もう30年以上前のことであろうか、私は息子を連れて高校野球を観戦しに(千葉県)国府台球場へ行った。私が大学を出て最初に勤めたのが、千葉県立茂原農業高校という学校であった。この高校は環境も生徒も素晴らしい学校で、私が英単語のテストをするのを忘れたら、生徒にしかられたという、今の都立進学高校とは雲泥の差。
私がいたころ、急に野球が強くなった。年代的には掛布と篠塚の間だと思う。私の知る限りでは、高校野球界でこれほど素晴らしく魅力溢れるチームに出会ったことがない。当時は新聞紙上で騒がれたものだ。大型で荒削り、変な小細工などいっさいしない、真っ向勝負のすかっとした、野武士の風格...さまざまな形容詞が使われた。(Aシードであったが、真っ向勝負が災いして、最後に銚子商業に負け、結果的には甲子園に出られなかった)。
自分のクラスや授業担当の生徒が写真入りで新聞に出るのはうれしいものである。私はいまだにこのチームやその選手たちが忘れられない。
春に行われた千葉県記念野球大会(大学、実業団、高校を含めた大会)で優勝してしまったのだから、その強さは超高校級である。投手は千葉県高校球界屈指の好投手が3人(いわゆる3本柱)、打撃がまた凄い。その破壊力には練習試合にやってきた作新学院の選手たちが目を見張ったもので、スゲー、スゲーと私の前で盛んに賞賛の言葉を発していたものだ。
当時私は学校のそばに下宿していたので、土曜日の午後や日曜日にはほとんどグランドへ応援に行った。彼らについて語ればいくら紙面があっても足りないので、このへんにしておく。
彼らの主力はその後、関東各地のノンプロで活躍した。3本柱の一人T君は千葉相互銀行(もしかしたら、千葉銀行)の軟式野球部の投手として、軟式の実業団全国大会で、確か連続6年くらい全国制覇をし、読売新聞の、優秀スポーツ団体として何度も表彰されている。確か写真入りで他の団体と一緒に新聞の第一面を飾った記憶がある。
それはそうであろうう、いくら実業団とはいえ、コントロール抜群で、千葉県高校球界屈指の好投手の球を軟式の選手が打てるはずがない。実はその彼も2番手だったのである。1年下のH君のほうが、長身から投げ下ろす本格派豪速球投手として球界では評判が高かったからである(H君は当時の大毎オリオンズの勧誘をけって、地元の電電関東に入った)。
まあ、当時のチームは現在のサッカーで言えば、このたび、圧倒的な強さで全国制覇をした流通経済大付属柏高チームに匹敵する。
勝負は時の運、不運が重なり1点の重みに泣いて敗れた試合の話は、全国津々浦々に埋もれているはずだ。茂農野球部がそうであったように、「このチームが負けるなんて信じられない」と、地元の伝説になっているチームが沢山あるだろう。
私がいたころ、急に野球が強くなった。年代的には掛布と篠塚の間だと思う。私の知る限りでは、高校野球界でこれほど素晴らしく魅力溢れるチームに出会ったことがない。当時は新聞紙上で騒がれたものだ。大型で荒削り、変な小細工などいっさいしない、真っ向勝負のすかっとした、野武士の風格...さまざまな形容詞が使われた。(Aシードであったが、真っ向勝負が災いして、最後に銚子商業に負け、結果的には甲子園に出られなかった)。
自分のクラスや授業担当の生徒が写真入りで新聞に出るのはうれしいものである。私はいまだにこのチームやその選手たちが忘れられない。
春に行われた千葉県記念野球大会(大学、実業団、高校を含めた大会)で優勝してしまったのだから、その強さは超高校級である。投手は千葉県高校球界屈指の好投手が3人(いわゆる3本柱)、打撃がまた凄い。その破壊力には練習試合にやってきた作新学院の選手たちが目を見張ったもので、スゲー、スゲーと私の前で盛んに賞賛の言葉を発していたものだ。
当時私は学校のそばに下宿していたので、土曜日の午後や日曜日にはほとんどグランドへ応援に行った。彼らについて語ればいくら紙面があっても足りないので、このへんにしておく。
彼らの主力はその後、関東各地のノンプロで活躍した。3本柱の一人T君は千葉相互銀行(もしかしたら、千葉銀行)の軟式野球部の投手として、軟式の実業団全国大会で、確か連続6年くらい全国制覇をし、読売新聞の、優秀スポーツ団体として何度も表彰されている。確か写真入りで他の団体と一緒に新聞の第一面を飾った記憶がある。
それはそうであろうう、いくら実業団とはいえ、コントロール抜群で、千葉県高校球界屈指の好投手の球を軟式の選手が打てるはずがない。実はその彼も2番手だったのである。1年下のH君のほうが、長身から投げ下ろす本格派豪速球投手として球界では評判が高かったからである(H君は当時の大毎オリオンズの勧誘をけって、地元の電電関東に入った)。
まあ、当時のチームは現在のサッカーで言えば、このたび、圧倒的な強さで全国制覇をした流通経済大付属柏高チームに匹敵する。
勝負は時の運、不運が重なり1点の重みに泣いて敗れた試合の話は、全国津々浦々に埋もれているはずだ。茂農野球部がそうであったように、「このチームが負けるなんて信じられない」と、地元の伝説になっているチームが沢山あるだろう。
茂原はバレー会場でした。駅前の案内所、茂農生
の手製だったように思います。また総体会場は、
どこも花で飾られています。自前の花もあるよう
でしょうが、前年開催地からの種子を引き継いで、
育てて会場付近に置かれるということも聞いてお
ります。
炎天下での水やり、駐車場の整理などなど多くの
生徒が「一人一役」で活躍していました。きっと
あの中にもたくさんの茂農生がいたんでしょうね。
最終日、組み立てた案内所を解体していました。
その角材の裏に作成者のサインされていたのが印
象的でした。