元高校教師のブログ[since2007/06/27]

地元仲間とのウォーキング、ハイキング、サイクリング、旅行の写真入報告。エッセイや意見も。

旧甲州街道を歩く--(坂と寺院群)須賀町界隈から(遊女300人の)内藤新宿まで

2018-02-18 10:38:58 | ウォーキング

日時;2018-02-15
天気;晴れ/最高気温15℃くらいか。
同行者;鎌ケ谷ハイク&ウォークの会、メンバー6人
カメラ;Pentax X90

前書き--江戸時代の観光地や宿場には必ず女郎屋があり、また投げ込み寺と衣類を剥ぎ取って売る婆さん(奪衣婆)がいることが分かった。新宿は甲州街道の終点に近い。
なのに、四大宿場のうち品川・千住・板橋は分かっていたが、新宿だけは遠ざかっていた。
 新宿駅から文化服装学院の前を通り、初台方面へ甲州街道を歩いても、一向にそのような痕跡は無い。ところが、何と新宿御苑の北側が中心地だと最近分かった。投げ込み寺と奪衣婆を見つけたからだ。
  そもそも、内藤新宿という場所は、(江戸時代初期に)家康お気に入りで、三河からの家臣・内藤清成に(他の大名江戸下屋敷を遥かに超える)広大な土地を与えた。ところが、甲州街道は、日本橋から下高井戸まで距離があり過ぎるので、途中に宿場を設けて欲しいという声が上がり、内藤家の所領を一部割愛させて新たに作ったのが内藤新宿なのだ。現在の新宿御苑は内藤家屋敷跡だ。 

 話は飛ぶが、本能寺の変のとき、家康はお供の者わずかで堺にいた。その家康を救ったのが「伊賀越え」だ。忍びの頭領・服部半蔵の道案内で命からがら岡崎へ逃げ帰ったのだから、半蔵は家康にとって命の恩人
 甲州街道は他の街道と違い、後の江戸城で何か急変のときは、半蔵門から甲府へ逃げるために作った軍用道路。大久保に百人町があるが、これは鉄砲隊百人常駐の場所で、更に八王子には千人衆がいて、普段は百姓をしていて、何か異変があれば戦闘員になるという者を住まわせていただから、甲州街道は他の主要街道と異なり、特別な場合を除き、庶民が自由に行き来することはできなかった

 四谷見附というのがあるが、見附とは見張り場所。何しろ、監視カメラなど無い時代なので、赤坂見附など、各所にあった。
 さらに、江戸市中には木戸というのがあって、夜は閉めて往来ができなくなる。ために、鼠小僧などは、移動に屋根の上を走り回った。
 忠臣蔵討ち入りでは、本懐を遂げて本所の吉良邸から引き揚げるとき、刀や槍をかかえた異様な風袋の男たち47名が行進したというが、夜の明けぬ暗い道を泉岳寺まで無事にたどり着けるはずがない----。
 木戸が全て開いていた というではないか。これはもう純朴の田舎侍を唆した幕閣のやらせ芝居だろう。「後のことは心配せんでいい。幕府が良きに計らうから」と騙して殿中で切りつけさせた。
 「約束が違う」などと言われたら困るし、家臣たちの耳にも入らぬように、殿中刃傷事件後直ちに浅野内匠頭だけを他の者と切り離し、即刻首を切り落とした。---これが本当のところだろう---いやぁ、木戸から話がそれた。

 四谷大木戸というのがある。箱根の関所は有名だが、大木戸とは準関所。通行人は徹底的に調べられた。それが四谷大木戸で、現在ではその痕跡を見つけるのが困難だ。

徒歩コースとタイム(約8キロ)--*トイレ
 四谷駅(9:20)→三栄通り→(9:35)新宿歴史博物館*(9:45)→旧甲州街道→(10:10)愛染院(塙保己一)(10:35)→(10:45)西念寺(服部半蔵)(11:10)→(11:20)戎行寺(長谷川平蔵)(11:35)→(11:45)須賀神社(12:00)→(12:15)陽運寺(お岩)(12:25)→お岩稲荷(12:40)→メトロ四谷三丁目駅→(13:00)サイゼリヤ*{昼食・打合せ}(14:30)→四谷四丁目信号・大木戸跡→(15:10)花園公園*(円朝邸跡)(15:20)→太宗寺(内藤家菩提寺・閻魔堂・奪衣婆など)→正受院(飯盛り女投込寺)→成覚寺(奪衣婆など)(15:50)→(16:20)伊勢丹前・新宿追分→(16:30)JR新宿駅


須賀町周辺図---ZENRIN地図に「ペイント」で上書きしました。
 
四谷四丁目付近図---Mapion にペイントで上書きしました。


旧内藤新宿中心街---Mapion にペイントで上書きしました。

坂と寺院群--参照→坂と寺の町 –新宿・四谷- : 断想

愛仙院--塙保己一の墓所がある。七歳で失明したが、大変な勉強家。最高位の検校となったが、『群書類従』の編纂者。

 



西念寺--家康の恩人で伊賀忍者の頭領・服部半蔵の墓。江戸城に半蔵門の名が残る。

戒行寺--「鬼平犯科帳」で知られる長谷川平蔵の墓がある。実在の人物であった。

 

 
          前方建物内の左右を覗くと池波正太郎と長谷川平蔵の字がある

 
                                              『君の名は。』の舞台
  
                                           
須賀神社へ行けば、三十六歌仙歌絵が見れます。

陽運寺--こちらは田宮神社より後に建てられた寺。


歯むき出しの狐

於岩稲荷・田宮神社--こちらが本家のようだ。『東海道四谷怪談』の芝居をやる人は、その前に挨拶に来るそうだ。 


本日の同行者です。

大木戸外の内藤新宿

四谷大木戸跡--関所に準ずる施設だったというのに、これだけの痕跡。当所を見つけるのに苦労した。

花園公園--花園小学校の南に面しているので分かりやすい場所だ。
 此処に円朝の住居があったとのことだ。円朝と言えば、谷中の全生庵に墓がある。
 山岡鉄舟と親交があり、円朝の墓石には鉄舟の筆で「三遊亭円朝無舌居士」と刻まれている。

花園通り一帯の内藤新宿--江戸時代には数百軒の旅籠で賑わい、大勢の飯盛り女をか
 かえていた。
 松本清張・樋口清之著「東京の旅」によれば、明和9年(1772年)には、旅籠52軒飯盛女150人が公認されたが、その後評判を呼び、倍以上になったとある。
 飯盛り女とは、お茶碗にご飯を盛る女給とは表向きで、実際には遊女である。だが、吉原の遊女とは違い、芸などなく品位に欠ける者たちであった。
 彼女たちは死後、近くの寺に投げこまれ供養などしてもらえなかった。正覚寺には明確に痕跡があるが、此処だけでは溢れてしまうので、正受院も太宗寺も投げ込み寺と考えられる。死体の衣を剥ぎ取る奪衣婆像があるので、それと分かる。

 現在の花園通りを中心にして、新宿御苑北側の「かめわり坂」通りまで、かなり広範囲に渡り、賑わったことだろう。引手茶屋は勿論、いろいろの店や娯楽施設もあったと考えられる。現代の歓楽街・歌舞伎町は、こうした歴史の延長上にあると言える。  

太宗寺--内藤家の菩提寺で、焔魔堂や江戸六地蔵など
 参照→東京の内藤新宿・大宗寺で人喰い伝説の残る閻魔像と奪衣婆に会う ...

 
死体から衣を剥ぎ取る奪衣婆像     江戸六地蔵(3番)


閻魔大王

正受院--奪衣婆像、針供養
 参照→新宿二丁目の子育て老婆尊 正受院にて~西陣織屋のお寺見物 | 西陣 岡本

成覚寺--飯盛女の投げ込み寺、恋川春町の墓
 参照→成覚寺新宿新宿にある浄土宗寺院、投げ込み寺、子供合埋碑、旭 ...

新宿追分--青梅街道と甲州街道の分かれ道。軽井沢の外れにある信濃追分*と異なり、雰囲気は全くなく、この痕跡場所を探すのに苦労した。道路を挟んで伊勢丹の真向かいあったのが、以下の場所。
*→北国街道紅葉スポット巡り--(2)小諸のホテル~軽井沢→(写真)「分去れの道標」


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