輝さんの”二十歳の火影”を最近になってブックオフで手に入れた・・・・・
私は宮本輝文庫なるものを勝手に自宅に設けている、もちろん単行本で
あと三冊ほどが抜けている中の一冊がこの”二十歳の火影”だった
輝さんと富山は切っても切れない・・・じめっとした中にほのかな甘さがある
この本の中にある、『私と富山』を読んでいて、・・・・
ふと、母と1年近く過ごした伏見での思い出のごく一部が、鮮明に浮かんでくる
母は、平成23年の1月の3日に91才で天寿を全う致しました、・・・
その顔はピンク色で微笑んでいるではありませんか、近所の学会員さんが
「私もこんな死に顔で逝きたいもんや」と言われたぐらいの大往生でした・・・・・
そんな母と6歳の私が伏見へ引越したのが昭和24年やったと記憶しています
その時母は、ある社長さんのお世話になっておりました、その人の妹さんの家に
住む事になったのでした、・・・・・細かい事は何も覚えておりませんが・・・その日
伏見に着いたときの事、・・・商店街から”かりそめの恋”が聞こえてきたのでした
もちろん6歳の私が、口ずさんだわけありませんが何故か不思議に覚えているのです
~夜の銀座は七色ネオン、誰にあげよか唇を、かりそめの恋、ああ虹の恋・・・・・~
なぜこの歌が、耳から離れないのか・・・・わかりません・・・
今でも、懐メロで聞くとあの商店街が・・・・・(歌手は三条町子だったかな)・・・
なのにその商店街が伏見の何処にあったかもわかりません、
それから何ヶ月過ぎたのかもわかりませんが、昭和25年の4月に伏見の板橋小学校に
入学するのです、でも二学期は東山の六原小学校に転校しています・・・・・
もう一つ鮮明に覚えているのが、伏見から移った東山松原の家に祖母が
私を引き取りに来た事です、「いやや!行かへん・・・」と言って泣いた事です
そんなわけで、三学期からは、祖母の北区の鳳徳小学校に転校しました
私が結婚するまで北区紫野の祖母と祖母亡き後は伯母(母の姉)の世話に・・・
私の思い出は殆んどこの紫野でのことですが、伏見の思い出だけが今も・・・
”かりそめの恋”と共に母と二人だけの、たった一つの甘酸っぱい思い出として
消えることなく残っております・・・・・私が宮本輝の大フアンなのは、
言葉の素晴らしさはもちろんの事、何故か全編に富山の風が色濃く漂っていて
妙に落ち着く感じが好きだからかも知れない・・・今、≪30光年の星たち≫を二回読み
三回目に入る前に、【二十歳の火影】をゆっくりと読んでいるところです