2ラウンド目のゴングが鳴った時には直也はすぐに立ち上がろうとはしなかった。1ラウンド最終の時の相手のパンチでよろけ直也の体力は落ち気力はあっても身体が動かなかった。直也が立ち上がらない!観客達はざわめきだした時にい直也は焦るかのように立ち上がりリングの中央に向かう。これも直也の心理戦でもあった。体力だけでなく直也の足にも何かしらの影響があったのだ。この2ラウンドで直也のフットワークは限界に達していたのか?。相手の選手は直也の動きを見ながら恐らくノックアウトKO勝ちを狙っている。直也も1ラウンドでノックアウト勝ちを狙いパンチの数は多く体力も落ちていたが軽いフットワークは減少する事はなかった。直也は相手からの軽いジャブに打たれピンチの状態が続いた為だったのかもしれない。
「大島!直也!大島!直也!大島!直也!」
観客の声援が直也の応援に変わっていくが直也の動きは完全に相手のペースによって崩され相手のパンチは相手の思い通りに直也の顔面をとらえていた。
「やばい!やばい!やばいぞ!離れろ!直也ー!離れろ!直也ー!離れろ!」
コーナーの声は直也の耳に入る事なく直也の左腕は下がりつつありガードは右腕しかない。
「よーし!行けー!行けー!行けー!」
相手サイドからの声だけが聞こえてくる。直也は何時まで耐えられるのか?このまま続けるか?直也の左腕のガードは下がりつつあった。会長はコーチの肩をたたきコーチはタオルを握る。
「もう無理だ!立っているだけで、もう直也には無理だ」
プロテストの前の康志も心理戦の為に首を振り、もう直也には無理だと言っているようだ。コーチがタオルを投げようとした時には優子はコーチのタオルを奪い握る。
「なんだお前、もう終わりだ!無理だ」
「直也は何かしようとしてるんだと思う」
「あれを見てみろ!もう無理だ!殺す気か!」
「もう直也は死んでるわ、きっと戻って来るから」
「女のお前に何がわかる?」「直也の事は女の私だから分かるのよ!」
優子はコーチだけでなく会長からもプロテストの康志からも全てのタオルを強引に手で取りあげる。
「タオル投げるなら私が投げるから」「お前は直也を殺す気かー!?」
殴られ続ける直也は相手は思い通りにジャブにフックにボディ。それでも倒れない直也だったノックアウトを狙う相手に対してどうするか?心理戦で対策を練っていた。過去のスパーリングでアッパーで倒れた事を思い出す。時間外に康志が相手に思い込ませるには味方からだという言葉が直也の心理戦に効果を与えていた。直也は右利き左利きの体制で相手を混乱させる為の心理戦を考えていた。ドクターストップの時に条件付きだったが康志と優子は直也の心理戦についてドクターに伝えていた。会長やコーチには伝える事はなかった。そして直也は倒れるような様子ではなかった事で会長やコーチは焦りながらも直也の様子を冷静に見始めた。そして直也は以前の喧嘩を思い出した。
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相手は直也の身体がよろけた瞬間にロープからのカウンターを狙ってきたが直也は相手にクリンチで逃げクリンチ後1ラウンドのゴングで直也は助かった。直也は自分のコーナーへ戻らず朦朧としていた。相手のフックをまともに受けたせいか自分のコーナーを一時見失ったふりをしていた。
「直也ー!こっちだー!」
コーナーサイドからのコーチ達の声で息を荒くしながらフラフラしてコーナーへと戻った。しかしこれは直也の心理戦でもあった。相手に体力の低下があると思わせる為だった。
「直也、大丈夫か?左腕が下がってるぞ」
「すみません・・・」「左腕は、きついか?痛みは?」
「腕は下げてみたんです何かを見つけないと勝てない」
「左腕は大丈夫なんだな」
「はい問題ないです、ただ相手のパンチ力は凄いです」
コーチと直也の会話を聞きながら会話が終わるとプロテスト前の康志は囁いた。
「直也、お前何か、見つけたか?心理戦」
「心理戦は何となくですけど、どうしたらいいのか解らないです」
「なら当たりに行き当たった瞬間後ろに下がる事が出来るか?」
「え?当たりに行くんですか?」
直也はボディを受けた時の事を考えていた。相手のパンチが顔面を打って来た時もボディの時と同じように当たりながら後ろに下がる事が出来れば相手のパンチ力を軽く出来ると直也は思った。2ラウンド目には直也は実行に移す事を考える。
「フェイントで隙を作り当たりに行くか?」と直也は考えた時に直也は深呼吸をした時だった。
「カーン!」2ラウンド目のゴングが鳴った。
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直也と前回優勝者の相手が会場へ入ると観客席から拍手が湧いた。直也は周囲の観客達を見つめると何故かファイトが沸いて来た。左腕の痛みは観客達の声援と拍手によって少しは和らぎ消え去っていく。
「なんなんだ、これってなんなんだ」
直也は声援によって不安もプレッシャーも軽くなるという事は初めてだった。思春期の直也は何故なのか気付く事も知らなかった。思いもよらぬ感情に捉われていた感情が消えていく事が信じられない。試合開始まで5分で椅子に座り何度も深呼吸をする直也だった。その直也の肩や首をマッサージするコーチがいた。優子は強く強くドリームキャッチャーを握りしめ直也の勝利を祈っていた。
「久美ちゃん直也に力を与えてね」と優子は祈っていた。
直也は軽く体を動かしながらリングの上の椅子に座った。プロテスト前の康志は直也の耳元で同じ事を囁く。
「引き際のタイミングで相手のパンチ力を弱くしろ」
直也は康志の声に頷きながら時計を見るとあと1分後に直也の口の中にマウスピースがはめられた。
そして、あと15秒後「両者、リングの中央に」
審判からの言葉によりリング中央に歩き出す2人の選手。直也と相手の選手は見つめ合い首を縦に振り挨拶を交わす。
4回戦目「カーン!」ゴングが鳴った。
ゴングと共に両者ともに軽いフットワークで距離を測りはじめた。そして直也の左腕を気にしながら相手の選手はジャプを打ち始める。そのジャブは軽いもので相手の選手は何かしらの策を講じていると直也は思い相手の策略にのってみようとする。右利き同士の対戦だが直也は左利きサウスポーでコーナーからは動け動き回れの指示があり直也は指示を無視し相手に向かっていく。右利きだと思わせる康志に言われたように直也の心理戦が始まった。
「直也は馬鹿か、それとも変人か?」
それもそのはずハンディのある直也はフットワークで相手を追い詰めている。追い詰められる相手は嫌な顔も見せず左ジャブで距離を計る。
「来いよ!来い、来いよ!」と優勝経験のある相手は余裕で直也に声を掛ける。
1ラウンド2分を過ぎた時に相手の右ボデーを直也は左腕で受けた。相手の右ボディーの連打があっても直也は左腕でカバーをする。
「やばいか、まずいぞ!、直也ー!離れろ!」とコーナーサイドでは叫びボディの軽い瞬間に直也は左腕で受けながら左右に動いていた。
「軽い軽いぞ、パンチが軽い、このタイミングか」
直也は一瞬の瞬発力で相手のパンチ力を弱める事を知った。相手の選手は1ラウンドでダウンを奪おうと考えていたがダウンを奪う事が出来ない事で相手選手の胸の内に直也は何かを植え付けていた。
「次は顔面か?それとも、ボディか?」
直也は左腕に軽いパンチを受けて続けていたが左腕を下げ次のパンチはどんなものかを試す。直也が左腕を下げると相手は右フックを直也の頬に打って来た。まともに受けてしまった直也は、よろけるがロープに助けられダウンと観られる事はなかった。一瞬の隙で相手の右フックの強さを感じる直也であった。
「まともに受けるのは、まずいな」
直也はロープに助けられた時で相手のパンチ力の強さを知った。
「どうする?どうする?俺」
「カーン!」1ラウンドの鐘が鳴る。
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直也の中には友の死によって抱いてはならないものがあった。怒りと憎しみながら憎しみが憎悪となる事が直也は怖かった。思春期の直也は自分の心と向き合う事も怖かった。捉われた感情から逃れたい逃れたいといつも思っていた。仲間がいても直也の抱いた思いは、仲間達には判らない。ただ漠然と感じるだけの仲間達、それだけに直也は孤独だった。ボクシングを学ぶ事で直也は知った事があった。スパーリングで倒され意識を失った時の涙が直也のありのままの心だったのだ。涙を流す事で負けを認めると直也の持つ感情を大きくしてしまう。直也は決して負ける事を認めるわけにはいかなかった。そして強い自分をいつも寄り添ってくれた優子に見せたかった。優子が直也に対する思いは伝わっていたものの久美子の死が優子への思いを打ち消してしまうのだ。優子は直也の本当の心を知っていた。直也と優子の関係は幼なじみであり優子の片思いだったのかもしれない。優子は久美子に渡された久美子が作っていた大切なアクセサリーを直也がリング上で戦っている時にドリームキャッチャーを握りしめていた。直也はリング上で戦い優子はリング下で自分の気持ちと戦っていたのだ。優子の直也への思いは12年もの間、何も変わってはいなかった。
「時間だ、そろそろ行くぞ直也」「絶対に勝つって約束してよ直也」
「え?おまえ・・・」
優子の思いは直也を思うだけでなく勝利への導きであった。優子の思いを受け入れる事の出来ない直也にとって、この試合だけは優子の希望通り勝利しかないと思う直也だった。控え室を出て廊下を歩きながら直也は自分が出来る事を考える。これまでの3回戦で何を学んできたのか?
直也には試合で学んだ事を生かせる事が出来れば必ず勝てる自身があったが、それは後々の直也に襲い掛かるものでもあった。直也は1回戦目からをさかのぼって考えた事がある。それはパンチを繰り出す時のバランスとパンチ後の引き際である。このタイミングを逃すと相手の策略にはまる。4回戦の相手は前回プロ並みの選手であった。そして優勝を勝ち取った選手だった。直也と相手の選手の身長差や腕のリーチ幅に大差はなく試合を見る限りパンチ力は直也以上とみられる。ただ違いと言えば足の5センチほどの長さだ。この差が直也のフットワークに活からされば相手のパンチ力へのリスクを有利に変える事が出来るとリングサイドでは考えていた。直也は引き際のタイミングだけで勝負を挑む事を考える。しかし直也の左腕が耐えられるかどうか。
「あのフットワーク、どう引いたらいいのか?」
直也が引き際の事を考えているとプロテスト前の康志は直也に何かを察知したのだろう。
「直也、引き際の時パンチを受けながら弾く事が出来るか?」
「先輩、どういうことですか?」
「相手のパンチを受けている事が相手にとって不安材料になる」
「不安材料ですか?」
「相手はパンチが当たってると思い始めるはずだが相手はパンチ力に自信を持っているんだ逆手にとれ」
直也は彼の言葉を信じてみようと思った。しかしどうしたらそんな事が出来るのか?直也はボクシングを始めて約4カ月の素人と一緒だ。
「試合の中で何を学ぶしかないか?」
直也は不安とプレッシャーの中でも試合会場へと向かった。
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直也の3回戦目の勝利で手が挙げられた時に直也の瞳には涙が浮かぶ。リングサイドに向かう直也は朦朧としながら歩いていた。「おれ限界かな」と弱気になる直也だった。しばくして痛みからの苦しみは直也にとって初めての事だった。こんな思いに駆られながらリング下に降りる。4回戦目の決勝戦までは休憩は10分だけだったが審判員達は何かを話し合い主催者側と協議を行っていた。 直也がリング下の椅子に座った時だった。
「4回戦、優勝決定戦は、30分後に行います」
「どういうことだ?」と誰もが思った。
優勝決定戦には審判員達の協議の結果で充分ではないが30分の休息になった。これまでにない試合が行われ直也をドクターに診てもらう事だった。審判員は直也が試合を続けられるか気にかけていたのだ。直也達は控室に行きドクターの診察を受けるとドクターストップと言う事になるがコーチと康志は納得できなかった。そしてジムの会長に優子は直也の思いを伝えていた。
「君は、何故あそこまでやるのか?」
「先生、俺は勝たなきゃならないんです」
「なぜ? 教えてもらえないか?」
「相手に勝つ為だけにボクシングはしてないんです」
直也はドクターと話をしながら診察を受けた。ドクターが言うには3ラウンドは無理だと会長に話したが会長は反論する。
「先生、私は直也の問題と考え試合に出場させたんですよ」
「もしもの事があったら誰が責任をとるの?」
「私が責任を取りボクシングジムを閉鎖します保証も」
「会長!」「なあ直也お前の気持ち充分感じたぞ、やれるか?」
「はい、できます」
ドクターは、しばらく考え直也の左腕にテーピングを巻いた。そして条件が付けられた。もしも左腕が下がりガードも出来ない状況になった時にはタオルを投げるようドクターは指示を出した。その指示に会長達は従うという事で試合続行が認められた。 直也は筋肉質の身体だが誰が見ても左腕の腫れはわかる。相手の選手は必ず直也の左腕を見ながら戦うだろう。もうどんなに策をこうじても左腕が動かなくなれば勝利はない。
「俺は必ず勝ちます、どんな事をしても勝ちたい!」
「何故、そこまでして勝つ事に拘る?」
「この試合の勝利は俺自身の勝利なんです」
「自分自身に勝ちたいという意味か?」