坂本龍一の追悼特番『J-WAVE GOLDEN WEEK SPECIAL A TRIBUTE TO RYUICHI SAKAMOTO』が5日(金・祝) 9:00〜17:55までの約9時間にわたる放送があった。
帰省中の長女と、当日に全て聞くことはできなかったので、昨日と今日も聞き逃しところを聞いた。
作曲家、編曲家、ピアニスト、音楽プロデューサー、俳優、と様々な活動をしてきました。
そればかりか、世界平和や地球環境にも。
坂本龍一が20年間にわたり放送した『RADIO SAKAMOTO』の膨大なアーカイヴから、貴重なトークやゲストとの対談音声、ライブ音源やスタジオ・ライブ音源を聞かせてくれた。
生前ゆかりのあったアーティストたちも登場し坂本龍一とのエピソードを振り返えったたり、いまさらではあるがさらに彼の功績の凄さを知らされた。
彼を「教授」という呼び方が一般的でしたね。
YMOメンバーの高橋幸宏がこの呼び名を命名したと聞いている。
放送を聴きながら、長女が中学3年生の時のエピソードを思い出した。
長女は中学生の頃から教授の大フアンだった。
中学校の近くに日本生命の営業所が有り、当時店頭のガラス越しに坂本龍一のポスターが掲示してあったそうだ。
下校時に、毎日そのポスターを眺めていたと言う。
ある日、営業所の人にポスターが欲しいことを告げたら、その人が掲示期間が終わったら自宅に届けてあげると約束してくれた。
しばらくして、欲しかったポスターを日本生命の方が、親切に自宅に届けてくれた。
そんなことがあったのを思い出さいた。
そのポスターが、ずーと子供部屋に貼ってあった。
ところが、子供たちが巣立ってから現在の場所に家を建て、それまで住んだ家を解体したとき、ポスターはもとより当時のYMOのレコードや雑誌類を、子供たちに告げずにすべて処分してしまった。
これは長女にとって恨めしい出来事だったと初めて聞かされ、少々複雑だったが、坂本龍一の追悼特番を聞きながら、40年ほども前の懐かしくも楽しかった当時の話題で話が弾み共有できたのは何よりだった。
夕方に長女は東京に帰った。
また一人暮らしの始まりです。