松ひとり言

谷藤松で御座います。
末永くお付き合いの程よろしくお願い致します。

今!赤川鉄橋から帰ってきました列車もバッチリ

2013年10月31日 14時58分44秒 | 日記

誠にドンくさい事で、淡路駅から西側やと思い込んでドンドン行くと

鉄橋が出てきましたが、人が誰も居ない・・・おかしいな?

 《神埼川に架かる赤川でも青川でもない・・・ただの鉄橋でした》

結局”おかしいのは自分でした、西側と違って東側やったんです・・・

淡路駅に戻ってホームの下を通り抜けて東側へすると目の前に交番が・・・

          

 《トンネルを抜けたら?・・ガードを抜けたら雪国違って交番が》       《親切ですごくやさしいお巡りさん有難う御座いました》

もちろん飛び込みました、出てきたお巡りさんが「赤川鉄橋ですか?」

何も聞いてないのに向うから・・・飛び込んだのは僕だけと違ったんや

 親切、丁寧に教えて頂いて、目標のパチンコ屋さんへ・・・・

      

  《やっと”目的のパチンコ屋さんが出てきました、裏道を・・》    《やっと、向うに鉄橋が・・・人が多いので今度は間違いない》

その裏をを通って、やっと本物の?赤川鉄橋が現れました

先程と違って、凄い人・人・人でココに間違いないと一安心!

        

  《人・人・人でいっぱいでした、本当はもっと多いかと思ってた》   《赤川仮橋の表示が・・これも今日が見納めです・・淋しい!》

回りまわって、1時間もロスでした、これも最終記念かな?

”しかしながら” 鉄橋に着いて3分程で列車が来たのです

       

 《良い記念になった、よくぞ走って来てくれました・・・(当たり前やろ) 《貨物列車ばかりみたい、・・・・・右からと左からと1時間おきに?》

1時間のロスも”帳消しや~”≪苦あれば楽あり≫?違うやろ~

撮りたてホヤホヤの写真、 =見ておくれやす=

     

       

  

 

 

 

 

 


ちょっと!詩吟から離れておりまして”反省して・・・「微笑」?

2013年10月30日 20時09分09秒 | 日記

松口月城作『微笑』・・・・詩吟に関心のない人はご存知ないと思います

六行詩は我々詩を吟ずるのに、丁度良い長さと言える、絶句(四行)では

少し物足りないし、律詩(八行)ではちょっと初心者には荷が重過ぎる、

そこで六行詩の登場と言うわけ、日本では頼山陽が多く残している。

まず『微笑』の六行詩を見て頂こう・・・・・

     笑みを含んで人に接すれば春風起こる    

  日常行住座臥の中

  苦難に際会して笑みを忘るる勿れ

  万物静観すれば道自ずから通ず

  紛々たる天地有形の外

  黙々微笑是英雄

僕の大好きなのは、最初の一行目の「笑みを含んで・・・・・・」です、

何と爽やかな言葉でしょう、私自身が中々実行出来てないので情けないですが、

この様に心がけているつもりですが、ついつい怒りっぽくなって、反省しきり!・・・

そして3行目の≪苦難に遭った時こそ、笑みを忘れるな!≫と続きますが

これまた、感心するだけで、実行するのは大変な事です・・・・・

そして最後に「黙々微笑是英雄」と結んでいます、素晴らしい詩でしょう。

3年前に91才で亡くなった母が大変好きで、座談会で詩吟を頼まれると

必ず『微笑』を吟じておりました、

作者の松口月城先生とは、43,4年前にお会いしたことがあります、

先生の名前を有名にしたのは、「名槍日本号」でしょう、この詩に

舞いの振り付けをして、本物の日本号と銘のある名槍で最初に

舞ったのが桃山玉園と云う女性の先生で、大変親しくして頂き

今様を直接伝授して下さった事が懐かしいです、

お二人とも九州のご出身で何んと!月城通りまで出来ているとか

前にも載せました私の大好きな律詩に松口月城作の《》があります

月城先生の詩は吟じやすいので、吟界では愛好家が大変多いです

先生は今からもう32年前の昭和56年、94歳で亡くなられています

改めて九州出身のお二人の先生のご冥福をお祈りいたします

  笑みを含んで人に接すれば春風起こる

こんな人々の、輝く世界がやって来ますように心から願いつつ・・・・・

話変わりますが、大阪の赤川鉄橋が明日で閉鎖になります

人と列車が同じ鉄橋を、しかも真横を・・・・明日カメラを持って行き

次のブログに載せるつもり・・・・・です!

      

 

 

 

 


中学1年?の時大徳寺境内でマーロン・ブランドに!

2013年10月23日 09時38分44秒 | 日記

あれから!もう57年も経ってしまいました・・旭が丘中学1年生やった

京都の旭が丘中学と言えば正門に赤旗を掲げて”全国版に”なった

それは私がまだ、小学4・5年の頃のお話ですけどね・・・・・

さて!本題に入りましょう、あの当時学校への道のりは2キロ弱

行きも帰りも大徳寺の境内が、我々の通学路でした

        

   《北大路通り側からの大徳寺境内への石段です》    《大徳寺の法堂、あの頃は本堂の周りを走ってた》 

その日も何時ものように、ヒロっちゃんと境内を通って帰途に・・・

『アキオちゃん・・・このコード凄いな!・・・』見るとなるほど

大徳寺の境内を今まで見た事もない数のコードが這い回って

本堂に近づくと日本人だけと違って、外人もいっぱい居るでは、

これは何時もの撮影とちょっと違うな!と二人で近寄って行くと

軍服姿の外人が日本女性に囲まれて記念写真を撮っています

           ≪下の地図の今宮神社の前を通り高桐院の手前を左折して法堂の前に撮影隊が≫

             

           《大徳寺境内の地図です、上の左の写真が南門です、その上の法門・仏殿あたりにマーロン・ブランドが》

な・なんと!マーロン・ブランド様では・・・・ニコニコしていて

誰とでも一緒に写真を・・・・あの時カメラがあれば貴重な一枚が

その後、ず~と、ず~と悔やまれてなりませんでした、

”そやけど”何で中学1年の私がマーロン・ブランドて知ってたんやろ!

映画は好きやったけど・・・きっと新聞や本で知ってたんやろな~

今回!ブログに乗せるために「サヨナラ」のDVDを買ってきた

もしかして、大徳寺の撮影が思い過ごしかも・・・それは無いけど

確認のために昨日我が家のホームシアターで見ました

     

    《サヨナラのDVDのケースです》

なかなか大徳寺が出てきません、ちょっと不安になってきた時!

紛れもない大徳寺が出てきました、あの頃の懐かしい姿で・・・

そうなんです!今は三門(金毛閣)も朱塗りになっているし、

           

 《朱塗りになった三門、千利休が切腹に到る原因がこの上に》   《この周りに無数のコードが、そして軍服姿のM様が》

法堂の周りも植え込みで入れなく成ってしまった・・・・・

【サヨナラ】の撮影の時は法堂の裏に確か!池がありました

それこそ、昔の懐かしい大徳寺と「さよなら」したのです

それも仕方がありませんよね!57年も前の事ですから

最後に一つ、DVDを見てびっくりしました・・・夫婦岩が出てきます

びっくりしたのは、夫婦岩の後ろに渡月橋が映っていたからです

なんでやね!夫婦岩はどう見ても、伊勢の二見が浦やったから

でも・・・・・・マーロン・ブランドとの思い出は永遠です!

 

 

 

 

 

 


1963年!マントヴァーニーが一度だけ日本公演を行った

2013年10月15日 16時11分28秒 | 日記

      

《カタリ・カタリが入っているわがイタリア・1961年》     《最初に買ったヨーロッパのムードです・1959年》

今からちょうど50年前、たしか6月1日?だったと記憶しています

憧れのマントヴァーニーオーケストラを京都会館で聞く事になるのです

当日を迎えるまでにこんな事があったのですが、今から思えば、

何んと云う事もありませが、チケット購入までのいきさつがまるで

昨日の様に懐かしく、甘酸っぱい思い出として心に残っています、

A席が2600円、B席が2200円、C席が1200円だった様に思う

高辻通りの東洞院下がるに会社があり、昼休みに近くの大丸へ

1200円を握って走った、しかしC席はすでに売り切れだった

泣きそうになった、でもB席が数枚残っていた、すぐに戻るから

といって一目散に会社へ戻り、圭ちゃんに事情を言ったら

快く貸してくれて、その足でもう一度大丸へ・・・やっとチケットを手に

なんと前から二列目の真ん中、真ん中は良いが二列目とは、

しかしその結果、二列目が最高の席だったのに気が付きます

いよいよ開演、オーケストラが指揮者無しで《シャルメーヌ》を演奏

なんと!この曲に合わせてマントヴァーニーがにこやかに登場する

そのストリングスの音色たるや、レコードで聞くのと同じあの音色・・

当たり前やろ!と言われるかも知れないけど、その当時、噂では

「あのストリングスの音は、きっとエコーが掛かっている」と言われ

半信半疑で当日を迎えたからです、・・・でも、でも噂は噂であって、

まぎれもなく”カスケーティングストリングス”滝の流れ落ちる様な

マントヴァーニーしか出せない繊細な弦の響き、夢のようでした

二曲目に早くも「カタリ・カタリ」・・・≪まるで50年一日のようです≫

一番聞きたかったこの曲、とても。とても言葉では言い尽くせません

しかも!ただ一度だけの来日、しかも京都での公演に行けたのです

ズービンメーター指揮イスラエルフィルの《シェ-ラザード》と共に

私の心の・・・いや耳の最高の思い出です、このコンサートで二つ

マントヴァーニー自身の音楽に対しての誇りを見せ付けられました

   

《マントヴァーニーが指揮台から・・・・・振り向いて・・・》    《アルバムのなかでは新しい一枚・・・でも1967年》

一つは、知っている曲が始まると、拍手をします、・・・ところが彼は

左の手で、その拍手を止めるのです、まるで「拍手は曲が終ってから」

と言わんばかりに、当然だと思いました・・・将に英国紳士の気風でしょう

もう一つは、休憩のあと第二部が始まってマントヴァーニーが指揮台に

我々に深くお辞儀をして演奏が始まろうとした時、彼が振り返り指揮棒を

客席に向けたのです、一人のおばさんが遅れて入ってきたのです、

マントヴァーニーはおばさんが席に着くまで指揮棒を指し続けました

おばさんが席に座ると、首をかしげニコッと笑って二部が始まりました

最後の最後まで気を抜かないマントヴァーニーに脱帽でした

それから17年後の1980年に75年の生涯を閉じたのでした

私は16・7才の時から大フアンでLPも少ない小遣いから11枚も買い、

毎日、団地サイズのステレオで【前に開けばターンテーブルが】

聞いておりました、最近はめったにレコードを聞くこともありませんが

久し振りにブログに載せるためジャケットを出しましたので見て下さい

        

 《メロディーの花園はアメリカの曲が・・1964年》      《デッカ専属25周年の記念盤です1966年》

この頃の給料は1万円ぐらいだったと思います・・・でもその頃から

LPレコードは1枚2000円していました・・・今なら3・4万円の感覚です

最後に二列目が何故良かったかを言っておきましょう、・・・・

コンサートが終わりゾロゾロと外に出てきた処で友達に会ったのです

友達曰く、「ストリングスの音はやっぱりレコーディングの時に細工してる」

と言うのです、聞くと二階の一番奥の席やったらしく、あの繊細な音色が

届かなかったのでした、この頃の京都会館は最悪の作りだったから、

二列目だから、生涯心の財産になった、音色が聞けたのでした

 

 

 

 

 

 


細川頼之の名詩【海南行】にみる人生五十とは!

2013年10月12日 15時18分06秒 | 日記

         

       《細川頼之》                    【海南行】の詩

人生五十功無きを愧ず

花木春過ぎて夏己に中ばなり

満室の蒼蠅掃えども去り難し

起って禅榻を尋ねて清風に臥せん

室町幕府の第三代将軍に足利義満が就いたのは、わずか10歳の時であった

身体の弱かった二代将軍足利義詮は、譲ったものの10歳の義満が心配であり

そこで後見として管領に任命したのが細川頼之である、その時頼之39歳

細川頼之の文献を調べていると次のような、父の心ずかいが示された文があった

死期の迫っているのを自覚した二代将軍義詮は息子義満と頼之を呼びます

そして、義満を指して細川頼之に「われ今汝のために一子を与えん」

次に頼之を指して義満に「汝のために一父を与えん、その教えにたがうなかれ」

足利義満がその後立派に成長して、足利15代将軍の中で最も実力があり

名将軍の誉れも高く、金閣寺を建てたことでも有名な義満を育て上げた細川頼之、

そこには、二代将軍義詮の「われ今汝の・・・・」に誓い、身を賭したからであろう

しかし時代は進み、周囲から頼之の長期管領職をねたみ、失脚させんとする輩どもが、

義満が23歳の時、すなわち頼之が管領職に就いて13年後、【海南行】の転句

~満室の蒼蠅掃えども去り難し~の事態になり、義満も抑え切れなくなり・・・・

結句の~起って禅榻を尋ねて清風に臥せん~と讃岐へ引き上げるのである

将に海の南へと旅立つ・・・・・【海南行】なのである。

タイトルに”人生五十とは”の事を少し話しておくと、この人生五十の言葉

有名なのは織田信長が舞いながら謡う「人間五十、下天の内を比ぶれば、

夢まぼろしのごとくなり」がある、人生でなく人間ではあるが、人生五十である

さて、人生五十という言葉、何時ごろから使われているか調べた人がいる

もちろん、このような言葉はお隣の中国だろうと調べてみると、頼之より

前にはなかった、当然わが国にも、それ以前には見つからない

だから・・・”人生五十”はこの【海南行】から生まれた事になると言うお話!

次の写真は細川頼之が管領職にあった時に再興した≪地蔵院≫昨年の秋に撮る

               

 《地蔵院の正面》       《可愛らしい本堂》       《奥に庭と展示室》

                    

    《竹が多く竹の寺とも言われている、今年もこのような紅葉が見られるかな!》  

自然石で出来ている頼之の墓が本堂の左奥にあった

            

《頼之の墓所の掲示板》     《細川頼之の自然石の墓》

 

【吟道松流の譜面です・・・・・吟じてみて下さい】