Kakuma News Reflector 日本語版

カクマ難民キャンプの難民によるフリープレス
翻訳:難民自立支援ネットワークREN
著作権:REN(無断引用転載禁)

2009年2月号 難民の権利を誰が認めているだろうか? ケニアの難民に報道の自由はあるだろうか?

2009年07月06日 | 寄稿
序:キャンプの環境

報道の自由あるいは言論の自由の権利は、ケニアの国内法とともに、国際人権法により、正当に承認されている。ケニアの難民は、ナイロビ、モンサバ、ナクルの都心部と郊外、及びカクマやダダーブの難民キャンプに住んでいる。基本的な疑問は、キャンプという環境で、難民たちは国際条約及び国内の協定、即ち1951年難民の地位に関するジェノバ条約、及び1969年アフリカ難民問題の特殊状況に関わるアフリカ統一機構条約で定められた人権を、十分享受できているかどうかということだ。

この論説では、ケニアの法律面に焦点を絞り、ケニア政府や人道支援団体で働く人一般を含む利害関係者が、移民の人権を認めているかどうかという疑問に答えていく。もっと具体的に言えば、難民や庇後希望者と共に又はその中で働いている全ての人が、難民の権利、特に報道の自由を認めているだろうか? キャンプという環境の中で、難民たちはこの権利をどのように行使しようとしているのだろうか? またキャンプでは、あらゆる権利の中でも特に移動の自由の享受が制限されていることを忘れてはなるまい。

人権論

難民や庇護希望者にとって、報道の自由という権利は、人権論と一体をなす。この権利追求の発想の源は、国連加盟国の間で合意された幾つかの条約や国際的規範である。世界人権宣言(UDHR)、その後の「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」(ICESCR )と共に「市民的及び政治的権利に関する国際規約」(ICCPR)の条文が想起されるだろう。ケニアでも、これら全ての条約・規約が批准されている。

人権に関する国際条約は多いが、人権一般の享受、その中でも報道の自由の享受は、そう簡単でないことは覚えておくべきだ。権利は与えられるものではない。権利を享受しようとする個人やグループは自らその権利を求め続け、手に入れなければならない。特に報道の自由は、利害関係者の関わり方や報道の自由が暴く又は暴こうとする内容によって、しばしば異なった解釈がなされる。国が、安全保障という口実のもと、この権利を制限するかもしれない。また人道支援機関のような権威が、例えば難民にこの権利を享受させると混乱が生じ批判を生む糸口になりかねないという理由で、権利の行使を制限するかもしれない。

実は、報道の自由とは表現の自由への権利で、幾つかの条文にも記載され法的根拠を持っている。難民がケニアに保護されている事実、庇護希望者に難民保護を要求できる正当な権利が与えられている事実は、彼らにも権利があると信じる協力者の活動の軌跡を物語っている。協力者リストのトップは当然、ケニア政府である。ケニア政府は難民が居住することを許可し、UNHCRやWFP等の国連機関が難民キャンプで活動することを許可している。これは難民や亡命者が正当な権利を保有していることを明確に示している。逆に言えば、政府やUNHCRには、権利を持つ人達が正当に権利を享受できるように保証する義務がある。だからおそらく、政府も司法当局もNGOも、さらには難民も庇護希望者も、難民はケニアの移民の中の特殊なグループとして、その権利を認めているのだ。報道の自由も例外ではない。

しかしこの点に関して、UNHCRの活動を取り上げなければならない。UNHCRは、難民認定(RSD)や適格検査を実施している。これは本来、受け入れ国の義務とされている機能だが、UNHCRはケニア政府に代わってこの機能を果たし、ケニア政府を助けている。だからUNHCRがケニア政府に迎合する可能性もある。難民が報道の自由の権利を行使してUNHCRの活動について書こうとすると、その行為が否定的に捉えられることがあるのはこの為だ。キャンプでの役割が逆転した結果かもしれない。報道の自由を行使する中で、難民はNHCRやそのパートナーの仕事ぶりを躊躇せずに非難するだろうから。

ここで生ずる基本的な疑問は、難民が権利を行使する時、書くことに慎重でなければいけないか、ということだ。プロとしての倫理に服さなければならないのか。KANEREのように、インターネットで伝達される方法をとる場合、難民はバランスよく話さなければならないのか。私は以下二つのことについて、独断的に語り問いたい。1)権利の行使において難民は法律に縛られるべきか。2)難民の権利を抑えたものは、法律を犯したことにならないのだろうか。

KANEREに関する報道の自由の行使 

Kakuma News Reflector(KANERE-以下KANERE)は、報道の自由を行使したいという地元ジャーナリストと難民ジャーナリストを呼び集めた。この行動により多くの疑問が浮かび上がったが、その中でも特に鍵となるのは、ケニアの司法管轄下にある全ての難民と地元の人々は、報道の自由の権利を持つのだろうかという点である。この権利は本来表現の自由に関係している。しかしながら報道の自由は、ジャーナリストが感じたことを、なんでも全て報道して良いという絶対的な権利ではないことに注意すべきである。特に正確でないことや、書いたことが誰かを傷つける報道に関して、これがあてはまる。つまり報道の自由には報道に携わる者の倫理が求められるが、難民といえどもこのルールを免れるものではない。しかしながら、何の理由もなくこの権利を制限することは、ケニア政府が批准した国際人権条約に違反するだけでなく、基本規範であるケニアの憲法にも反する。そして、難民の権利を特に定めた2006年難民法にも反する。

背景をチェックしてみると、次のようなことが浮き彫りになる。KANEREは登録上の問題を抱えている。その理由は、報道の自由を行使しようとするKANEREの意図が、難民と共に働いている関係者たちによってまだ承認されていないという一語につきる。ここで言う関係者の中には、ケニア政府も含まれる。ケニア政府は、キャンプという環境の中で活動するコミュニティーベースの組織、KANEREの登録を妨げている。この論説が書かれるのには、こうした背景があるのだ。

実は、ケニアの法的体制は、難民による報道の自由の主張を支持している。次の文は、ケニアの憲法と2006年難民法からの関連する条例である。

ケニア憲法。ケニア憲法5章は、「個人の権利と基本的自由」を保証している。その70条を71~83条と併せて読むと、個人の権利と基本的自由は難民にも適用されるとみなされる。全ての権利と基本的自由が、今ケニアの難民キャンプで生活する難民に適用されるのである。事実、70条は条約で定められた難民の定義の要約と読める。なぜならば、迫害に対する充分に根拠のある恐怖を生じさせた、所謂5つの重要根拠に触れているからである。難民の地位に関する1951年の条約の第1条に従って、ケニア憲法は人種、宗教及び差別一般を規定している。

個人の権利と基本的自由には、集会、結社、及び表現の自由が含まれる。これらの権利や自由のいずれかが脅かされた場合に備え、憲法84条は強制条文を規定している。ケニアの司法管轄下にある全ての人は、彼らの権利が侵害されていること、侵害され続けていること、あるいは侵害されそうになっていることを、憲法裁判所に申し立てることができる。したがってKANEREのケースに含まれる諸々の懸念を考えると、憲法が規定するこれらの権利の享受を脅かす全ての者に対し、挑戦すべきことは明らかである。

2006年難民法。難民法は第16条で、ケニアが調印し又は批准した全ての人権条約を具体化し、ケニアに準じたものになるよう規定している。即ちケニアでは全ての人権条約に謳われている集会、結社、及び表現の自由に関する難民の権利が保護され、ケニアの法律の一部となっていることを意味する。このことだけをみても、KANEREの支援を受けてジャーナリストが表現の自由を行使しようとすることは、法への違背とみなすことはできないし、みなすべきでもない。なぜなら、それは単に難民が自由を表現し、権利を享受するための一つの手段にすぎないからだ。

事実、もしKANEREのメンバーが報道の自由の行使が侵されていると感じるなら、ケニア憲法のもと、84条の強制条項にしたがって、憲法裁判所に申し立てることができる。同時に彼らは難民法16条によって、報道の自由の行使に関する解釈を、憲法裁判所に求めることができる。

さらに情報の自由に関する法律が最近ケニア議会で制定され、個人と法人による権利享受への一里塚となった。これこそKANEREが目指す方向に沿うものであると私は信じている。

結論

KANEREあるいは他のメディアを通じて、難民が報道の自由の権利を行使しようとする時、その権利を抑制するのがあたかも正しいことのように言われるのに、私は不満を覚える。KANEREが例えばケニアの安全保障等、何らかのことを脅かすものとみなすべきでない。それはしばしば典型的な官僚が主張することである。難民あるいはケニアの人々から声高に主張される個人の自由の拡がりを恐れるよりも、ケニアにはもっと心配すべきこと、緊急を要することがたくさんある。

ケニア憲法や難民に対する特別法を横においても、囚人やその他自由が制限されている人達でさえ享受できる残余権の原則がある。難民も例外ではない。つまり、誤解してはならないが、難民と共に活動している人が囚人だと宣言する場合を除いて、難民は囚人と同様に扱われていい存在ではない。

難民がキャンプに居住できるのは、難民と共に活動している人達の力で導入された政府施策のお陰であって、難民はキャンプに住めと規定している法律がある訳ではないことを、私は強く訴えたい。難民をキャンプに留め置いても、あるいは“収容”したとしても、難民の権利、特に報道の自由の権利を奪うものではない。さらに難民は、祖国で全うできなかった職業上の手法を持ちこむことも忘れてはならない。ジャーナリズムに携わってきた人もいれば、逃避によってジャーナリストとしての道を閉ざされた人もいる。

最後に、私はフィリップ・ハルスマンの “難民は一握りの身の回り品だけを、新たな国に持ち込むものではない。アインシュタインも難民であった” という蘊蓄ある言葉に、しばしば導かれてきた。ケニアの難民もまた、彼らの職業を持ち込み、その仕事に熱意を傾けているのだ。

著者のバックグランド:エクル・アウコット(Dr.Ekuru Aukot)は英国ウォーリック大学ロースクールから国際難民法に関するPhDを取得した。ナイロビ大学ロースクールの学位取得者レベルの人に、難民とIDPの法律の講義を受け持ち、ケニア高等裁判所弁護士、NFDCHR(北部辺境地域人権調査機関)の共同設立者兼ディレクター、キツオ・チャ・シェリア(Kituo Cha Sheria-The Center for Legal Empowerment)のエグゼプティブ・ディレクター、ケニア法律会議メンバー等を務めている。本論説の執筆にあたっては、キツオ・チャ・シェリアにより設立され、難民や庇護希望者が何時でも立ち入り、ケニアにおける人権の行使に関係する法律面の事項について自由に見解を求めることができるUPIP(都市難民調停プログラム)センターの活動に大いに助けられた。URIPの同僚であるサニヨ(イースレイの難民の権利をキツオで初めて主張した大変優秀なオロモ難民)、ラバン、モーゼス、オキリング(弁護士でウガンダの政治改革の熱心な推進者)及びザーラの、URIPセンターでの活動に、深く感謝したい。


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