またまた仕事の昼休みに・・・・・京都市下京区図書館へ
≪正岡子規・革新の日々≫と≪子規と四季のくだもの≫の二冊借りました
色々と私の知らない子規を知りました・・(お前だけが知らないにゃ)
《この二冊です 最初≪革新の日々≫を見て、亡くなる時の描写に・・・そして横の≪子規と四季・・・≫が目に入り・・二冊とも》
タイトルの・・・超有名な≪柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺≫・・・・・
秋冷えのする斑鳩の里に・・・ゴーンと鐘が鳴った時・・・・・
それは明治28年10月24日の夕方・・・法隆寺門前の茶屋
正岡子規、時に29歳、・・・・この名句の誕生を右上の【子規と四季のくだもの】から
~子規は朝早く大阪を発つ。明治25年に開通した大阪鉄道奈良行きの客となる
紅葉の名所、竜田川を吟行、その足で法隆寺に寄る。 病後の子規には
今日一日の旅は疲れが激しかったが、寺内千三百年の伽藍、御仏に会い
緊張と興奮で疲れをすっかり忘れさせてくれた。
茶屋に腰を下ろし。好きな柿を食べていた丁度その時、荘厳な鐘の音、
千三百年の響きが子規の終生の名句を生んだ。
明治を代表する俳人正岡子規、生涯二万三千余という厖大数の作句中、
今日でも大勢の人々に知られる秀逸な句だ~
とあります、・・・・まるで子規が目の前で柿を食べているような見事な描写ですね
このようにして、鐘の音が突発的に子規に名句を齎したんですね
ところで正岡子規は本当に柿が大好き人間やったんです
子規の柿好きについて・・・・・この【子規と四季のくだもの】には・・・・
~われ死にし後は・・・・・柿喰ヒの俳句好みしと伝うべし
青白き少年は勉強と果物を好んで長じた。
俳聖子規と称されるよりも、無類の柿好きな男が俳句を好んだと
弟子たちよ伝えてほしい、とこの句を詠むくらいに子規は柿が好物であった。
また、親友の夏目漱石が小説≪三四郎≫の中でこの様に書いている
~「子規は果物が大好きだった。且ついくらでも食べる男だった。
ある時大きな樽柿を十六食ったことがある。それでも何んともなかった。
自分などは到底子規の真似は出来ない。・・・三四郎は笑って聞いていた」~
柿くふも今年ばかりと思ひけり
明治34年の10月にお弟子よりきざ柿が贈られてきてそのお礼に呼んだ句、
既に6年の闘病生活、今年の秋は生きながらえて好物の柿を
食べる事が出来たが、来年の柿の季節まではとても生きてはいないだろう
と・・・・・喜びと絶望をこの句に表し、事実翌年の九月十九日に不帰の客となる
この本の二ページ程しか進んでいませんが・・・まずは名句の誕生をと思い
さて以前にブログしているかも知れませんが・・・正岡子規の十代の作品
俳句ではなくて、漢詩を載せます、松流の作譜と一緒に・・・・・
《正岡子規11歳の作品です、この歳にして≪血に啼いて聞くに堪えず≫と詠っています・・・9年後には現実に》
《私が、四十二・三年前に確立した吟道松流の譜面です、見るだけで誰にでも吟じられるようにと創りました》
子規が11歳の時に、もう既に結核で死ぬとでも思っていたのでしょうか
まさか其れはないでしょうけど、自分の9年後を予言しているような
子規のもうひとつ凄いのが、19歳で初めて血を吐きます・・・・・
そして、この詩じゃないですが、啼いて血を吐く・・・から
子規という、号を付けるのですから、正岡子規の凄さがここにある
もっともっと子規の凄さを、ブログしていく予定です・・・宜しく