今は昔、本能寺会館で機動隊に抗議した
労働運動や学生運動華やかりし時代。日本には憲法9条があるから軍隊は無いという。今は自衛隊と呼ぶ。それ以前は警察機動隊というのがあった。
その日、京都市役所の前は労働者・学生と機動隊で埋まっていた。毎日のように日本の各地で大規模なデモや衝突があり、珍しい光景ではなかった。私は生徒の引率で修学旅行に来ていた。宿舎は本能寺会館。機動隊も神経をとがらせていたようだ。いつ流血の惨事があってもおかしくない。
朝方だったと思う。突然機動隊が本能寺会館に駆け上がってきた。生徒の部屋に乱入したのである。何事かと私も生徒の部屋に駆けつけた。見ると機動隊の隊員が生徒たちに向かって胸倉を掴まん勢い。
生徒が下の道路の機動隊に向かって何かを投げつけたのだと言う。「おかしい、機動隊に向かってそんなことができるような度胸のある者などいるはずがない」と私は思った。生徒に訊いてみると、「まくら合戦」をしていたら、いくつかが窓から外に落ちたのだと言う。それでも機動隊は承知しない。意図的に投げたのだと言い張る。当時の機動隊はそれほど神経がぴりぴりしていたのだ。
場所は本能寺会館の生徒の宿泊部屋。畳部屋だったかどうか記憶に無い。しかし、誰の許可も得ずに、機動隊がそんな所にづかづかと踏み込むのは、どうみても普通ではない。私には生徒を守る義務がある。断固として抗議した。
彼らの勘違いを認めたのかどうか、あやむやの中でしぶしぶ部屋から出て行った。本来なら学校長を通じて、機動隊責任者への厳重抗議をしてもいい場面であった。
本能寺の変があった当時の場所は現在の場所とは異なる。四条坊門の所にあって、その裏手にイエズス派の教会があったのだ。何かの古地図で見たことがある。しかし、上記修学旅行では我々が本能寺に宿っていて、その数十倍の丹波亀山勢に急襲されたような錯覚に陥った。
※追記
本能寺の焼け跡からは信長の焼死体が見つからなかったということだ。イエズス会教会からトンネルを掘り、ポルトガルから持ってきた爆薬を使い、信長を爆殺したという説がある。このことに関して、シントラの図書館には派遣牧師たちの日本からの報告書があるそうな。