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考えてみようコラム:反省と自分

2015-12-05 12:02:02 | 考えてみよう:コラム


自分とは、いったい何だろうか?

自分とは自然界の中で存在しているのだと思う。自分とは小さな地球という星の中で、ただのちっぽけな一員だと思う。
君達も僕も銀河系や未知に拡がる宇宙があるのを忘れてはいけない。

謝ちは、胸・腕・足・肩・背中・全ての体内にあり、脳を謝ちにより洗脳され自分を見失ってしまう事もあるかもしれない。
謝ちは、心の思いとは別にあるもので、目に見えないものかもしれない。
謝ちの疲労感は徐々に、身体の中に積み重なるものかもしれない。
謝ちの自分の身体が蝕まれ、いつか荒波のように現れるものでもあるように思う。

謝ちを自覚し、正直に素直に反省する事が大切だと思う。
過去や現在と今後の自分に気付く事や知る事、そして反省をする事が大切だと思う。
自分を見つめて、自分や相手を絶対に決め付けない事、そして反省できる自分を創り出す事。
当たり前な事かもしれないが、それが出来ない自分がいて、大切なものを全て失ってしまうかも知れない。

誰もが簡単に相手を傷つけ、たった一瞬で愚かな謝ちを犯すものだと思う。
その時には自分を振り返り、必ず、反省する気持ちが必要だと思う。
良く自分を考えてみると、それがなかなか出来ないのが、人間という自分なのかもしれない。

相手側にとって良い事になれば、良い事が、自分の人生の中で返って来るものだと思う。
相手側にとって悪い事になれば、悪い事が、自ら苦痛の人生に変えてしまうものだと思う。

全ての謝ちは、自分に返って来るものだから、自分の謝ちを自覚して正直に素直になり、そして反省をする事が大切だと思う。
謝ちの自分を自覚して見つめて、反省する事が大切な事だと思う。

これからの将来への自分の人生をもう一度だけでいいから、考えてみたらどうだろうか?

君達の心の中にある思いとは、君達の「コア」とは、何だろうか?
反省できる自分を見つけて、もっと、もっと、心にある思いの視野を拡げて・・・

曖昧な自分ではなく、言動と行動で表現して、自分自身を信じて真実に導きこう。
もう一度だけでいい、反省する自分を考えてみてはどうだろうか?


「コア」とは、
地球でいうところの中心核(コア/core)の事の様ですが、人に例えてみると、心の中の中心にある「真実の思い」と表現してみました。
相手に対する助け合いの思い、寄り添う事の思い、愛する思い・・・他にも、もっとあるのかもしれない。
自分を考えて、自分の中に何があるのか、もう一度だけでいいから考えてみたらどうだろうか?


Link  感謝と謝罪  先入観とは

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考えてみようコラム:感謝と謝罪

2015-07-30 09:32:28 | 考えてみよう:コラム


どんなに不幸な人生であったとしても、大切な人と過ごせた事が、それはきっと、そばにいてくれて良かったと思えたのだろう。
それは誰よりも幸せな環境であり、幸せを感じる時間だったと思う。
しかし、大切な人を失った時、死を看取った時、人は何を思うのだろう。
これからの人生に悲しみ苦しみ落胆し、辛い思いをして生きていくのだろうか。

しかし、最後の言葉があれば。
この最後の一言の言葉でも変わってくるかもしれない。

相手を見る目が晴れていれば、幸せになれると思う。
しかし、相手を見る目に曇りがあれば、幸せになれない事もあるだろう。

大切な人を失った時、大切な人と共に歩いていたものとはなんだ。
それは、人生の中での感謝の思いと言葉、間違えれば謝罪の思いと言葉なのだと思えないだろうか。
これは、人生の中で決して忘れてはならない事だと思う。

もしもだが、
過去に、世話になり助け合ってくれた人達への感謝と謝罪の思いと言葉を踏みにじった時、人生を大きく変える残酷な試練が待ち受けているかもしれない。
見つけた相手が誰であろうと、幸せにはなれないかもしれない。
大切な人を失っても、誰もが忘れてはならない事がある。

残された遺言と遺品とは、いったい何だろう。
文章だけか言葉だけか金の事だけか思い出だけか。
これから先へ歩む為に始まる人生へのあり方を導いてくれる鐘なのではないか。
その鐘を鳴らして生きるのは自分自身なのだ。

遺言と遺品の中には、亡くなった人の本当の思いが隠されているのではなかろうか。
遺言と遺品の中には、これからの人生に大切な何かが隠されていると。

遺言と遺品を粗末にせずに、これからの人生への祈りや願いを込めて歩ければ。
悪しき不幸な過去のトラウマを抱えて生きるより、幸せだったという思いで歩ければ。

感謝と謝罪の思いと言葉は、次の人生には希望の幸せが訪れると思う。

人生には決して忘れてはならない事があるはず。
感謝と謝罪を忘れてしまえば、人生への不幸が必ず訪れる。

過去からの感謝と謝罪は、決して忘れてはならない。

生死とは関係なく、感謝と謝罪は永久に未来へ繋がれ残されるものだと思う。

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考えてみようコラム:無届け老人ハウス

2015-01-21 11:35:41 | 考えてみよう:コラム


無届け老人ホーム(ハウス)がある事はニュースを見なくても知っていたが、無届けハウス増加していた事は知らず驚いた。
しかし、認可を受けていない保育園も多くあると思う。
超高齢化社会になると、急激に増加するのではないか。
お年寄りは今後急増するのは間違いない。
特別養護老人ホーム、老人保険施設も予約でいっぱいだろうし、デイケア・デイ・グループホーム等も同じだろう。
また、孤独死も増える可能性もある。

認められている老人施設で全ての高齢者は、その施設に適応できるのだろうか。
認可されている施設は規制があり、その規制通りのスペースをもって建築されている。
安心・安全の為の条件が付けられているという事だ。

しかし、条件付きの施設では人的ミス、介護事故などの問題はある。
その為に、リスクマネージメントやヒヤリハットがある。
それでも、どんなに注意し見守っていても人的ミスや事故は起きるのだ。
抱えている病気、ストレス、精神障害、施設利用者の性格、突発的な行動等によって、リスクはどんなに対応しても回避する事はできない。

無届け老人ハウスの場合、建物自体は在宅介護と同じではないか。
一般的な家庭での在宅介護にはリスクはないのか。
家族がいない絶縁している高齢者、独居老人高齢者、人との関わりが上手くない高齢者、全てを頼らず静かに過ごしたい高齢者、年金収入が低い高齢者などは何処へ行けばいいのだろうか。
普通の一般的な家屋やマンション等でも介護者を増やし在宅介護としても良いのではないか。
在宅介護の今の現状は悲痛だね。
基準を満たしていない一般的な家屋での在宅介護とはなんだと思う?
一般的な家屋でマンションでも在宅介護は出来るのでは?条件付きの施設ではなくても。
認可とは何だ。国が定めた定義ではないのか。
行き場のない高齢者は、今をいかに過ごすか、人生最期をどうおくるのかを考えているのでは?
今の社会という者は、これからの社会という者は責任は誰かと問いかけるだろう。
それは、これまでの社会が創り出した人間そのものであり、国が創り出してしまった社会そのものに責任があるのではないか。
責任を追及し誰かを貶めるものではない。
あまり表面化されてはいないが、人的ミスや介護事故は現実に起きているのだよ。
隠蔽という言葉ではないが、認可施設は謝罪をし許しを請えば、それで終わると腹の底では思っているのだ。

無届けだろうが、今はどのようにしてお年寄りに寄り添う事が出来るのか考えたらどうか。
お年寄りは、きっと心の寄り所を探しているのかもしれない。
心は無限大で自由に何でも選択できるのだとも思う。
しかし、社会は法の支配下でその自由を奪っているのかもしれない。
表向きは良い事ばかり、裏の顔は足の引っ張り合いだ。

弱者を助けたいと願う人々よ。堂々とした態度で頑張ってください。
しかし、利益や運営のみを考えて、犯罪に利用したり犯罪に巻き込まないように。
表現するのは自由だろ

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考えてみようコラム:経験は毒になる事もある

2013-09-02 07:43:11 | 考えてみよう:コラム


嘘はつきもの?社会の中の「影」で毒でもある。
「経験は毒になる事もある」

相手を思っての嘘、相手を幸せにさせる為の嘘……
相手への憎悪からの嘘、相手を傷つける為の嘘……
自分が正しいと、否定から逃れる嘘……
自分への思い込み、人生観からの嘘……
他にも、生きる環境によっては、多くの嘘があるだろう。
「弱い毒」ならば、早期に治療をすれば、生きられる可能性がある。
「強い毒」ならば、即死で、生きられる可能性はない。

「経験は自分を見直すことも出来る」

自分で我が身のコントロールが出来るとは思ってもみなかったが、ご家族との関わり方の中で、我が身に対しても脈拍を測り、今の自分に気づく事が出来るようになったような気がする。
自分自身を知るという事に、以前の僕は怖かったのかもしれない。
それに、恐怖だったのかなと思う。
看護という仕事から、人生観や人間関係という事を学び、見直せる自分が出来たような。
そこには「勇気」というものを得たような。
そんな気がする。
これは、あくまでも「一例」にしかすぎませんので、誤解のないように。

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考えてみようコラム:ノルマを考えるのは業務中心型

2013-04-29 15:42:44 | 考えてみよう:コラム


題名の通りです。
1日の業務を1日にこなさねばならないという、使命感に囚われてしまっている考え方です。
そういう考え方がどういう態度に出てしまうかというと、目の前に危険があったとしても知らなかった。
または、気付かなかったと通り過ぎてしまうこともありえます。

困った人がいるとしましょう。
「出来るでしょ」と声かけをするなり、無視をするなり、その場を離れてしまうこともあるのではないでしょうか。
これは、典型的なノルマを考える業務中心型の人がすることです。
私は、こんな人を初めて見たとき、がっかりしたことがあります。
人間関係って何?と考えてしまいました。

ただここでは、専門分野ということを考えると話が違ってきます。
例えばですが、看護と介護で考えてみてください。
看護は医療的な専門分野で、医療的なことが専門的に優先となるでしょう。

介護とはというと、一般的よりも家庭的ということで、とにかく日常生活を観るのが中心なわけです。
ということは、専門分野ではないということです。

看護と介護は同様に生活を見ていくこともありますが、同等ではないようです。
どちらかが上か下かということではありませんが、分野が違います。
しかし、重なる部分もあるということを忘れてはなりません。
一般的にプライベートの人間関係も一緒のようにも思えます。

「助け合いとチームワーク(一例)」

どこかで勘違いをしていることはありませんか。
チームワークというのは専門的知識を持って方向性を打ち出し、その目標を達成していくこと。
また、色々な角度から情報を集め、それを各分野で話し合っていく。
例えば、こんな対応をしたところ、このようになったという話も出来るわけです。

プランを立てたとしましょう。
そのプランにそって1ヵ月後のカンファレンスまでという考え方ではどうでしょうか。
日々変化のある高齢者にとってこんなに怖い話はないです。
変化があればそれに対応し、それを常に話し合うことが大切なのです。

1人1人がしっかりと障害のある利用者を見つめる努力、変化を見つけたらそれに早期対応し、常に情報交換をしながら、その対応後を常に報告すればよいのです。
しかし、単なる助け合いは人の好き嫌い、仕事の好き嫌いと密接な関係があるのです。

お知り合いの助け合いになっていることがあります。
職場の体質にも関連あるようですがね。

人はそれぞれ違う、そうですね、しかし、好き嫌いで選ばれたら良い対応は出来るのでしょうか。

そこで向き不向きというものがありますが、ケアを中心の職場とするなら、好き嫌いという姿勢はなくすことが大切ですね。
1人2人の好き嫌いで、人は気を遣い、良いケアの妨げになることもあるのではないでしょうか。

私はチームワークとは、好き嫌いではなく、各分野を理解し専門的な各分野で行動していくことのように思います。

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