UNHCRに難民の人権擁護義務を課すことはできるだろうか? 人権は、難民が人間として自由かつ十分に成長する上で不可欠である。難民の人権擁護不履行を理由にUNHCRを裁判にかける環境は作られているだろうか?
【漫画】
女性職員:「難民としてケニアに来て何年? UNHCRに望むことは?」
男性難民:「17年になります。どうか、もう勘弁してください。頼みますよ。ほとほとまいってます」
プロテクション・オフィスから顔を出している人たち 「グアンタナモから来たのかな?」 「それとも監獄?」 「まさか。カクマっていう巨大難民キャンプからさ」
かげの声:「ふーん、カクマってところはグアンタナモ並ってこと?」
〈著者:ザカリー・A・ロモ〉
法学士(ウガンダのマケレレ大学LLB) 法学修士(ハーバード大学LLM)
2001年7月から2006年8月までマケレレ大学法学部にて難民法プロジェクトを指導。難民法プロジェクト(RLP) ワーキングペーパー・シリーズでは、ウガンダ北部での戦争の原因に関する「暴力の背景」および「平和交渉」、「誰の正義か?」を共同執筆している。現在、国際法と難民の研究で博士号を取るためケンブリッジ大学に在籍。
先に掲げた質問にどう答えるかは、国際法とその機能についての見方によって異なる。私の答えはYESで、その理由を簡単に説明すると以下のようになる。UNHCRには難民の権利と自由を擁護する義務がある。またUNHCRの行動や怠慢、あるいは明らかにその決定や政策、実践によって被害を受けた難民がいれば、UNHCRはその難民によって提訴されるべきである。私がこの結論に達したのは、国際司法裁判所のロザリン ヒギンズ所長など国際法の専門家の見解に同調できるからだ。つまり国際法とは「秩序ある行動システム」のことで、「共通の価値観を達成するための抑止力になる。その共通の価値観とは、我々が富んでいるか貧しいか、肌の色が黒いか白いか、宗教を信じるか無宗教か、あるい、先進国出身か途上国出身か」[1]に関わりなくすべての人に共通の価値観である。私としてはさらに付け加え、難民か否か、従来の国際機関か国際機関の支流的組織か、それとも民間の自主的機関かに関わらず、我々が持っている共通の価値観と言いたい。古典的で実証哲学主義の国際法律家は、国際法とは規則の集合、あるいは「現状の法律」、即ち、法令全書や条約や国が長期の実践と伝統により受け入れてきた法律、あるいは裁判所が法律とみなしてきたものが法律だと主張する。彼らは訴訟手続きや規範的なシステムは単なる政策と政治であって、法律ではないという見方に基づき、上記の国際法の定義には反対している。
実証哲学的な国際法の専門家からすれば、最初に掲げた質問への答えは「NO」になるだろう。つまり、UNHCRは難民の人権を擁護する義務はない。なぜならUNHCRに難民の権利擁護の義務があると明示する法律は、どんな法令や条約にもないからだ。こう考える国際法律家の一派は、難民を保護するために難民と接触し行動計画を策定するUNHCRの権利ばかりを強調し、UNHCRの悪弊は、UNHCRの仕事が難民にとって全体的に善いという統計分析で相殺されるとしている。言い換えれば、難民の権利擁護に関する質問は国に向けられるべきであって、UNHCRのような国際機関に向けられるべきではないという。これらの法律家や現実主義者は、難民が野営をしなければならない現実や難民自身が状況を改善する必要性については語るが、他の考えは「政策と政治」の問題であり法律の問題ではないとして、ごみ箱に投棄してしまうだろう。
私は、法に対するこれらの機械的で国家中心的な考えに違和感を覚える。国際的であろうとなかろうと、私は「YES」と言明する。UNHCRには難民の人権を擁護する義務があるのだ。擁護されるべき難民が南半球の多くの国で野営状態にあろうが、特にアフリカで基本的原則や政策の事情で野営させられていようが、また難民がキャンプや居住区の外に住むことを選ぼうが、UNHCRには擁護義務がある。もし国際法が「権威ある決断」を下して難民の人権など共通の価値観を達成できる規範システムだとすれば、国連憲章、人権法、一般的な国際法、UNHCRの事務局規定も合わせ読むことで、UNHCRは難民の権利を擁護する法的義務を持ち、難民を単なる受動的被害者や人道援助等の受領者としてではなく人間として扱うべきだと主張できる根拠になる。
UNHCRの権力と機能を定義する法令は、難民の権利と自由を尊重し擁護するUNHCRの義務を説明する出発点になる。同法の第1条では主に、UNHCRは「国連の援助の下、難民への国際的な保護を提供する機能を想定しなければならない……」と規定し、同法第8条では、UNHCRが保護下にある難民を保護する際の9つの手段を規定している。その法規定は、UNHCRの権限と活動を確立し定義した国連総会決議 1949年12月3日319A(Ⅳ)と、1950年12月14日428(V)と共に、高等弁務官の「秩序ある行動システム」を定めたと言える。これは難民の人権保護と、難民問題の解決に向けて国を助けるという「共通の価値観の達成」を目指すものである。これらは事実上、国連の直属機関としてのUNHCRに、人類共通の目標である難民保護の権利を与えることになる。しかしながら難民保護の権利は、難民の権利擁護という義務を伴う。UNHCRは各国が難民保護の義務を履行するための手続き基準として1951年の難民条約を定めたが、それだけでは十分でない。UNHCR自体が難民の権利を尊重し擁護する姿勢を見せなければならない。
法令起草の歴史を見ると、草案者はUNHCRを難民の人権の「保証人」で「擁護者」(適切な言葉がないのだが)にするつもりだったことがわかる。同法令によって、また、その後1951年の難民条約によって定義されている難民の人権は、国連総会と社会問題を討議する国連第三委員会の双方で法令の立案を議論した各国代表団メンバーの理想論と、彼らの言葉のイメージを、明確に取り入れている。国連のフランス代表団の一人、ロシュフォール氏は、総会の第5セッション、第325回の会議で法令立案の議論に貢献し、UNHCRの設立を支持するように他の代表団を促した人物で、UNHCRは「世界中の多くの難民に希望をもたらす新しい箱舟になる……」と述べた。「新しい箱舟」いう表現は代表団に、大雨に続いて起きた洪水からノアの家族を助けた聖書のノアの箱舟を思い出させ、また難民を生み出した人権乱用や亡命中に難民が直面する人権乱用の「洪水」を代表団に強く思い起こさせた。さらには、言論の自由、報道の自由、宗教、組合、移動、教育、健康へのアクセスといった難民の人権と自由を保証し守るUNHCRのような機関を設立する必要性も思い起こさせた。それだけではない。重要なのは、権利と自由を奪う政策に難民が挑戦することも含め、難民は難民の共益を目指す活動に参加する権利を持っていることを示唆している点だ。
第二に、国際法の問題として、UNHCRには難民の権利を尊重し擁護する法的な義務がある。なぜなら、UNHCRは国際的な人格を持っているからだ。つまりUNHCRは明確な法律上の人格として権利と義務を持っている[2]。したがってUNHCR は訴えることができると同時に、訴えられることもあるということだ。しかし実際は、後で説明するが、技術的、実証主義的意味で、難民がこうむった危害や不正のことでUNHCRを裁判所に提訴するのは不可能である。国際法上の人格を持つ者のもう一つの特徴は、国際的な法人格の行動や怠慢による不正や危害に責任があるということだ。法令にはUNHCRが国際法上の人格を持っているという明白な記述はないが、国際的な人格がUNHCRにあることは、法令と国連総会の決議によりUNHCRに委託された権威と任務によって説明できるし、1949年に判決が下りた「国連の支援でこうむった不正への賠償事件」で、国際司法裁判所(ICJ)が表明した国際機関への国際的な人格帰属の原則から類推することでも説明できる[3]
この事件では、国連の国際法上の人格問題が焦点になった。国連憲章には、国連が国際的な人格を持っていることはまったく記載されていない。ICJは、国連の国際法上の人格と、事実上他のあらゆる国際機関の国際法上の人格は、その能力、機能、創設者の意図からの「必然的な推論」によって推定することができるし、これによって裁判所は、国連には国家とは明らかに異なる独自の国際法上の人格があると結論づけた。裁判所の分析を借りれば、UNHCRは国連総会で、特定の目的を実現するために創設され――難民への国際的な保護を提供し、国家が難民問題の解決策を見出すために支援する――国際的な次元で任務を実行するために権限を与えられた。法令第8条に明記された一連の活動でUNHCRは、創設された目的を広く実現するために、国家、非国家を問わずさまざまな関係者と係わらなければならない。したがって国連総会のメンバーは、裁判所の言葉で言えば、「これらの機能が効果的に発揮されるのに必要な法的権限」をUNHCRに「かぶせた」と言える[4]。 その結果、UNHCRは、その機能を発揮する過程で、難民に国際的な保護を提供する権利があり、難民の人権と自由を尊重し擁護する義務がある。
第三に、国際人権法はUNHCRが難民キャンプ内であろうと、居留区内であろうと、あるいは自然発生的に移り住んだ場所であろうと難民の人権と自由を擁護する義務も課している。実証主義の法的観点からすると、そのような義務は存在しない。なぜなら人権に関する国際的な法律文書は、国家間で合意した条約に過ぎないからだ。たとえば、1951年難民条約は国家側に難民への権利と自由を委託し、その権利を擁護するように義務化したものだ。難民条約はUNHCRに監督の役割を与える一方、難民の権利擁護義務は国家に課しているだけで、UNHCRには直接的な義務を課していない。しかし規範的な視点、つまり、国際法の観点からすれば、国際法とは、この場合は難民の人権と自由の擁護という共通の価値を達成するため行動を抑制して秩序を持たせる規範的システムなので、UNHCRには人間としての尊厳ある難民の人権と自由を擁護する法的な義務がある。この観点では、国連憲章や人権に関わる国際協定書は、国家だけに適用される趨勢やシステムではなく、権威と権力を与えられたすべての者に対して規制力を持つ「規範的行動システム」とみなす。したがって、その規範からの離脱や違反には――国家であろうと国際機関であろうと――代償が課せられる。実際、国連憲章の前文にはこの観点を反映する言葉がある。
「われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること……」
連合国の人々の経験と、人権が疑いなく守られる平和な世界を目指して働こうという決意とが述べられたこの行は、第1条の新しい機関の具体的な目的へと続。その目的の一つとは「すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励する」ことだ。もちろん、「すべての者」の中に難民も含まれる。したがって、国連、国家そしてUNHCRを含む他の国際機関すべての関係者は、いかなる状況下にあろうとも、難民の権利と自由を擁護しなくてはならない。難民が人間として完全な成長と発展を遂げる権利と自由は、本質的なもので、奪うことはできない。UNHCRが難民の人権と自由を擁護しなくてはならないという見解は、「UNHCRが国際的な法人格を行使する際の特別な事情」に基づき義務には制限があるとみなす何人か執筆者とは明らかに異なる[5]。
決定的なのは、UNHCRはキャンプや居住区の管理をしているので、難民の人権と自由を擁護する義務は更に増大することだ。理論的には南半球の国々の政府が責任を負うことになっているが、実際は異なる。私は2008年の秋にタンザニア、ケニアのキャンプを訪れたことがあるし、ウガンダでは難民保護の体験もしている。これらの国々はどこも、政府が責任を担っているように装っている。しかしキャンプの中に入り、観察を開始し、難民、政府、UNHCRの職員と対話してみると、難民とキャンプを実際に管理しているのはUNHCRだということが明らかになる。キャンプのほとんどのプログラム――水、衛生、教育、セキュリティ、避難所――に資金を提供しているのもUNHCRだし、自動車は政府関係者に寄贈されたものもUNHCRの事業実施パートナーに寄贈されたものもすべて、UNHCRの紋章とナンバープレートをつけている。またキャンプに入るには政府の許可が必要な一方、一般社会と隔絶されたこれらの場所の真の門番はUNHCRだ。キャンプの中には、難民がキャンプを出る際の許可もUNHCRから取らなければならないところもある。現実には、UNHCRが難民キャンプや居留区内のすべての活動を管理している。このようにUNHCRがキャンプでの活動をすべてコントロールしている兆候がある以上、国際法上の義務を伴う。その一つが難民の権利と自由を擁護することだ。
UNHCRは最近、その機能を履行するには、難民の人権を擁護することが重要だと気づいたようだ。例えば、2006年のマニュアル「難民キャンプ及び居留区における業務上の保護」という参考指針では、「保護の実行に改善を求め」ており、「女性、男性、少女、少年の難民は、保護と今後の生活に関する意思決定に貢献し参加する現役の尊敬すべきパートナーであり、彼らとの連携を強化している」とある[6]。UNHCRは、難民保護実現の重要な方法論として「人権に基づいたアプローチ」を強調している。「権利に基づくアプローチでは、あらゆるプログラムのあらゆる側面で、人権の原則が指針となる。アセスメントと分析も含めた計画立案の過程、プログラムの設計(目的、目標、戦略の設定を含む)、実施、モニタリング、評価もその対象となる」と述べられている[7]。
これら建設的な発展がある一方、例えば――女性、子ども、保護者のいない未成年者といった難民の――難民保護に関し過去に公表された他のすべてのマニュアルと同じく、現実は言葉で書かれたものとはかけ離れている。タンザニアとケニアの難民キャンプで私がインタビューした難民は、自分たちの権利と自由がUNHCRから十分に擁護されていないと強く感じていた。たとえば本国帰還、教育、移動の自由、居住の選択など人生の重大な局面で難民自身が意思決定に参加しているか、という例を取り上げよう。たしかに難民たちは、時にはUNHCRの会議に招かれるが、会議は、すでにUNHCRが政府と事業実施パートナーとの協力で決定した内容を伝えるだけの場となっている。私がインタビューした難民は次のような例を挙げた。難民たちに帰還について考えるように促す、中学校や小さいビジネスの閉鎖、食糧配給の削減[8]、 移動の自由の制限、移動許可取得の遅れ、特に難民の地位決定、セキュリティ上の脅威の査定や個人へのリスクについての独断的な意思決定と実行、そして否定的決定を上告するための効果的なメカニズムの欠如などだ。更に、自分たちで組合を組織しようとする難民やフリープレスは、ときには政府機関からよりもUNHCRのスタッフからしばしばより大きな敵意を向けられる[9]。
UNHCRによる人権と自由の侵害があった場合、難民は、例えば地元の裁判所の介入などを求めることができるだろうか? 目下のところ国連内では実証主義的な法的思考が優位な流れにあり、また国際法律家は国連の内政事情に「干渉」することに用心深いので、国連総会は国連憲章(Art.105 (1))と国連の特権と免除の条約の関連項目を引き合いに出して、「NO」と返答するだろう。UNHCRの行為、行動あるいは不作為のせいで負った人権侵害や危害によって国の裁判所に訴え出ようとする難民の試みには、直ちに事務局から手紙が送られ、独立した法人として国際的な面で活動している国連並びにUNHCRのような系列の機関も含め、全ての機関の法的免除について当該裁判所に思い起こさせることになる。
それでもなお私は、UNHCRは難民の人権と自由を擁護する義務があると結論づける。「国連行政裁判による補償裁定の効果」という事例の国際司法裁判所による判断を見てみよう。もしUNHCRが難民の権利と自由を擁護せず、難民または難民グループに対し人権侵害を与えた責任を負わないのならば、「個人の自由と正義を促進すると謳った国連憲章の目的や、この目的の促進という国連機関の最優先事項と、整合するとはとても言えない」[10]。
ザカリー A ロモ
-------------------------------------------------------------------
[1] R.ヒギンズの、Problems & Processes: International Law and How We Use it, 1994参照
[2] とりわけ国連で実務経験があり、UNHCRは国連から分離された人格を持つものではないとして、UNHCRに人格があるとする主張に異議を唱える著述家たちがいる。これに関しては、P.C.Szaszの”The Complexification of the United Nations System”, 3 Max Planck Yearbook of United Nations law(1999) 6などを参照。
[3] Reparation for Injuries Suffered in the services of the United Nations 〔1949〕 ICJ Rep.174
参照
[4] Id.179
[5] たとえば、R.ワイルドの'Quis Custodiet Ipsos Custodes?: Why and How UNHCR Governance of
“Development” Refugee Camps Should be Subject to International Human Rights Law', 1 Yale Human Rights & Development L.J(1998)107,119参照
[6] UNHCR, Operational Protection in Refugee Camps and Settlements: A reference guide of good practices in the protection of refugees and other persons of concern, Gneva, Switzerland 2006
参照
[7] ID 123
[8] キャンプ内で食糧を確保する代替の拠りどころがないとき
[9] ウガンダでUNHCRと交流を持った経験からすると、UNHCRのスタッフの中には、UNHCRの仕事に人権を組み入れるという理想に賛同するだけでなく、現実に仕事を失うなど大きなリスクにさらされながらも、難民の権利と自由に相反する活動命令に従わず、難民の権利と自由を擁護する人たちもいる。
[10] Effect of Awards of Compensation made by the UN Administrative Tribunal 〔1954〕 I.C.J
Reports, 47, 57.参照
【漫画】
女性職員:「難民としてケニアに来て何年? UNHCRに望むことは?」
男性難民:「17年になります。どうか、もう勘弁してください。頼みますよ。ほとほとまいってます」
プロテクション・オフィスから顔を出している人たち 「グアンタナモから来たのかな?」 「それとも監獄?」 「まさか。カクマっていう巨大難民キャンプからさ」
かげの声:「ふーん、カクマってところはグアンタナモ並ってこと?」
〈著者:ザカリー・A・ロモ〉
法学士(ウガンダのマケレレ大学LLB) 法学修士(ハーバード大学LLM)
2001年7月から2006年8月までマケレレ大学法学部にて難民法プロジェクトを指導。難民法プロジェクト(RLP) ワーキングペーパー・シリーズでは、ウガンダ北部での戦争の原因に関する「暴力の背景」および「平和交渉」、「誰の正義か?」を共同執筆している。現在、国際法と難民の研究で博士号を取るためケンブリッジ大学に在籍。
先に掲げた質問にどう答えるかは、国際法とその機能についての見方によって異なる。私の答えはYESで、その理由を簡単に説明すると以下のようになる。UNHCRには難民の権利と自由を擁護する義務がある。またUNHCRの行動や怠慢、あるいは明らかにその決定や政策、実践によって被害を受けた難民がいれば、UNHCRはその難民によって提訴されるべきである。私がこの結論に達したのは、国際司法裁判所のロザリン ヒギンズ所長など国際法の専門家の見解に同調できるからだ。つまり国際法とは「秩序ある行動システム」のことで、「共通の価値観を達成するための抑止力になる。その共通の価値観とは、我々が富んでいるか貧しいか、肌の色が黒いか白いか、宗教を信じるか無宗教か、あるい、先進国出身か途上国出身か」[1]に関わりなくすべての人に共通の価値観である。私としてはさらに付け加え、難民か否か、従来の国際機関か国際機関の支流的組織か、それとも民間の自主的機関かに関わらず、我々が持っている共通の価値観と言いたい。古典的で実証哲学主義の国際法律家は、国際法とは規則の集合、あるいは「現状の法律」、即ち、法令全書や条約や国が長期の実践と伝統により受け入れてきた法律、あるいは裁判所が法律とみなしてきたものが法律だと主張する。彼らは訴訟手続きや規範的なシステムは単なる政策と政治であって、法律ではないという見方に基づき、上記の国際法の定義には反対している。
実証哲学的な国際法の専門家からすれば、最初に掲げた質問への答えは「NO」になるだろう。つまり、UNHCRは難民の人権を擁護する義務はない。なぜならUNHCRに難民の権利擁護の義務があると明示する法律は、どんな法令や条約にもないからだ。こう考える国際法律家の一派は、難民を保護するために難民と接触し行動計画を策定するUNHCRの権利ばかりを強調し、UNHCRの悪弊は、UNHCRの仕事が難民にとって全体的に善いという統計分析で相殺されるとしている。言い換えれば、難民の権利擁護に関する質問は国に向けられるべきであって、UNHCRのような国際機関に向けられるべきではないという。これらの法律家や現実主義者は、難民が野営をしなければならない現実や難民自身が状況を改善する必要性については語るが、他の考えは「政策と政治」の問題であり法律の問題ではないとして、ごみ箱に投棄してしまうだろう。
私は、法に対するこれらの機械的で国家中心的な考えに違和感を覚える。国際的であろうとなかろうと、私は「YES」と言明する。UNHCRには難民の人権を擁護する義務があるのだ。擁護されるべき難民が南半球の多くの国で野営状態にあろうが、特にアフリカで基本的原則や政策の事情で野営させられていようが、また難民がキャンプや居住区の外に住むことを選ぼうが、UNHCRには擁護義務がある。もし国際法が「権威ある決断」を下して難民の人権など共通の価値観を達成できる規範システムだとすれば、国連憲章、人権法、一般的な国際法、UNHCRの事務局規定も合わせ読むことで、UNHCRは難民の権利を擁護する法的義務を持ち、難民を単なる受動的被害者や人道援助等の受領者としてではなく人間として扱うべきだと主張できる根拠になる。
UNHCRの権力と機能を定義する法令は、難民の権利と自由を尊重し擁護するUNHCRの義務を説明する出発点になる。同法の第1条では主に、UNHCRは「国連の援助の下、難民への国際的な保護を提供する機能を想定しなければならない……」と規定し、同法第8条では、UNHCRが保護下にある難民を保護する際の9つの手段を規定している。その法規定は、UNHCRの権限と活動を確立し定義した国連総会決議 1949年12月3日319A(Ⅳ)と、1950年12月14日428(V)と共に、高等弁務官の「秩序ある行動システム」を定めたと言える。これは難民の人権保護と、難民問題の解決に向けて国を助けるという「共通の価値観の達成」を目指すものである。これらは事実上、国連の直属機関としてのUNHCRに、人類共通の目標である難民保護の権利を与えることになる。しかしながら難民保護の権利は、難民の権利擁護という義務を伴う。UNHCRは各国が難民保護の義務を履行するための手続き基準として1951年の難民条約を定めたが、それだけでは十分でない。UNHCR自体が難民の権利を尊重し擁護する姿勢を見せなければならない。
法令起草の歴史を見ると、草案者はUNHCRを難民の人権の「保証人」で「擁護者」(適切な言葉がないのだが)にするつもりだったことがわかる。同法令によって、また、その後1951年の難民条約によって定義されている難民の人権は、国連総会と社会問題を討議する国連第三委員会の双方で法令の立案を議論した各国代表団メンバーの理想論と、彼らの言葉のイメージを、明確に取り入れている。国連のフランス代表団の一人、ロシュフォール氏は、総会の第5セッション、第325回の会議で法令立案の議論に貢献し、UNHCRの設立を支持するように他の代表団を促した人物で、UNHCRは「世界中の多くの難民に希望をもたらす新しい箱舟になる……」と述べた。「新しい箱舟」いう表現は代表団に、大雨に続いて起きた洪水からノアの家族を助けた聖書のノアの箱舟を思い出させ、また難民を生み出した人権乱用や亡命中に難民が直面する人権乱用の「洪水」を代表団に強く思い起こさせた。さらには、言論の自由、報道の自由、宗教、組合、移動、教育、健康へのアクセスといった難民の人権と自由を保証し守るUNHCRのような機関を設立する必要性も思い起こさせた。それだけではない。重要なのは、権利と自由を奪う政策に難民が挑戦することも含め、難民は難民の共益を目指す活動に参加する権利を持っていることを示唆している点だ。
第二に、国際法の問題として、UNHCRには難民の権利を尊重し擁護する法的な義務がある。なぜなら、UNHCRは国際的な人格を持っているからだ。つまりUNHCRは明確な法律上の人格として権利と義務を持っている[2]。したがってUNHCR は訴えることができると同時に、訴えられることもあるということだ。しかし実際は、後で説明するが、技術的、実証主義的意味で、難民がこうむった危害や不正のことでUNHCRを裁判所に提訴するのは不可能である。国際法上の人格を持つ者のもう一つの特徴は、国際的な法人格の行動や怠慢による不正や危害に責任があるということだ。法令にはUNHCRが国際法上の人格を持っているという明白な記述はないが、国際的な人格がUNHCRにあることは、法令と国連総会の決議によりUNHCRに委託された権威と任務によって説明できるし、1949年に判決が下りた「国連の支援でこうむった不正への賠償事件」で、国際司法裁判所(ICJ)が表明した国際機関への国際的な人格帰属の原則から類推することでも説明できる[3]
この事件では、国連の国際法上の人格問題が焦点になった。国連憲章には、国連が国際的な人格を持っていることはまったく記載されていない。ICJは、国連の国際法上の人格と、事実上他のあらゆる国際機関の国際法上の人格は、その能力、機能、創設者の意図からの「必然的な推論」によって推定することができるし、これによって裁判所は、国連には国家とは明らかに異なる独自の国際法上の人格があると結論づけた。裁判所の分析を借りれば、UNHCRは国連総会で、特定の目的を実現するために創設され――難民への国際的な保護を提供し、国家が難民問題の解決策を見出すために支援する――国際的な次元で任務を実行するために権限を与えられた。法令第8条に明記された一連の活動でUNHCRは、創設された目的を広く実現するために、国家、非国家を問わずさまざまな関係者と係わらなければならない。したがって国連総会のメンバーは、裁判所の言葉で言えば、「これらの機能が効果的に発揮されるのに必要な法的権限」をUNHCRに「かぶせた」と言える[4]。 その結果、UNHCRは、その機能を発揮する過程で、難民に国際的な保護を提供する権利があり、難民の人権と自由を尊重し擁護する義務がある。
第三に、国際人権法はUNHCRが難民キャンプ内であろうと、居留区内であろうと、あるいは自然発生的に移り住んだ場所であろうと難民の人権と自由を擁護する義務も課している。実証主義の法的観点からすると、そのような義務は存在しない。なぜなら人権に関する国際的な法律文書は、国家間で合意した条約に過ぎないからだ。たとえば、1951年難民条約は国家側に難民への権利と自由を委託し、その権利を擁護するように義務化したものだ。難民条約はUNHCRに監督の役割を与える一方、難民の権利擁護義務は国家に課しているだけで、UNHCRには直接的な義務を課していない。しかし規範的な視点、つまり、国際法の観点からすれば、国際法とは、この場合は難民の人権と自由の擁護という共通の価値を達成するため行動を抑制して秩序を持たせる規範的システムなので、UNHCRには人間としての尊厳ある難民の人権と自由を擁護する法的な義務がある。この観点では、国連憲章や人権に関わる国際協定書は、国家だけに適用される趨勢やシステムではなく、権威と権力を与えられたすべての者に対して規制力を持つ「規範的行動システム」とみなす。したがって、その規範からの離脱や違反には――国家であろうと国際機関であろうと――代償が課せられる。実際、国連憲章の前文にはこの観点を反映する言葉がある。
「われら連合国の人民は、
われらの一生のうちに二度まで言語に絶する悲哀を人類に与えた戦争の惨害から将来の世代を救い、基本的人権と人間の尊厳及び価値と男女及び大小各国の同権とに関する信念をあらためて確認し、正義と条約その他の国際法の源泉から生ずる義務の尊重とを維持することができる条件を確立し、一層大きな自由の中で社会的進歩と生活水準の向上とを促進すること……」
連合国の人々の経験と、人権が疑いなく守られる平和な世界を目指して働こうという決意とが述べられたこの行は、第1条の新しい機関の具体的な目的へと続。その目的の一つとは「すべての者のために人権及び基本的自由を尊重するように助長奨励する」ことだ。もちろん、「すべての者」の中に難民も含まれる。したがって、国連、国家そしてUNHCRを含む他の国際機関すべての関係者は、いかなる状況下にあろうとも、難民の権利と自由を擁護しなくてはならない。難民が人間として完全な成長と発展を遂げる権利と自由は、本質的なもので、奪うことはできない。UNHCRが難民の人権と自由を擁護しなくてはならないという見解は、「UNHCRが国際的な法人格を行使する際の特別な事情」に基づき義務には制限があるとみなす何人か執筆者とは明らかに異なる[5]。
決定的なのは、UNHCRはキャンプや居住区の管理をしているので、難民の人権と自由を擁護する義務は更に増大することだ。理論的には南半球の国々の政府が責任を負うことになっているが、実際は異なる。私は2008年の秋にタンザニア、ケニアのキャンプを訪れたことがあるし、ウガンダでは難民保護の体験もしている。これらの国々はどこも、政府が責任を担っているように装っている。しかしキャンプの中に入り、観察を開始し、難民、政府、UNHCRの職員と対話してみると、難民とキャンプを実際に管理しているのはUNHCRだということが明らかになる。キャンプのほとんどのプログラム――水、衛生、教育、セキュリティ、避難所――に資金を提供しているのもUNHCRだし、自動車は政府関係者に寄贈されたものもUNHCRの事業実施パートナーに寄贈されたものもすべて、UNHCRの紋章とナンバープレートをつけている。またキャンプに入るには政府の許可が必要な一方、一般社会と隔絶されたこれらの場所の真の門番はUNHCRだ。キャンプの中には、難民がキャンプを出る際の許可もUNHCRから取らなければならないところもある。現実には、UNHCRが難民キャンプや居留区内のすべての活動を管理している。このようにUNHCRがキャンプでの活動をすべてコントロールしている兆候がある以上、国際法上の義務を伴う。その一つが難民の権利と自由を擁護することだ。
UNHCRは最近、その機能を履行するには、難民の人権を擁護することが重要だと気づいたようだ。例えば、2006年のマニュアル「難民キャンプ及び居留区における業務上の保護」という参考指針では、「保護の実行に改善を求め」ており、「女性、男性、少女、少年の難民は、保護と今後の生活に関する意思決定に貢献し参加する現役の尊敬すべきパートナーであり、彼らとの連携を強化している」とある[6]。UNHCRは、難民保護実現の重要な方法論として「人権に基づいたアプローチ」を強調している。「権利に基づくアプローチでは、あらゆるプログラムのあらゆる側面で、人権の原則が指針となる。アセスメントと分析も含めた計画立案の過程、プログラムの設計(目的、目標、戦略の設定を含む)、実施、モニタリング、評価もその対象となる」と述べられている[7]。
これら建設的な発展がある一方、例えば――女性、子ども、保護者のいない未成年者といった難民の――難民保護に関し過去に公表された他のすべてのマニュアルと同じく、現実は言葉で書かれたものとはかけ離れている。タンザニアとケニアの難民キャンプで私がインタビューした難民は、自分たちの権利と自由がUNHCRから十分に擁護されていないと強く感じていた。たとえば本国帰還、教育、移動の自由、居住の選択など人生の重大な局面で難民自身が意思決定に参加しているか、という例を取り上げよう。たしかに難民たちは、時にはUNHCRの会議に招かれるが、会議は、すでにUNHCRが政府と事業実施パートナーとの協力で決定した内容を伝えるだけの場となっている。私がインタビューした難民は次のような例を挙げた。難民たちに帰還について考えるように促す、中学校や小さいビジネスの閉鎖、食糧配給の削減[8]、 移動の自由の制限、移動許可取得の遅れ、特に難民の地位決定、セキュリティ上の脅威の査定や個人へのリスクについての独断的な意思決定と実行、そして否定的決定を上告するための効果的なメカニズムの欠如などだ。更に、自分たちで組合を組織しようとする難民やフリープレスは、ときには政府機関からよりもUNHCRのスタッフからしばしばより大きな敵意を向けられる[9]。
UNHCRによる人権と自由の侵害があった場合、難民は、例えば地元の裁判所の介入などを求めることができるだろうか? 目下のところ国連内では実証主義的な法的思考が優位な流れにあり、また国際法律家は国連の内政事情に「干渉」することに用心深いので、国連総会は国連憲章(Art.105 (1))と国連の特権と免除の条約の関連項目を引き合いに出して、「NO」と返答するだろう。UNHCRの行為、行動あるいは不作為のせいで負った人権侵害や危害によって国の裁判所に訴え出ようとする難民の試みには、直ちに事務局から手紙が送られ、独立した法人として国際的な面で活動している国連並びにUNHCRのような系列の機関も含め、全ての機関の法的免除について当該裁判所に思い起こさせることになる。
それでもなお私は、UNHCRは難民の人権と自由を擁護する義務があると結論づける。「国連行政裁判による補償裁定の効果」という事例の国際司法裁判所による判断を見てみよう。もしUNHCRが難民の権利と自由を擁護せず、難民または難民グループに対し人権侵害を与えた責任を負わないのならば、「個人の自由と正義を促進すると謳った国連憲章の目的や、この目的の促進という国連機関の最優先事項と、整合するとはとても言えない」[10]。
ザカリー A ロモ
-------------------------------------------------------------------
[1] R.ヒギンズの、Problems & Processes: International Law and How We Use it, 1994参照
[2] とりわけ国連で実務経験があり、UNHCRは国連から分離された人格を持つものではないとして、UNHCRに人格があるとする主張に異議を唱える著述家たちがいる。これに関しては、P.C.Szaszの”The Complexification of the United Nations System”, 3 Max Planck Yearbook of United Nations law(1999) 6などを参照。
[3] Reparation for Injuries Suffered in the services of the United Nations 〔1949〕 ICJ Rep.174
参照
[4] Id.179
[5] たとえば、R.ワイルドの'Quis Custodiet Ipsos Custodes?: Why and How UNHCR Governance of
“Development” Refugee Camps Should be Subject to International Human Rights Law', 1 Yale Human Rights & Development L.J(1998)107,119参照
[6] UNHCR, Operational Protection in Refugee Camps and Settlements: A reference guide of good practices in the protection of refugees and other persons of concern, Gneva, Switzerland 2006
参照
[7] ID 123
[8] キャンプ内で食糧を確保する代替の拠りどころがないとき
[9] ウガンダでUNHCRと交流を持った経験からすると、UNHCRのスタッフの中には、UNHCRの仕事に人権を組み入れるという理想に賛同するだけでなく、現実に仕事を失うなど大きなリスクにさらされながらも、難民の権利と自由に相反する活動命令に従わず、難民の権利と自由を擁護する人たちもいる。
[10] Effect of Awards of Compensation made by the UN Administrative Tribunal 〔1954〕 I.C.J
Reports, 47, 57.参照
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます