニアの人々だって店で買える筈なのに、店には置いていない・・・どうしてなのか?」 (トゥルカナの地元住民からも同じように、「栄養状態や健康状態は難民と同じなのに、どうして自分たちは手に入れられないのか」という問い合わせがきている)

既に自分たちではどうすることもできず権力のなすがままになっている難民である。外部からの製品を受け入れるにも選択の余地がないので、不安や不信は一層増殖する。疑惑の伝達は、根拠のないことではない。歴史を見ても、支配構造の中で、外部主導による管理下に置かれた公民権をもたないコミュニティが、いかに傷つきやすいかがわかる。たとえWFPやUNHCR、MixMe を開発したDSMなどに支配の意図がなくても、彼らは難民に対して、強い力関係を保持している。この力には、自分たちで食料を得るすべがなく、支援団体の承認や協力がなくては状況を変えることもできない人々に食料を与えるとことも含まれる。

カネレは難民の間に生じた多くの疑問を伝え、その答えを求めようと、キャンプのWFP役員に接触しようと努めた。栄養剤の内容に関する疑問の中には、情報公開されているものもあるので、MixMeに関するカネレの記事の中で、答えたものもある。しかし残念ながら、WFP役員に面会することはできなかった。彼らは、カネレがキャンプに本拠地を置く組織(CBO)として登録されるまでは、情報を提供するわけにはいかないと言ってきた。インタビューをするのになぜCBO登録が必要なのかについては、説明がなかった。住民の関心事から目をそらさせようとするこの決定は、製品に関する疑惑の流布に拍車をかけることとなった。

MixMe騒動がもたらしている議論は、支援団体と受け取る側の難しい関係を浮き彫りにしている。たとえMixMeが実際に危険な状態にある人々の健康改善に役立つものだとしても、今回の支援方法や提供の仕方には、受益者の関心と利益を優先させる住民参加型健康改善運動の視点が欠落している。住民たちは既に、強制的に従属的な立場に置かれ、品物がなかなか手に入らない制約の中で苦しい生活をやりくりしているが、今度は、健康への効果や副作用もはっきりしない見慣れない製品を使うように求められているのだ。住民たちが、実験に使われる個性のない肉体として扱われることに抵抗しているのは明らかだ。難民たちは、70%の人が製品を拒否している事実を突き付けて、抵抗の意思を表した。その結果、MixMeの袋がキャンプのあちこちに散乱することになった。皮肉にも、散らかったMixMeの袋は難民たちに新たな仕事の機会を与えた。彼らは、捨てられた袋を集めるためにWFPに雇われている。恐らく、MixMeのごみ収拾により得られた報酬は、普段の配給では手に入らない食料を買うために使われることだろう。

DSMから実情調査を委託され、カクマキャンプを訪れ、MixMe製品の廃棄の状態を見た女性が、ブログに次のように書いている。「想像できますか? 難民が、繰り返しますが、あの基本的には何も持っていない難民が、食料配給所に行き、一列に並んで待って、配給を受け取ると、MixMeの箱だけその場に置いていく・・・もっと悪いケースは、箱を手に取り、家に持ち帰る代わりに、中の袋を空中に放り投げて、日差しを受けてきれいに光るのを眺めた後で、家に帰っていく。キャンプのいたるところに袋が散乱しているのを見て私がどんなに悲しい思いをしたか、皆様にはお判り頂けるのではないかと思います」

彼女は見たものをどのように伝えていこうかと悩んだ。そして最後に、MixMeのような偉大な製品が拒否されるのを見た最初の驚きにもかかわらず、受け取り手の見方を尊重することが必要だという結論に達した。「私は、MixMeは彼らにとって良い物だと確信しています。彼らが生き残るために必死になっていることも見ています。ふと、彼らは私たちの支援を受けたくないと思っているのではないか、と思ってしまいます。しかしそれは、正しい見方ではありません。MixMeは彼らが必要としているものに、かなっていないのではないでしょうか。私たちがすべきことは、そのことを直視し、製品の形態、意見交換、その他なんでも良いから、彼らがMixMeに興味を引くようなやり方を考えることです」

彼女は、難民たちの無関心についてかなり正確に認識していたが、MixMeの調査員としての結論は明白だ。「難民たちに、MixMeは彼らが使わなくてはならないものであることを判らせなくてはなりません。彼らの無関心は――大事な点ですが――彼ら自身の健康や栄養に関する考え方から来るのではなく、何らかの誤解、あるいはキャンプの政治的な状況に基づくものなのです」

西洋人の見方からすれば、難民の抵抗は恩知らずな行為として解釈されるだろう。しかしながら、カネレを注意深く読めば、そうではないことが判る。感謝は、ブログに投稿された意見全体に織り込まれている。キャンプの運営への批判や環境に対する不満のメッセージの中にまで書かれている。感謝の表現はしばしば、互いに助け合うことや支援団体を通して自己を啓発しようとすることの重要性を論じる中に、織り込まれている。過酷な治安状況や、NGO組織の決定過程の不透明性や説明不足に対する不満が述べられている場合ですら、感謝の念が底流にある。私の解釈では、感謝の言葉は、人間精神の寛大さや柔軟性を思い起こさせるだけでなく、折り合いをつけながら暮らしている難民生活の本質を見抜かせてくれるものだ。感謝の背景には、人間の進歩が関わっていることが多い。共同体や文化を越え特定の支援団体との関係が進歩することもあるだろう。あるいは、保護や権利を保障する既成の体制と関わるうちに進歩が生まれることもあるだろう。カネレの編集者は、人間の権利の向上に貢献しているいくつかの団体を挙げることができる。たとえば、ケニア難民協会(RCK)は、2006年にケニアで難民法が制定される以前から、難民や庇護希望者の法的支援や弁護にあたってきた。また、ケニアキリスト教会協議会(NCCK)は、性や性差別による暴力から女性や少女たちを守るために、彼女たちが生計をたて、収入が得られるような活動を続けている。カネレの観察と私の個人的な調査から、難民が支援団体の職員と出会うことで、キャンプ生活を変化させる可能性を秘めた新たな状況が生まれていることがわかった。これは、以前の環境では不可能なことであった。これらの出会いのユニークな点は、準備された支援ではなく、むしろ相互交流とその後に続く共同作業を通してお互いへの配慮や容認が得られることだ。 

〈カネレの未来〉

MixMe論争に特徴付けられる疑惑の伝達現象は、カクマ難民と支援団体との緊張関係に価値ある洞察をもたらした。支配と管理の枠組みの中での抵抗のケーススタディとして、MixMe論争は、支援組織法の制定を引き出すまでに進展してきた。これは、現在の関係を覆し、新たな契約モデルを強固に推し進めるものである。そこで重要なのが、第3の機関としてのカネレの役割だ。自由新聞として、取り上げられない難民の声を拾い上げ拡大していく役目を担っている。カネレには、難民キャンプのような高度に統制された環境の中で市民社会を作り上げていくための政治空間が与えられている。そこでは、難民が支援団体を含めた多くの人々に、自分たちの経験を直接話しかけることができる。

カネレは難民の新聞の最初の試みではない。1993-2005年、国連が発行していたカクマニュースブレタン(KANEBU)は、キャンプで行われるイベントなどの情報を提供する広報誌の役割を果たしていた。カネブは記事の製作者として難民のジャーナリストたちを雇っていたが、公開すべき内容については、地元のUNHCRが編集管理権を握っていた。自由報道としてのカネレは、単に情報を提供するだけではなく、「キャンプへの接触や情報を殆ど一手に管理し意のままに報道している人道的支援団体の情報の独占に対する反撃」でもある。 カネレが支援団体から独立していることは、野営状態の中で形成されてきた難民生活からの旅立ちを現わしている。

カネレの自由報道姿勢を維持するという決断は、容易ならないリスクをはらんでいる。最初の発行の直後からUNHCRによる妨害が始まった。機密保持、キャンプ住民の個人情報の保護、報道の倫理基準などを理由に、取材に対して非協力的である。さらに、カネレの編集者は署名入りの記事を書くことを禁止され、住民のフルネームの記載も止められ、いくつかの微妙な記事はブログから削除された。こんな姿勢を示されている上に、カネレの記者たちは脅迫を受けている。編集長は暴行を受け、家と壊された。その他の記者たちも尋問され、国外追放になるぞと脅された。何人かは、自由新聞と関係をもつことで、自分たちの身分が危険にさらされるのではと恐れた。カネレの立ち上げに関わったアメリカのフルブライト奨学生のオジャレートさんでさえ、彼女のカネレでの仕事は自身の研究活動から外れているという理由で、LWFから住居の提供ができなくなると言われた。これらの恫喝が原因で不安に駆られた何人かの記者は、カネレから遠ざかるだけでなく、UNHCRや他のNGO団体とより良い関係を築くか、カネレのやり方に反対するかの選択を迫られている。

カネレとUNHCRとの交渉は、国際的人権法律家エクル・アウコト博士がカクマを訪れ、ケニアの難民には報道の自由があるのかという疑問に答える文書を作成した後、穏やかに進展している。アウコト博士の論文は、難民は報道の自由を通して表現の自由を享受すべきであると宣言している2006年制定の難民法やケニア国憲法など多くの承認された法律文書を参照して、報道の倫理基準に従うように説いている。彼は「例えば、典型的な官僚たちがいつも持ち出すケニアの安全に関して、カネレが脅威だと思う人は誰もいない。現時点のケニアには、難民であれケニア人であれ個人の生の声が流出することより、もっと心配し注目すべきことが山のようにある」と書いている。カネレの側に立ったアウコト博士のしっかりした議論を考慮して、地元のUNHCR事務局は、カネレがCBOの登録申請を進めるのに必要な推薦状を書くことに同意した。ただし、自由新聞が支援基金の補助を受ける場合は真の独立とは認められない、との条件が付けられている。

この文章にもあるように、カネレは今でも危険と隣り合わせで作業を続けている。無料、或いは手頃な値段でインターネットにアクセスすることは不法行為とされている。記者たちはボランティアで記事を書き、しばしば脅しにあう。地元の警察やキャンプの監督者も、加害者たちから記者を護ることにかけては非協力的である。こんな困難にも関わらず、カネレは普及している。人道的未来プログラム(HFP)のブログには「カネレは、ウェブに力を得た本当に素晴らしい市民ジャーナリズムの例である。人道支援の有り方を根本から覆している。次世代の支援活動の在り方を触媒的に変える力がある」 という記述がある。MixMeのケーススタディで明らかになったように、情報は、人々がそれぞれ、最善の共通利益を求めて行動するのになくてはならないものである。自由に製作し、配布し、手に入る正確な情報こそ、開かれた市民社会を作り上げるための基本になる。

西欧社会はどのような支援ができるだろうか? この質問への十分な回答は、本小論の範囲を超える。我々はそれでも、いくつかの予備的見解には到達できる。インターネットはヴァージニア州南西の大学とカクマのネットカフェのように隔たった空間にある情報の溝を埋めて、距離を近づけてくれる。我々は知識人として、膨大な科学者のネットワークやメールリスト等の手段を通して、カネレの真実を語り、自由な考えや表現を展開することができる。国際社会の発展に関わる者として、支援のための補助金は、市民社会が機能するために必要なインフラ整備促進に向けられていると弁護することができる。強制移住に関する国際的なジレンマに立ち向かっている奨学生や実践者として、取り残されている難民ジャーナリストの仕事を、我々の研究や実践の指針となる知的生産の本流に取り込むことができる。最後に、人権思想の啓蒙にたずさわる国際社会人として、完全な人道主義とは、生存に必要な基本的なもの――食料、水、住居、外敵からの保護――だけではなく、会話や自己表現や意識の共有をも含んでいることを認識しなくてはならない。 

この小論は、カクマに住む難民たちが直面している人権との格闘に変化をもたらし、乗り越えていく力になっただろうか? それはまだわからない。それはともかく、この小論が、無意味な場所に住んでいるが自分たちも国際社会の一員であると主張している人たちの、政治的問題の解決力になることを期待している。



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