大魔神の映画から、丁度50年を迎えるんですねそこでカメラ片手に現地へ
《本日、朝撮りの (タケノコか) ≪大魔神≫ で御座りまする、以前にも載せましたが改めて映画製作50周年を記念してパチリ》
《初めての方、凄いでしょう今にも動き出しそうな・・・また、50年前の可愛い高田美和がひょこっと後から顔を出しそうでしょう》
1966年に3部作として製作されたんですって もちろん観に行きましたよ
昭和41年ですから結婚する2年前ですねぇ~
この映画の特撮監督の黒田義之監督とは親しくさせて頂いていました
同じ創価学会で、その中の芸術部に監督も私も所属していたので・・・
私の家で座談会を行なった時にゲストでお越し頂いた事もあります
一緒に黒田監督ご夫妻と赤提灯の ”赤べこ” で飲んだ事も懐かしい思い出になりました
いま改めて、黒田義之監督のプロフィールを調べてみて・・・びっくりポンでした
少しだけ経歴を紹介してみよう
1928年(昭和3年)に愛媛県松山市に生まれている。
その後、京都市立太秦小学校に入学、子供の頃は映画の子役を・・・
しかし監督は、『映画の世界より、教員になりたい』との思いからから
京都府立嵯峨野高校(当時は女子高)で数学教師を務めていた事もある
何んと黒田監督の叔父に有名な映画監督の ”伊東大輔”や ”稲垣浩”がいる
最初は大映の助監督からの出発で、1950年(昭和25年)の事であった
1958年(昭和33年)理工学部出身を買われて、【日蓮と蒙古大襲来】の特撮助監督に抜擢
後に監督は『これが特撮との本格的な出会いだった』と述懐している
その後、1961年(昭和36年)日本初の70ミリ映画、【釈迦】で的場徹特撮監督の助手を
そして、1966年(昭和41年) ≪大魔神≫三部作の特撮監督を務めるのである
こんなエピソードがある、≪大魔神≫の役に監督自ら”橋本力”を撰んだ、
監督は橋本に『主役は君なんだよ』と声をかけ、かっと見開いた目の演技を指示。
大魔神の目の演技は大評判となった。
監督はこの様に云っている 『眼はものを言うんだから、電球で光る眼ではドラマが嘘になってしまう
ギョロッと光る眼がものを言うんです。怒りと悲しみ、そういう表情は、電球では表現出来ないですよ』と
私が監督と親しくさせて頂くのは、まだまだ後の話であります(昭和60年頃かな)
不思議なのは、以前に笛の ”藤舎名生” (当時は推峰)さんに・・・・
私の詩吟の会に出演して頂いた事がありますが、
何んと黒田監督が必殺シリーズでの作品に藤舎名生さんが出演されているのです
黒田監督からこのビデオをお借りした事が大変懐かしい思い出になっています
その黒田監督は昨年の1月22日にお亡くなりになっています・・・ご冥福をお祈りいたします
こんな写真も撮って来ました・・・・・(これも以前にこのブログに載せています)
《日本映画の父とも言われている、”牧野省三” さんの顕彰の碑です、大魔神から200メートルほど東にあります、さすが太秦》
この碑の裏に、俳優さんたちと共に、黒田義之の名前を見ることが出来ました
《牧野省三さんの身内である長門裕之、津川雅彦兄弟を筆頭に、東映の岡田社長、藤田まこと、そして・・黒田義之の名前があります》
黒田監督の写真をネットで見つけましたので
この若かりし写真と・・・・・おそらく晩年に近いこの写真、初めてお目にかかった時は
この中間ぐらいの年だったと思います、一緒の写真が残ってないのが誠に残念です
右側の写真を見ていますと、なんや胸が熱くなってきます
もう一度・・・・・心よりご冥福をお祈りいたします
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