劇団第三エロチカ公演『ジョーの物語』に登城(1989年8月)
※以下の写真4枚は、いずれも(1番目の写真)劇団パンフより転載。
Unit zora→zora's Web(笑点 )
その後、上記劇団所属のまま、同劇団の坂本さんと二人で "zora"を結成。だが、zora の仕事の他に、それぞれが他の劇団などに「客員出演」という活動もしている。
今回の「かもねぎショット」出演は、その一環である。
『一線を越える』
下北沢というところは、大規模な商業公演とは異なる、演劇や音楽の発表の場らしい。街全体がそういう文化に対して、理解をしているようだ。現在、行政による開発の構想があるらしいが、もちろん、彼らは反対運動を起こしている。
下北沢の南口で降り、地図を便りに「ザ・スズナリ」へ向う途中、「小劇場」の前は、開演時間待ちの若者達が行列を作っていた。
ザ・スズナリはすぐに分かった。受け付け時間前だったせいか、人はほとんどいなかった。こちらは現代演劇なので、人が集まらないのかなぁ、と思っていた。
だが、受付が始まり、開演時間が迫ると、周囲の座席は埋まってしまった。特に宣伝もしなくても、こういうものを受け入れる下地が、この街にはあるのだなぁと感心した。若者が多く、アルバイトなどをしても、チケットを買うのであろう。
さて、『一線を越える』というテーマだ。世の中には「一線を越える・越えない」の大事なときがある。シーザーがルビコン川を渡ったのは、まさに一線を越えた瞬間であろう。この芝居では、いろいろなシチュエーションが組まれているらしい。
プログラムを見ると、どうやらオムニバス形式のようだ。ここに来るまでは、現代の演劇とダンスが、芝居の中でどのように溶け込むのか、期待していたが見事に裏切られた。 だが、そんなことは製作者側はちゃんと分かっているのだ。作・演出で、俳優でもある高見さんが、終了前の舞台で「今回は芝居とダンスの間に一線を引きました。次回は----」というようなセリフを述べている。だから、次回は大いに気になるところだ。
それにしても、今回の公演に話を戻そう。『一線を越える』という演目との関係で、私がよく分かったのは『見えない線』ぐらい。ハイキングで、一線がなかなか越えられない場面である。あとの演目については、よくは分からない。河童という生き物がいるのかどうか、この旅館にはいるのだと、客を騙すのかどうか---その辺が一線なのかなぁ。『気球』は、まさか、二人で一緒に飛び立つことを云うのではないだろう。では、ここでの一線とは心の一致なのか?などとも考えた。『桜の枝』での一線とは、話が通じることなのかなぁ?
『ギャングB』は、どういうわけか、記憶に無い。
一つ一つの演目の間には、繋がりがあるのか否か、どうもとらえられなかった。始めと終わりに演出者兼俳優が、役者として出てきたのは、オムニバスを強調する意図があったのであろうが、私にはその辺のところがよく分からなかった。
ところで、ダンスである。歌謡曲の舞台で、歌手の後ろで踊るバックダンスやストリートダンスなら、少しは分かるような気がする。また、ハワイアンなら、それぞれの動きに、(太陽とか波とか)自然を表す意味が感じ取れる。だが、今回のダンスは、その一つ一つの所作に、何か意味があるのであろうが、ド素人の私には全くわからない。公演中にたまたま雷鳴があったが、音響と照明のさるなる工夫がダンスの内面表現の助けるのではないかとも思う。ところで、これはモダンが頭につくのであろうか?日本舞踊の動きをモダンなダンスにしたというのが私の印象だった。
ダンスも、「夜明けのTANGO」などと題名はあるらしいが、「一線----」との関係となると、それぞれ、どんな繋があるのであろうか。
最初に、私が大いに期待したのは、現代演劇と現代ダンスとのコラボレーションである。互いに、それぞれの領域にどんどん侵入していくのである。
もし、両者の間に「一線」を引いて、なんら関係ないとしたら---.そんなことはないであろうと思うが。仮に関係ないのなら、両者がわざわざ下北沢に集まって、舞台を共にする意味はない。
互いの世界を知る、これだけのスタッフ、演劇俳優とダンサーがせっかく集まっている。なら、それぞれの特徴を生かした(今までに無い)何か新しいものが、革命的に生ずるのではないか?などと、期待もする。
話が変わるが、2007-7-7に書いたブログでナサニエル・ホーソンの作品を紹介した。以下の文である。
----そこで、受験時代に衝撃を受けた、ナサニエル・ホーソンの Twice Told TalesのDavid Swan -- A Fantasyが甦ってくる。 「一人の人間の人生航路において、彼を取りまく宇宙の意志が、時には大きく時には小さく、様々に関わりを持って動いている。彼に近づいたり離れたりしていく生死、運不運、富、愛、----
それらが結果として彼に現れるのはほんの一部にすぎない。もし、大部分の結果として現れない部分を知ったら、我々は...」 We can be but partially acquainted even with the events which actually influence our course through life, and our final destiny. There are innumerable other events, if such they may be called, which come close upon us, yet pass away without actual results, or even betraying their near approach, ......
ここにオムニバスの原点がある と思う。一人の青年が木陰で昼寝をしている間に、近くをいろんな人が通り、青年の運命を今まさに左右せんとする。
例えば強盗であり、養子を探している大金持ちであり、美しい少女であり、---。その一つ一つが短編物語で、相互には何の関係も無い。ところが、それが 一つのFantasy であり、少年の運命を大きく左右しかねない「宇宙の意志」による物語となっている。
一つ一つは互いに無関係だが、全体として一つの大きなテーマに包まれて流れていく。しかも、個々の話も、全体のテーマも、人類にとって普遍的なものである。こういうものをオムニバスというのであろう。
ダンスは、能における地唄(→能 『隅田川』 観賞に出かける)のように、個々の物語を説明したり、補完したりするものであったり、前の話と次の話をつなぐ内容のバトンみたいな役割などにしたらどうか、などと思ったりもする。