松ひとり言

谷藤松で御座います。
末永くお付き合いの程よろしくお願い致します。

わ~い!400回やぁ・・・伊藤若冲の≪石峰寺≫特集

2016年04月30日 14時14分02秒 | 日記

昨日の事です・・・昭和天皇の誕生日のこの日・・昔の天長節

先に二つブログしましたが (後亀山天皇陵と後小松天皇陵)

嫁はんの運転で・・(私運転できない)三ヶ所周って貰いました

最初は、二つの天皇陵だけの予定が、石峰寺が近くに在ったので三ヶ所に

そして今回、(平成25年の8月18日の70才に誕生日から始めて)400回記念に

偶然・・・ブログ400回、伊藤若冲生誕300年、そして私・松吟道50年の重なり

いや~目出度い・芽出度い (お前の方が目出度いやろ~)・・・それでは

それが三ヶ所とも道に迷いまして、中々目的地に着かないのです・・・ナビがあるのに

中でも石峰寺には近くまで行っているのに・・・うんざりした頃にやっと着くと言う有り様

石峰寺の駐車場に入れたのですが、今度は入り口が判らない、・・・それが

こんな所から入るんですかという様な (まるで民家の庭を通り抜けるように)道を受付が見えます

 

 

イキナリ受付の前に出てきたのです、庭だけなら(若冲の作った羅漢さんが並ぶ)300円

受付嬢が『今回特別に常見れない若冲の作品が見られますが・・・』ハイといったら1000円に

写真撮影はダメなので絵葉書を買ってきましたので・・・

この写真はネットで調べたもの・・・・室内は撮影禁止なので・・・・この雰囲気で若冲と対話するように間じかで見れました

   

     

全て・・・クリックして見て下さいね、絵葉書とパンフレットです・・・では若冲五百羅漢像へ・・・・先ずは若冲の墓から

 

     

      

      

《若冲が下絵を描いて、それを寺の人達が石に刻んだのが、若冲五百羅漢像なんですって大きくして表情の一つ一つをご覧下さい》

 

《黄檗山萬福寺を本山とするだけあって、宇治の萬福寺の中国風の建物に似ていますね、この門がもう一ヶ所あります、そこで

 

《外人さんが沢山来ておられました・・・・右の写真が、奥にご本尊が見えていますね、上には石峰寺の額が掛かっていました》

 

《二つ目の門、本当は一つ目・・・ここが入り口だから 振り向いて ”びっくりポン” でしたこんな立て看板が(知りませんでした)》

と云う事で・・・とんでもない所から入ったもんで・・・堂々と五百羅漢像を撮っていました

知らない者の強みでしょうか、・・・・取り合えず、ご・め・ん・な・さ・い

 

 

 

 

 

 

 

 


??ナント!後小松天皇陵は【天皇12人】相乗り御陵でした

2016年04月29日 19時22分18秒 | 日記

《だから深草北陵(ふかくさ きたの みささぎ)は別名 ”深草十二帝陵” と言う・・・なんでどす12人もの雑居御陵、びっくりポンや》

  

     《 ”深草北陵” と ”深草十二帝陵” の印が残っている、こちらは昭和初期の写真です今も変わらぬ姿ですね

                

    《御陵の中に、松が植わっているのが珍しいですね・・・後小松天皇と名前に ”松” が入っているので・・・・・かな》

《御陵の真横をJRの緑の電車が通って行きました、”後亀山天皇陵” も ”語小松天皇陵” も本日4月29日に行って来ました》

今日は、旧・昭和天皇誕生日・・・別に意識して御陵めぐりをしたのではないのですが

息子が会社休みで、我が家の愛車≪タント≫が空いていたので、嫁はんの運転で回りました

嵯峨野と伏見深草とは離れているので、助かりました・・・・・それにスペシャル・サプライズ

後小松天皇陵の近くに、伊藤若冲の ”石峰寺” が在ったのでした

ここも、何年も前から訪れたかった寺です、それが若冲生誕300年の記念の年に行けたとは

次回・・・≪松ひとり言≫の400回記念に若冲が登場しまっせ

 


第98代【長慶天皇】の弟で第99代【後亀山天皇】

2016年04月29日 16時29分02秒 | 日記

一週間前に長慶天皇・嵯峨東陵へ行ってから、南朝方4代の天皇御陵を訪ねようと、思いつきまして

第96代・後醍醐天皇が京都から三種の神器を秘かに持って芳野へ脱出(南北朝の始まり)した時の

延元元年(1336)から第99代後亀山天皇が京の後小松天皇に譲位するまでの芳野での56年間が南朝時代

そこで今回、南朝最後の天皇、後亀山天皇 の御陵、後亀山天皇・嵯峨小倉陵(さがおぐらのみささぎ)を訪れた

場所は少し判り難くて、清涼寺(嵯峨釈迦堂)から(1キロの所)鳥居本へ行く道の中程にある(奥嵯峨めぐりの道)

       

《鳥居本への道の左側に入ると参拝道になる、真っ直ぐに50mほど入ると御陵の入り口・・・誠に静かである、石の鳥居が見えてくる》

  

《御陵の手前に表示が・・・後亀山天皇・嵯峨小倉陵とある、(さが おぐらの みささぎ)と読む、長慶天皇の御陵の四分の一ぐらいだった》

 

長慶天皇の御陵の方が新しくて規模も3・4倍大きい気がした、

御陵独特の造りで、正面の気高さと言うか、品格というか

さすが 歴代の天皇陵である、次は・・・・・

後亀山天皇が三種の神器をお返しする、京都・北朝最後の天皇

後小松天皇の御陵、深草北陵(ふかくさ きたの みささぎ)を訪ねます

 

 

 

 


あの≪大魔神≫が大映通りに現われて3年!映画から50周年!

2016年04月27日 12時00分00秒 | 日記

大魔神の映画から、丁度50年を迎えるんですねそこでカメラ片手に現地へ

  

《本日、朝撮りの (タケノコか) ≪大魔神≫ で御座りまする、以前にも載せましたが改めて映画製作50周年を記念してパチリ

《初めての方、凄いでしょう今にも動き出しそうな・・・また、50年前の可愛い高田美和がひょこっと後から顔を出しそうでしょう

 

1966年に3部作として製作されたんですって もちろん観に行きましたよ

昭和41年ですから結婚する2年前ですねぇ~

この映画の特撮監督の黒田義之監督とは親しくさせて頂いていました

同じ創価学会で、その中の芸術部に監督も私も所属していたので・・・

私の家で座談会を行なった時にゲストでお越し頂いた事もあります

一緒に黒田監督ご夫妻と赤提灯の ”赤べこ” で飲んだ事も懐かしい思い出になりました

いま改めて、黒田義之監督のプロフィールを調べてみて・・・びっくりポンでした

少しだけ経歴を紹介してみよう

1928年(昭和3年)に愛媛県松山市に生まれている。

その後、京都市立太秦小学校に入学、子供の頃は映画の子役を・・・

しかし監督は、『映画の世界より、教員になりたい』との思いからから

京都府立嵯峨野高校(当時は女子高)で数学教師を務めていた事もある

何んと黒田監督の叔父に有名な映画監督の ”伊東大輔”や ”稲垣浩”がいる

最初は大映の助監督からの出発で、1950年(昭和25年)の事であった

1958年(昭和33年)理工学部出身を買われて、【日蓮と蒙古大襲来】の特撮助監督に抜擢

後に監督は『これが特撮との本格的な出会いだった』と述懐している

その後、1961年(昭和36年)日本初の70ミリ映画、【釈迦】で的場徹特撮監督の助手を

そして、1966年(昭和41年) ≪大魔神≫三部作の特撮監督を務めるのである   

こんなエピソードがある、≪大魔神≫の役に監督自ら”橋本力”を撰んだ、

監督は橋本に『主役は君なんだよ』と声をかけ、かっと見開いた目の演技を指示。

大魔神の目の演技は大評判となった。

監督はこの様に云っている 『眼はものを言うんだから、電球で光る眼ではドラマが嘘になってしまう

ギョロッと光る眼がものを言うんです。怒りと悲しみ、そういう表情は、電球では表現出来ないですよ』

私が監督と親しくさせて頂くのは、まだまだ後の話であります(昭和60年頃かな

不思議なのは、以前に笛の ”藤舎名生” (当時は推峰)さんに・・・・

私の詩吟の会に出演して頂いた事がありますが、

何んと黒田監督が必殺シリーズでの作品に藤舎名生さんが出演されているのです

黒田監督からこのビデオをお借りした事が大変懐かしい思い出になっています

その黒田監督は昨年の1月22日にお亡くなりになっています・・・ご冥福をお祈りいたします

こんな写真も撮って来ました・・・・・(これも以前にこのブログに載せています)

 

《日本映画の父とも言われている、”牧野省三” さんの顕彰の碑です、大魔神から200メートルほど東にあります、さすが太秦》

この碑の裏に、俳優さんたちと共に、黒田義之の名前を見ることが出来ました

 

 

  

《牧野省三さんの身内である長門裕之、津川雅彦兄弟を筆頭に、東映の岡田社長、藤田まこと、そして・・黒田義之の名前があります》

黒田監督の写真をネットで見つけましたので

  

この若かりし写真と・・・・・おそらく晩年に近いこの写真、初めてお目にかかった時は

この中間ぐらいの年だったと思います、一緒の写真が残ってないのが誠に残念です

右側の写真を見ていますと、なんや胸が熱くなってきます

もう一度・・・・・心よりご冥福をお祈りいたします

 

 

 

 

 


京都発信!足利義満の建立・・嵯峨≪鹿王院≫に初めて

2016年04月24日 19時40分45秒 | 日記

カメラ片手に取材に行ったのですが、パソコンへの入力ミスで全てアウト

翌日もう一度、同じコースを取材して来ました・・・鹿王院に行った時でした

受付の(たぶん奥様かと思う)人が私を見て、あれ と言う顔をされましたので

カメラ取り込み失敗談をお話したところ、『それは気の毒に拝観料は要りませんよ』と

そのお気持ちが大変嬉しくて・・・もちろん自分のミスなので、と拝観料は置いて来ました

何か清々しい気持ちで拝観する事が出来て、ミスが吉と出たのでした

さて鹿王院さんに入らせて頂きましょう・・・先ずはパンフレットからどうぞ

   

  

あの金閣寺で有名な室町幕府の第三代将軍・足利義満の建立なんですね

この鹿王院ですが、参拝者が大変少ないんです、2日間とも私一人でした

『カメラも庭は良いけれど、室内はご遠慮して頂いてます』と言われたのですが

”鹿王院さん、ご免なさい” どうしてもブログで紹介したくってシャッター押しました

では・・・その写真を入り口から順にご覧ください

     

《山門を潜って一歩入ると、緑・緑・緑、です、石畳の参道の両横には苔がびっしり青々と、もう一つ門を潜って、いよいよ客殿に入ります》

 

《拝観料をお支払いして、上の上がらせて頂きました、客殿の正面には足利義満の筆による ”鹿王院” の額が掲げられていました》

 

《振り向くと静かで落ち着いた感じの ”本庭” が我々を迎えてくれます、そして庭の右奥に舎利殿の建物が・・・私を呼んでいるように》

 

《三段ほど降りると、本堂と(正面の白壁の建物)その中に足利義満像がありました、その横の回廊を進むと前方に舎利殿が

 

《義満像を出て、再び回廊を奥に進みますと・・・・舎利殿の入り口に・・・・・自由に入れます・・・今回許可無しで撮影致しました

 

《木の扉を開いて中に入りますと、曼荼羅が出迎えてくれました、中央に釈迦が横たわっています、涅槃の姿ですね、読んでね》

      

《舎利殿の中央に、多宝塔が素晴らしい気品に溢れた姿で、何か身が引き締まる思いに駆られました・・・貴重な写真ですよ》ゴメンね

《大満足で新緑の中に戻って来ました、ここ鹿王院は紅葉の名所新緑の紅葉も中々良いものですよ心があらわれる思いでした》

 

 

 

元の山門に戻って来ました、本当に最高でした(受付の奥様?の優しい心にふれて)

いやー2日連続で来ましたが、来て良かったです

この秋に今度は赤いモミジを写しに来たいものです

もう一度・・・・・無断で写真撮影した事、お詫びいたします