龍馬の生誕日であり命日である11月15日に墓前祭を、上田敏雄副会長の案内で28名が参加しました。

何よりも驚いたのが、上田講師の足取りの軽さ! 助手の手もかりず、ノンアルコール状態でスイスイと知恩院の男坂の階段を上っていくではないですか。
知恩院は見どころいっぱいで新たな発見がありました。


龍馬の墓前にて ここから見る京の町はいいもんですね
千姫の墓や淡海槐堂の墓がありました。
『淡海槐堂は文政5年近江国坂田郡の農家に生まれた。安政3年醍醐家侍となり、従六位下筑前守に叙任され板倉重涂と称した。
王事に奔走し文久2年私財を投じ文武館を設け、木戸孝允・広沢真臣・品川弥二郎・坂本龍馬・武市瑞山らの志士と交わった。翌3年天誅組の挙兵に当り、銃砲数十挺を藤本鉄石らに送る。
元治元年7月の禁門の変では難を逃れ郷里に逃げたが、翌月入洛した時捕えられ、慶応3年4月許された。
この年近江屋を訪れ坂本龍馬に「梅椿図」の掛け軸が贈られたと思われる。有名な「血染めの掛け軸」であり、国の重要文化財に指定されている。
明治元年3月徴士として大津裁判所参謀となり、同時に醍醐家を辞し板倉の姓も返上して淡海と改めた。同3年に槐堂と号した。よって板倉槐堂と称した時期は全くない。。
5年2月退官し郷里に隠棲し詩画の制作に余生を送り、また進取の気性に富み、長崎からカメラを取り寄せ自ら撮影に取り組んだりしたが、明治12年58歳で没した。』(テキストより)

知恩院奥にある「濡髪大明神」は、その名から舞妓さん達もお参りされる縁結びの神様だそうで、高1・中3・小6の子達は自分の財布からお賽銭を出して祈っていましたね。
濡髪とは全く縁のない方々も、きっちりお参りされていました。
13時半神泉苑平八についた頃はお腹ぺこぺこで、講師は席につくと完全に燃え尽きていらっしゃいました。

お昼は神泉苑平八さんでお弁当。デザートは冷やしぜんざい。最後にぜんざい?!と思いましたが、冷やしなので軽く甘くうまーでした。
3歳にして歩き切った福井秋太郎ちゃん、たくましいです。
息子もよく動いてくれましたが、気づくと半ちゃんにくっついてニヤニヤ話しているので、父と子はここまで似るものか・・・と感心した、とても充実した一日でした。(林美奈子)

何よりも驚いたのが、上田講師の足取りの軽さ! 助手の手もかりず、ノンアルコール状態でスイスイと知恩院の男坂の階段を上っていくではないですか。
知恩院は見どころいっぱいで新たな発見がありました。


龍馬の墓前にて ここから見る京の町はいいもんですね
千姫の墓や淡海槐堂の墓がありました。
『淡海槐堂は文政5年近江国坂田郡の農家に生まれた。安政3年醍醐家侍となり、従六位下筑前守に叙任され板倉重涂と称した。
王事に奔走し文久2年私財を投じ文武館を設け、木戸孝允・広沢真臣・品川弥二郎・坂本龍馬・武市瑞山らの志士と交わった。翌3年天誅組の挙兵に当り、銃砲数十挺を藤本鉄石らに送る。
元治元年7月の禁門の変では難を逃れ郷里に逃げたが、翌月入洛した時捕えられ、慶応3年4月許された。
この年近江屋を訪れ坂本龍馬に「梅椿図」の掛け軸が贈られたと思われる。有名な「血染めの掛け軸」であり、国の重要文化財に指定されている。
明治元年3月徴士として大津裁判所参謀となり、同時に醍醐家を辞し板倉の姓も返上して淡海と改めた。同3年に槐堂と号した。よって板倉槐堂と称した時期は全くない。。
5年2月退官し郷里に隠棲し詩画の制作に余生を送り、また進取の気性に富み、長崎からカメラを取り寄せ自ら撮影に取り組んだりしたが、明治12年58歳で没した。』(テキストより)

知恩院奥にある「濡髪大明神」は、その名から舞妓さん達もお参りされる縁結びの神様だそうで、高1・中3・小6の子達は自分の財布からお賽銭を出して祈っていましたね。
濡髪とは全く縁のない方々も、きっちりお参りされていました。
13時半神泉苑平八についた頃はお腹ぺこぺこで、講師は席につくと完全に燃え尽きていらっしゃいました。

お昼は神泉苑平八さんでお弁当。デザートは冷やしぜんざい。最後にぜんざい?!と思いましたが、冷やしなので軽く甘くうまーでした。
3歳にして歩き切った福井秋太郎ちゃん、たくましいです。
息子もよく動いてくれましたが、気づくと半ちゃんにくっついてニヤニヤ話しているので、父と子はここまで似るものか・・・と感心した、とても充実した一日でした。(林美奈子)