松ひとり言

谷藤松で御座います。
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民音の≪伊東ゆかりコンサート2015≫に行ってきて!

2015年10月04日 09時17分28秒 | 日記

  

《昨日、10月3日文化パルク城陽プラムホールの今回トップのコンサートに行って来ました・・・ゆかりちゃんも私より4歳下の68歳

ゆかりちゃん登場・・・・・アレ・・・・・・・・声がかすれて・・・出ていない

挨拶の声が、やっぱりかすれて喋りにくそう・・・・・どうしたの

『昨日の朝起きたらこんな声になっていました』と・・・・・私も声を出す仕事(詩吟屋さんです

分ります、辛いのが・・・このまま帰りたいと思った事が何回あった事か

でも・・・・2時間必死で・・・ゆかりちゃんは頑張りました娘の応援もあって

しかし・・・オリジナル曲が三曲ほどで、懐メロポップスが中心でした

私は、満足でしたが、一緒に行った人達の中では、もっとオリジナルが聞きたかったと

伊東ゆかりと佐川満男との間に一人娘さんが居て、40歳以上になっている

二人の結婚が1971年で1976年に離婚しているのでこの年代でしょう

娘さんは歌手で・・≪宙美≫(ひろみ)さん、(お母さんを ”ちゃん”付けで、娘を ”さん” 付けか

声はお母さんによく似ていて、中々のデュエットでしたよ

舞台の上でも、良いお母さん振りでした、幾つになっても娘は娘なんですね

宙美さんの独唱もありまして、いきなり歌ったのが、≪愛は限りなく≫でした

懐かしい・・・イタリア ”サンレモ音楽祭” の曲、・・・サンレモと云えばゆかりちゃんも出場

懐かしいですね~1965年に17歳での出場,≪恋する瞳≫を着物姿で歌って入賞

宙美さんの歌った≪愛は限りなく≫はこの翌年のサンレモ優勝曲【ジリオラ・チンクェッティ】

  

《1966年のサンレモ優勝曲の≪愛は限りなく≫で、その2年前の1964年の優勝曲は≪夢見る想い≫だった》

そして伊東ゆかりの出場した1965年の優勝曲がボビーソロの≪君に涙とほほえみを≫だった

宙美さんに戻りましょう、二曲目にナント『お父さんのデビュー曲を歌います』と云って・・・・・

佐川満男のデビュー曲≪二人の並木道≫を歌いました・・・(エエッ知らんかったわ~)調べましたがな

     

1960年にビクターレコードから佐川ミツオでデビュー、ナント ニール・セダカの曲ですよ

因みに・・・伊東ゆかりは、この二年前の1958年11歳でキングレコードからデビューしてます

このコンサートのラストソングは≪百万本のバラ≫でした、イヤ~泣けましたよ・・・・・

出ない声で、懸命に歌っている姿に感動したのかも知れませんが

加藤登紀子より良かったです、CDを探しに行きますわ~

最初に登場した時・・・どうなるのかな~と心配したけど、さすがプロ

良い勉強になりました、・・・ゆかりちゃんにはまだまだ頑張って欲しい

益々 親子デュオで我々を楽しませて下さい・・・楽しみにしてま~す

元旦那が・・・『今は幸せかい』と尋ねてまっせ・・・チャンチャン

 


あの山崎豊子さんの実家が【えびすめ】の小倉屋山本やて!

2015年10月01日 20時46分42秒 | 日記

二年前の九月二十九日な亡くなられた、女流作家≪山崎豊子≫さん

これまた不思議な事なんですが三日前の九月二十八日の事でした

お昼休みの時間に、図書館に行くか四条烏丸の本屋【くまざわ】に行くか

なんですが、この日惹かれる様に【くまざわ】へ行きました・・・別に当ても無く

そこで見つけたのが・・・≪山崎豊子・スペシャル・ガイドブック≫でした

お昼ごはんを【吉野家】で先に済ませたので、1500円に少し足りなくて

この日買うことが出来ませんでした、この時まで亡くなられた事も知りませんでした

家に帰ってからパソコンの前に・・・・早速ネットで検索・・・ナ・ナント明日が命日

ビックリでした・・・命日の日に買いなさい・・・と、この日お金が足りなかったんやと納得

私は、以前からこの様な不思議な事に遭遇してきているのです

翌日の昼休み・・・2000円を握って ”くまざわ書店” へ、・・・買いました命日に

《今まで、山崎豊子について、全く知らないのに等しい事が、改めてわかりました、89歳で亡くなるまでの執筆活動も・・・驚きばかりです・・・》

《この帯の、新発見日記「戦時下乃の青春」の収録とか、創作・取材ノートや秘蔵写真や・・・あの井上靖さんが毎日新聞時代の上司やった

そうなんですって、縁とは不思議なもんで、山崎豊子自身がこのように云っている

同じ職場である毎日新聞社の副文芸部長だった井上靖さんから・・・

 ~毎日新聞を退社される事になった時、「君も小説書いてみては、・・・

  人間は自分の生いたちと家のことを書けば、誰だって一生に一度は

  書けるものだよ」、とおっしゃった。~

この言葉が山崎豊子の運命を変えることになり、井上靖の言葉通りに

自分の家の家業である、昆布屋を舞台にした小説を書こうと決心をする

自身が七年掛かって書き上げたと言うデビュー作が【暖簾】なのだ(構想からだと十年らしい)

この【暖簾】についてのこんなエピソードがある・・・・・

新聞記者時代の山崎豊子が初対面の≪森繁≫に、まだ本になる前の原稿を持ち込んだことが発端

しぶしぶ読み始めた≪森繁≫だったが、すぐに引き込まれて徹夜で読了。

翌日、山崎に舞台化したい旨を伝えたと言う。

1957年に≪森繁≫主演で舞台化、翌年映画になっている

デビューからとんとん拍子で、この舞台化の翌年には・・・

【花のれん】でいきなり<直木賞>を受賞するのだ・・・・・

今回はココまでにする・・・・・貴船での、詩吟のお稽古の時間なので